量子コンピュータの現在地とこれから
川畑史郎(法政大学)
2023年師走の出来事
2023年師走に量子コンピュータに関する2つの大きなニュースが飛び込んできました.1つはアメリカIBM社による1121物理量子ビットの超伝導量子コンピュータ“Condor”の実現です.これは現段階で世界最大集積度の量子コンピュータとなっています.IBM社はFTQC(Fault-Tolerant Quantum Computer: 誤り耐性汎用量子コンピュータ)に向けた研究開発ロードマップも発表しました.もう1つは,アメリカQuEra社による48個の論理量子ビット(複数の物理量子ビットから構成されるエラー耐性を持つ量子ビット)を搭載した中性原子量子コンピュータの実現です.これらのニュースは,量子コンピュータの研究開発フェーズが,中規模量子コンピュータNISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum device)からFTQCへ移り変わりつつあること示唆しています.
その一方で,ビジネス利用に資する本格的FTQCの登場まで,20~30年以上の長期的な研究開発が必要です.ここでは,最近の動向を交えながら,量子コンピュータのこれまで,現在地,これからについてお話ししたいと思います.
これまで:ノイジーな量子コンピュータと量子エラー訂正
2018年にカリフォリニア工科大のJohn Preskill教授は,量子エラー訂正機能を搭載していない数十~数千物理量子ビット規模の量子コンピュータのことをNoisy Intermediate-Scale Quantum device = NISQと名付けました.NISQは物理量子ビット数が少なくノイズの影響を強く受けます.そのため,古典コンピュータの助けを借りながら情報処理を行います.これまでNISQ向けの実用的アルゴリズムが多数提案され,NISQ実機を用いた実証実験が世界各地で行われてきました.しかしながら,現段階において古典コンピュータに対するNISQの優位性は,理論的にも実機実証においても明確に示されていません.
そのような状況の中2021年あたりから,本命FTQCの要である量子エラー訂正に関する実証実験が行われるようになってきました.Google社は,2023年に超伝導量子コンピュータ“Sycamore2”を用いて1論理量子ビット(49物理量子ビット)の実現と表面符号の実証実験に成功しました.表面符号とは,2次元格子状に量子ビットを配置して量子エラー訂正を行う手法です.また同年に,アメリカQuantinuum社は,4論理量子ビット(24物理量子ビット)のイオントラップ量子コンピュータを用いて,量子エラー検出と量子アルゴリズムのデモンストレーションに成功しました.ただし,これらの実験においては,損益分岐点を超えた量子エラー訂正は実現できていませんでした.損益分岐点とは,量子エラー訂正を用いることで,量子エラー訂正をしない場合に比べてエラー率が減ることを意味します.
一方,アメリカYale大学は,ボソニック符号による1論理量子ビットを超伝導量子回路を用いて実現し,損益分岐点を超えたと発表しました.ボソニック符号とは,連続物理量に量子ビットを埋め込む量子エラー訂正符号です.このように直近3年間でFTQCの基盤となる量子エラー訂正に関する基礎研究成果が着実に蓄積されてきました.
現在地:誤り耐性汎用量子コンピュータ時代の夜明け
2023年12月のIBM社とQuEra社の発表は,量子コンピュータ業界に大きな衝撃を与えました.IBM社は,これまで繰り広げられてきた集積度競争から一時的に撤退し,FTQC実現に向けて方向転換することを宣言しました.またQuEra社は48論理量子ビット(280物理量子ビット)の中性原子量子コンピュータを実現しました.これによって,本格的なFTQC時代の幕が開けたと考えられています.
しかし,実際にはまだまだ多くの課題が残されています.たとえば,QuEra社の量子コンピュータにおいては,量子エラー検出しか実装できていないため完全な論理量子ビットは実現できていません.また,中性原子量子ビット間の量子演算のために光ピンセット(レーザ光により原子を補足する技術)を用いて原子を輸送する必要があるため,計算時間が超伝導量子コンピュータに比べて3桁程度遅くなるという致命的な弱点もあります.そのため,まだまだ多くの技術課題を地道に解決する必要があります.
IBM社とQuEra社の発表から現在に至るわずか数カ月の間に,FTQCに関する重要な成果が世界各地から続々と報告されています.2024年1月に東京大学古澤明研究室は,単一光パルスを用いたボソニック量子ビットを実現しました.光量子コンピュータの魅力として,冷却や複雑な配線が不要であることが挙げられます.古澤研究室は,超高速光通信技術を融合することで,100GHz帯域の超高速量子コンピュータの実現を目指しています.
また,2024年2月にフランスAlice&Bob社は,ボソニック量子ビットとLDPC(低密度パリティ検査)符号を用いると,わずか758物理量子ビットで100論理量子ビットが構成できることを理論的に示しました.一方,これまで王道であると考えられてきた2次元表面符号の場合,1論理ビットを構成するためには,数千~数万の膨大な数の物理量子ビットが必要となります.そのため,LDPC符号は表面符号の対抗馬になり得るとして,近年大きな注目を集めています.
さらに,2024年4月にQuantinuum社とアメリカMicrosoft社は,4論理量子ビット(30物理量子ビット)のイオントラップ量子コンピュータを実現しました.さらに彼らは,量子エラー訂正によってエラー率を〔エラー訂正を行わない場合に比べて〕1/800に低下させ,損益分岐点を超えたと発表しました.
これから:誤り耐性汎用量子コンピュータに向けて
この半年程度で,FTQC時代への移行を示唆する重要な成果が続々と報告されてきました.今後も多くの成果が次々と報告されるでしょう.一方で,これらの画期的な成果は,研究者やエンジニア達の長い年月をかけた地道な基礎研究の賜物であることを認識する必要があります.
また,本格的FTQCの実現のためにはまだまだ多くの技術課題を解決する必要もあります.たとえば,超伝導量子コンピュータの場合,量子ビット集積回路の歩留まり,膨大な数の配線問題,冷凍機のモジュール化・大型化・低消費電力化などがあり,中性原子量子コンピュータの場合,原子輸送時間の大幅な高速化,高忠実度化,レーザーの高強度化・安定化などの多くの課題があります.したがって,実ビジネスで利用できるFTQCが登場するまで,20~30年以上の長い時間が必要であると私は考えています.そのため,「急がば回れ」と「千里の道も一歩から」を常に肝に銘じながら,来るべきFTQC全盛時代に向けて産学官が一丸となって研究開発を長期的かつグローバルに推進すべきです.
最後になりますが,我が国においては,2023年に理化学研究所と富士通が国産超伝導量子コンピュータの開発に成功しました.国産量子コンピュータが世界の表舞台に登場したことで,今後の進展に国民から大きな期待が寄せられています.今後我が国において,さまざまな方式の量子コンピュータハードウェア・ミドルウェア・ソフトウェアの基盤研究開発と同時にユースケース探索などの商用利用に向けた取り組みをより一層加速すべきです.情報処理学会員の皆様が,量子コンピュータ分野へ参入してくださることを心から願っています.
(2024年5月1日受付)
(2024年6月10日note公開)