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頑張ることの経済合理性
ふと目にしたもので、なかなか興味深いことを書いてある記事がありました。ちなみに有料部分は読んでいないので、冒頭のみ。
キャリアやお金は最終目的ではなくそのゲームで得られた戦利品を幸福感や快適性に変換する必要がある。このルートの変換効率は商品がコモディティ化して安く高品質な製品、タダみたいな金額で映画見報だなNetflixや冷凍技術の発達で美味しくなった冷凍食品などの産業が成長するほど不経済化する。
タダみたいな金額で映画やドラマが見放題なNetflixというのは本当にその通りで、質の高い娯楽が手頃な価格で手入る時代ですよね。
①家族や住宅などの大型の買い物はそもそも必要がなくなり
②そのための勉強や就職のコスパは社会保障費の増額とともに悪化し
③かつダラダラするためのスマホ、Netflix、冷凍食品は格安になっている
という状況で立身出世に投資しようという発想は正気の沙汰ではないという公算が成り立つ。欲しくもないものを長時間の努力で手にいれるほど馬鹿らしいことはない。
懐古主義的な老人世代として、頑張ることを信奉しコンサバティブな立身出世を追うのも一つの価値観として否定しないが、急激に少子高齢化している日本ではすでに大多数のプレイヤーは新しいゲームを始めている。
総合商社で今なおハードワークする筆者は古い価値観を体現しているとでも言えるでしょうか。
頑張ることは不経済なのか。仮に経済合理性がないのであれば、なぜそれでも人は頑張り続けるのか。考えてみたいと思います
(尚、冒頭引用の記事は興味深い内容と思い引用している次第なので、批判等する意図は全くない点、念の為申し添えておきます。)
頑張ることの経済合理性
自らこのような見出しを打っておきながらではありますが、冒頭からこの命題の設定自体の妥当性について議論をせざるを得ません。
経済合理性とは『限られた資源を最も効率的に活用し、最大の利益や最適な結果を得ることを目指す考え方』。
人生を評価する尺度として利益は恐らく適切ではないでしょう。たとえ大きな富を築いたとしても病気や怪我、苦痛といった不幸全般に見舞われ続ける人生を望む人は少ないですよね。人生における「最適な結果」として、最も受け入れやすい尺度はやはり幸福度でしょうか。
とすれば、人生を語るうえでの経済合理性とは『限られた資源を最も効率的に活用し、最大の幸福を得ることを目指す考え方』と言い換えることができます。
また、人生において特に限られている資源は時間であるから、『最小限の投下時間で、最大の幸福を得ることを目指す考え方』とも言えるかもしれません。
ここで直面する課題が、幸福の程度を一般に計測することができるのかという点でしょう。
Chat GPTによれば一般的な幸福の定義は下記の通りとのこと。
1️⃣ 主観的幸福(Subjective Well-being, SWB)人が自分自身の人生に満足しているか、ポジティブな感情が多いかどうかを基準にする。
「自分は幸せだ」と感じることが重要。
例:「人生に満足しているか?」「毎日ポジティブな気持ちでいられるか?」
2️⃣ 客観的幸福(Objective Well-being)収入、健康、教育、社会的支援、生活環境など、客観的な要素で幸福を測る。
例えば、平均寿命や所得水準が高いほど幸福度も高いと考えられる。
幸福とはそもそも多分に主観的なものなので、その程度を正確に測ることは不可能です。それぞれの事象が本人の幸福度に寄与するかは、当人が帰属する文化や世代によって共有されている価値観によっても変わってくるでしょう。
例えば、接待で銀座の高級寿司に連れて行けば日本人は喜ぶ人が多いでしょうけど、寿司が苦手な外国人を連れて行っても当人にとっては寧ろ苦痛になるだけです。
あるいは、出世したいと思っている人にとっては、やはり出世することが幸せなのであって、頑張るのをやめてアルバイトで稼いだお金でNetflixを見た方が良いと言われても全く話が噛み合いません。ここでは出世することは手段ではなく、目的になっています。Netflixを見て幸せになろうが、出世をして幸せになろうが当人の勝手ですね。
より多様な価値観が社会に受容されるようになった現代社会においては、一律に幸福を測ること、ひいては『最小限の投下時間で、最大の幸福を得る』、つまり、頑張ることの経済合理性を所属する社会階層や世代、生まれ育った国などを抜きに一般的に議論すること自体ほとんど不可能といえそうです。
したがって、ここでは価値観の同一性が比較的高い、総合商社に勤める会社員という小さなグループで、頑張ることの経済合理性についてもう少し深堀して考えてみたいと思います。
頑張り続ける中年商社マン
