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お財布に火がついて、党員になる。No.こ

前回、イオの過去生でのお話を、動揺したままで書いてしまいましたが、党の代表(ただ今、役職停止中)のことともなると、気になる人もいると思います。
しかも、ちょっと、地球の、さらには日本の、現実に近いあたりの昔の固有名詞が関わってくるような話だと、気になってしょうがない人もいると思います。

なので、日本じゃない場所で、この方と一緒にいたらしいときのことを、ついでに恋愛とは関係ない間柄だったときの話なので、書こうと思います。

え?今回は、お金の未来について考えていることを書くって、言ってたのに。

はい。
お金の概念的な発端を、せっかくなぜか思い出したので、ここを覗いてみて、そこから現在の状況を貫通して、未来を見てみようっていう、そんな補助線的な回にしようと思います。

お金の未来のために。

それなら、お許し願えます?



今回登場する場所というのは、おそらくインドのあたりだろうと思われます。
なぜならインドの有名な川によく似た川のほとりで、イオが、新しく誕生した概念への感謝のあまりに、夜通し踊っていたという記憶があるからです。←現在のイオの感覚からいうと、やや絶句。

文明の雰囲気からすると、かつてアトランティスと呼ばれていたあたりの可能性もありますが、今回は、宗教にも関係のあるお話で、「インドの方が分かりやすいよ」と党の代表(ただ今、役職以下略)が言うので、あえてそうします。

イオが感謝に満ちたその概念とは、数字、数のことです。

そしてこの件は、実は愛の概念につながる話でもあります。

数と愛。

この二つってね、地球の中でもとても大きな?重要な?概念だと思うのですが、どうやら表裏一体、一緒に生まれた節があるのです。

少なくとも、夜通し、川のほとりで一人で踊っていたイオにとっては、そうでした。



党の代表(ただ今以下略)は、この数の概念を一緒に生み出したというか、研究していた仲間でした。

あ、この過去生での代表とのエピソードは、実はこれだけだったり。

喧嘩していた覚えもないし、片思いしていた記憶も両思いだった記憶もありませんが、数の世界については、大真面目に相当話し合いました。

彼は、ここからさらに発展して、お金という概念の方へ進んでいきました。
お金というのは、この、数と愛の子どものような存在なんですって。

お金の概念に疎いイオは、この件を最近知りました。



数の概念、いわゆる私たちが分析や計測の結果として、いかようにも扱える数値の概念が成立したのは、インドだと言われています。

それまでにも、もちろん数を数える道具としての原始的な数の概念は存在していましたが、グラフ上の、各々の数が均等に配置されて、どこまでも続いているような感覚を得られるものとしての数は、宇宙の惑星やその配列に関する観察から地上に還元された幾何学と、数を計算式に入れて別の位相における解決を排出する代数学との関係性で生まれており、これらの現実との適度な距離感が、それまでよりも遥かに客観性を持って、事象を観察分析できるようにしてくれました。

同時に、その数値による分析結果を、日常では言葉の通じない他の民族にも、ほぼ誤解なく共有できるようになりました。

この、一見万能で、「どこまでも続く」ような認識が、虚数を含む各種の計算や莫大な数値の算出を可能にしたわけですが、この感覚は、直方向の時間の概念や永遠の概念にも関係するようにもなり、ここが、最大の誤解を数の概念に加えてしまったような気もしますが、それはまた別の話。

一方の愛は、同じくインドで興った、現在の世界でも有数の宗教である仏教から生まれた概念です。
イオにとって、この「愛」という概念は、日本人だからなのか、ちょっと濃すぎて扱いづらいものなのですが、本質が他者を敬う気持ちから発していることに、異論のある人は少ないと思います。

っていうような感じで、党の(以下略)とイオは、他のメンバーも含めて、毎日難しい調子と言葉で、喧々諤々していたわけなのです。



インドで生まれた数の概念と、仏教における愛の概念。
そして、その間をつなぐ、もしくはその二つの子どものような存在であるというお金。

イオが考えるところでは、お金というのは、違う能力や種類の他者及び他者の作るものに、嫉妬せずに、適切に評価を下して価値交換の対象とするための、つまりは自分とは異質の他者を、適切な距離で愛せるようにするための第三者機関的存在だと思っています。

