コンピュータ・サイエンスは蠱惑的だ.
堀元 見(YouTuber・作家)
「ゆるコンピュータ科学ラジオ」というYouTubeチャンネルを運営して生活している.コンピュータ・サイエンスについておもしろおかしく話す対話形式の番組だ.大学の専攻をこんな形で活用するとは夢にも思わなかった.
大学4年生のとき,機械学習についての難解な論文を読みながら,「僕に研究は向いてないんじゃないだろうか.YouTuberにでもなったほうがいいんじゃないか」と思った.普通の人なら気の迷いで済むのだけれど,当時の僕は脊髄反射で生きているアホだったので,本当に研究室を飛び出してYouTubeを始めてしまった.すでに決まっていた大学院の推薦を蹴飛ばして.
それから数年,今はYouTuberとして安定した生活が送れるようになっている.
僕は大して何もできない人間だけれど,得意なことが1つあった.小難しい話を,おもしろく説明することである.自分の天職が「おもしろ説明オジサン」であることを自覚してから,急激に売れ始めた.
面白説明オジサンとして,何でも説明してきた.ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の戯曲のあらすじとか,ペンローズ(Sir Roger Penrose)の描いた宇宙像とか,驚くべき節税の最新手法とか.何の専門性もない人間だけど,多様なジャンルの文献を漁って,それを面白い説明に翻訳し続けた.
ある程度売れて好き勝手にやれるようになった時期,腰を据えて面白説明をするテーマを1つ決めようと思った.僕が選んだのはコンピュータ・サイエンスだった.かつては自分に向いていないと飛び出した学問の庭に,気づけば戻っていた.
コンピュータ・サイエンスは,面白説明のしがいがある分野だ.僕が大学で使っていた教科書『アルゴリズムとデータ構造』の中に,こんな一節がある.
10年が経っても,このフレーズが念頭を去らない.コンピュータサイエンスには「巧妙なトリック」と「快い驚き」が溢れている.クイックソートを初めて聞いたときの快い驚きが,ニューラルネットワークを初めて聞いたときの快い驚きが,脳裏に焼き付いて離れない.だから,僕はこの学問を再び選んでしまった.
コンピュータ・サイエンスは蠱惑的だ.一度は心が折れてしまった人間も別の形でかかわりたくなる,魔性の魅力がそこにはある.
そしてその魅力を支えるのは,間違いなくこの会誌をお読みの皆さまだ.巧妙なトリックを考え出して,快い驚きを与えてくださることに対して,心からの感謝を申し上げたい.
(なお,僕も物書きとしていくつか,巧妙なトリックを発見している.その代表は「巻頭コラムでは,読者にオーバーにお礼を言うと好感度が上がる」というものだが,これはどちらかというと「不快な驚き」に繋がりそうなので,胸に秘めておこうと思う)
(「情報処理」2024年2月号掲載)