筆者が働く総合商社という世界では、今日もオジさんたちが元気に頑張っています。平日については残業時間というものを考える必要がないくらいに、朝起きてから夜寝るまで、基本的に働き続け、休日も返上してゴルフや資料作りに追われるという生活スタイルも今なお決して珍しくはありません。
彼らは、なぜ貴重な資源である時間を投下し続け、頑張り続けるのでしょうか。
私の感覚では、すくなくとも30歳~50歳くらいのいわゆる中堅とか中年世代において、頑張り方の程度は下記のようなイメージです。
①絶対に負けないという意気込みで仕事に全力投球し頑張り続ける:2割
②人生仕事だけとは思わないが、仕事でも評価されたいので頑張る:7割
③窓際も厭わず、クビにはなりたくないが、頑張るつもりはない:1割
①と③はある意味分かりやすい。
①については、出世すること、権力を掌握すること、あるいは成功すること自体が目的化していて、当人たちの幸福感に直結しているので、頑張ることが合理的といえます。頑張ったからといって出世できるとは限らないものの、頑張らない限りは出世できないことは明らかです。
③はいわゆるウィンドウズ2000(窓際で年収2,000万円稼ぐ人たち)。仕事では使えないという評価を確立したうえで、ヒマな部署で最低限の時間で日本の会社員としては最高水準の年収を稼ぐので、これはこれで経済合理性はあるといえるでしょう。
難しいのは②です。私も自分自身これだと思っています。
仕事への投下時間と給与のバランスという観点だけに絞ってみると、恐らく③の方が経済合理性が高い。②の場合は、運にも恵まれて役員クラスまで出世して破格の待遇を得るというアップサイドも残るものの、一方で仕事に全力投球する①の層に勝つのは難易度が高いので、その確率は限定的。アップサイドの確率が低いにも関わらず、それなりに頑張り続けるので、③に比べると相当の時間を仕事に投下することになります。その割に③との給与差は大してつきません。
では、この人たちは給与面での経済合理性がないにも関わらず、なんのために頑張り続けるのか。これは承認欲求や知的好奇心、探求心といった人間の本能に衝き動かされているからでしょう。
人間は社会的な動物なので、承認欲求は非常に強い動機になっています。仕事で一定のレベルのパフォーマンスを発揮しないと職場の上司や同僚、後輩からも信頼を得られない。そうした良好な人間関係や周囲から評価されること自体が当人の幸福に繋がっているのだから仕方がありません。ある程度頑張る方が当人たちが幸せなのです。
人間というのは非常に知的好奇心が強い生き物で、だからこそこれほどに文明が発達してきたといえるでしょう。仕事のために勉強すること、仕事に関連して専門領域を深堀すること自体が、当人の幸福度に寄与しているといえます。
ここで、頑張ることの経済合理性、『最小限の投下時間で、最大の幸福を得る』という命題に立ち戻ります。
これまで中年商社マンは、給与を消費して獲得する財やサービスから得られる幸福感に加えて、承認欲求や知的好奇心、探求心を満たすことで得られる幸福感を動機に頑張っているのではないかと仮説を述べました。
こうした観点も含めて捉えると、①~③の内、どのような身の振り方をするのが『最小限の投下時間で、最大の幸福を得』られるのかという点については、やはり結論が出せませんね。
権力欲や成功意欲が特別強い人は①に振り切って承認欲求が十分に満たされる方がが幸せなのでしょうし、趣味をたくさん持っている人は職場では承認欲求が一切満たされず、不遇の立場に置かれたとしても、仕事に投下する時間を最小化することで、趣味等プライベートの時間を最大化することを通じて幸せを高めることができるのでしょう。
②の生き方は一見中途半端にも映りますが、職場で出世頭にはならなくとも、周囲からはある程度信頼され、プライベートにもある程度時間を割いて趣味等の充実を図るという生き方によって、当人たちにとっては幸福を最大化できること自体、それほど違和感はないように思います。
詰まるところ、自分にとって何が幸せなのかに向き合い、どこに時間を投下するのが最も効果的なのかを見極め、周囲に流されることなく、時間の割き方に関するポートフォリオを適切に管理していくことが大切といえそうです。
高価な娯楽の価値
前段で触れた通り、幸福自体が主観的なものなので、価値観が異なる人同士で、頑張ることの経済合理性を議論すること自体、話が噛み合いません。
総合商社でハードワークしながら、海外旅行や高級レストランでの食事に興じるのと、アルバイトでほどほどに働きながら、家でNetflixを見て冷凍食品に舌鼓を打つのとでどちらが満足度が高いかは他人が決められることではないですよね。
ここでは、給与を消費して獲得する財やサービスから得られる幸福感について、少し深堀して考えてみたいと思います。
ここで、また引用の記事からの抜粋です。
現代の若年層は生涯未婚率が上昇する以上、高い買い物が人生で存在せず、海外旅行やラグジュアリー製品が欲しくなければ頑張る必要がない。そうして頑張って手に入れたバーキンですら、Netflixのクリストファーノーランの映画と比べて「価値がある」というのは主義や価値観の領域になっている。