異質な他者を、いきなりストレートに、何も指標なしに愛するというのは、難しいものです。

彼らが自分たちと別の能力を保持していれば尚更のこと。
相手の能力を否定せず攻撃せず、かといって牽制をするだけにもしないで共存の可能性を探るには、ただのコミュニケーション以上に、共有できる評価軸をお互いに持つ。
それがお互いの平和な関係性を構築する土台になってくれます。
この評価軸の共通の目盛りのようなものを体現したのがお金、お金というよりは、お金には常に具体的な金額がついて回るものなので、「金額」なんじゃないかなってことです。

もっと人間臭い話で言うなら、争いが起こりそうな両陣営があったとして、片方が、有利な立場の相手に自分の立場を示している場合、自分自身(もしくは自分に所属する女性の子宮)を差し出すのでなく、自分が作ったもの(物質)を間に挟んで、両者に立ち会ってもらう。
そこでお金による価値交換(ある意味、両者の納得が得られれば、完全な等価交換である必要はない)を行なう。
そのことで直接に侵食されること、傷つけられることが少なくなる。

特段、確固たる理由もないのに優位性を誇示したがる相手、マウントをとってくる相手の視線を、自分自身から、目の前に差し出したものに転嫁させて、攻撃や侵害を逃れるというときの防御手段になってくれる、ということです。



でもこれは、非常に匙加減の難しい問題でもあるなぁと、イオは思います。

お金よりも、愛や、もっと言うなら信頼を差し出した方がいい場合もあるしね。
愛や信頼を差し出すよりも、お金を差し出した方がいい場合も、確かにあるしね。

過剰な愛は、比較や評価によって、割と簡単に、数やお金にすり替わっていきます。
過剰な数字による評価は、愛ある関係を御しがたい支配に変えてしまいます。

愛は比較する/されることを最も嫌うし、
数字は感情的な忖度を最も嫌う。

愛と数の子どものような存在であるお金から、愛と数をそれぞれに、概念として、欲求や感情過多な現場からは、適切に選り分けることが必要な時代なんじゃないかなって。

あのね、イオは側から見ていただけだったんですけれど、当時の仲間だった党の(以下略)は、このお金と愛の問題で、何やら人々の間でもみくちゃになって、大変そうだったんです。

あら?今とあんまり(以下略)。



これに関連した、数と人間的な感情が混雑しているような話として、数の表記に使われる「数字」についても、数字が置かれている、つまり人間に閲覧される現場において、どうも人間の感情が消化不良になっているらしいと、イオは最近、聞きました。

誰に聞いたのって?
数字にです。

人間の感情によって数字が消化不良を起こしている、というのはどういう意味かというと、人間は、競争原理に数字を持ち込みはじめてからこのかた、数字を見て気持ちが厳しくなったり、がっかりしたりしてきましたよね。
そういうエネルギーが、数字に溜まりすぎて、スムーズに消化吸収できない、もしくは発散できずにいるらしいのです。

学生だったとき、テストの点数に記された数字にがっかりした人は少なくない気がしますが、その点数として書かれた数字だって、その現場でちょっと困ったりしているのです。

ある女の子がイオに、小学生だったあるときにテストの点数を見て一瞬がっかりしたら、その点数の数字から、「こんなところでお会いするはずじゃ」って言われたの、だから、そういうがっかりはやめようと思ったの、って、聞いたイオが爆笑していいのか、一緒に悲しんであげたらいいのか分からない、おもしろエピソードを教えてくれました。

子どもたちに限らず、先生も、あるいは子どものテストの点数を見て眉を顰めるお母さんのエネルギーも、こうした、数字との関係性を悪化させる要因になっているだろうなぁと、イオは女の子の話を反芻しながら、思いを馳せました。

数字の中でも、物質界を分析したり観察したりするときに使う数字は「分かりやすく」するためですが、人に対してつけられる数字はいわゆる判定、ジャッジであることがほとんどですよね(単に人数をカウントしたりする場合は、だからこれとは別です)。



数字との円滑で穏便な付き合いのために、人へのジャッジのために数字を使うのは、どんな場面でも、もうやめた方がいいかもしれないなぁ。

インドの有名な川で、一晩中踊っていた自分を、やや滑稽な奇妙な様子に感じつつ、イオは改めて、数の概念が生まれてきてから、本当に長い長い時が経ったんだなぁと、感慨深く思うのでした。

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