バーキンとNetflixのクリストファーノーランの映画のどちらに価値があるかは価値観の領域というはまさにその通りでしょう。
ただ、ここで注意しておかなければならないのは、お金があればバーキンも買えるし、クリストファーノーランの映画も観れる一方で、お金がなければバーキンは買えないということでしょうか。
筆者は、そもそも物持ちが良いタイプで、買うモノももともと高級志向というわけでは決してありません。寧ろ、ブランドものを買うことはどちらかというと消極的。ただ、吝嗇というわけでもないため、収入が上がるに連れて自ずと買うモノの価格帯が少しずつ上がってきています。勿論、安くて良いものはそのまま安いものを使っているため(ユニクロが典型例)、正確には買うモノの価格帯の幅が広がってきています。
収入が高い、お金があるというのは選択肢が増えることでもありますよね。
買うモノの価格帯の幅が広がってきてから感じることは、購入できるモノやサービスの幅が広がると、経験の幅が広がっていくということです。そして、経験の幅が広がると、読書や映画・ドラマを鑑賞した際にも、その理解度に奥行きが広がってきます。
例えば、ドラマや映画でマセラティに乗っている人物が登場したとして、マセラティを実際に買って乗ったことがある人と、ない人とではひとつひとつのシーンに対する文脈理解の解像度にどうしても差が生じてきます。マセラティを買ったことがない人は、その価格帯や乗り心地、マセラティのサービス、購入後に係るメンテナンスに要する費用に対する具体的なイメージが湧きません。
ワインやカクテルも同じでしょうか。その道に造詣がある人であれば、登場人物が何をオーダーしているかという情報からでも読み取れる情報がありますが、自身に経験がないとそのように立体的に場面を理解することができません。
この点は、海外旅行や海外在住経験も同じです。日本の映画やドラマを見ると、駅名や著名な景色を画面のなかで見ただけで、我々日本人は無意識のうちに様々な文脈や背景を読み取っていますよね。舞台が瀬戸内海の小さな島なのか、あるいは大阪なのか、それとも福島なのか。映画やドラマは、舞台設定だけで、視聴者に様々な情報を伝えることができるものです。
これが例えば、英国の地方都市が舞台の海外映画や海外ドラマになると途端に、社会的・文化的・地理的背景知識がないために文脈理解の解像度が一気に下がります。
その際に、その英国地方都市に住んだ経験があれば、途端に理解度が上がりますし、旅行で一回訪れたことがあるだけでも随分違いが出るでしょう。
経験の幅が広がると、このような形で日常的な低価格の娯楽であるNetflixの視聴や読書にすら還元されていきます。
高い財やサービスが、必ずしも低価格のそれより幸福感をもたらすわけではないのは間違いありません。高級ホテルで彼女と喧嘩して過ごす夜より、安宿で友人と飲み明かす夜の方が全然楽しいなんてことはよくありますよね。
ただ、お金があれば消費できる財やサービスの選択肢が広がること。そして、選択肢は大いに越したことはないこと。経験の幅広さは他の体験価値にも影響を与えることは指摘しておきたいと思います。
一方で、高い給与収入には、可処分時間とのトレードオフの問題があります。得てして、高収入を得ようとすると激務になりがちで、仕事以外の可処分時間が少なくなりがちです。
給与が高くても可処分時間が短いのであれば、給与を下げてでも可処分時間を増やし、低コストの娯楽にのんびり興じた方が幸せなのではないか。
最後にこの点についても考察しておきます。
総労働時間と資本蓄積の観点
高収入を得る手法は、現代社会においては非常に多様化していると思います。YoutubeやSNSを通じて、非伝統的な形で1,000万円以上を稼ぐ人も世の中にはたくさんいます。
複雑化を避けるために、ここでは世の労働者の多くを占める会社員について考えてみたいと思います。
一般に、傾向としては給与が高い大企業に就職するためには、学生時代に勉強に多くの時間を投下する必要があるといえるでしょう。逆に、勉強などたいしてせずにアルバイトで生計を立てていこうと考えた場合は、学生時代においては可処分時間が相対的に長いでしょう。
では、大学卒業後から30歳前後くらいまではどうでしょうか。ここでも、金融機関やコンサル、総合商社などに就職した場合は、仕事や勉強に相当程度の時間を充てる必要がありますので、可処分時間が相対的に限定されます。アルバイトで生計を立てる場合は、家賃が安いところに住んで低コストの娯楽で満足する限りにおいては、可処分時間は長いでしょう。
ただ、この辺りくらいからひとつ大きな違いが生じてきます。資本の蓄積です。
給与収入が高い場合、極端に支出を増やさない限りにおいては、年功序列型の日本企業においては特に30歳前後で給与収入が大きく伸びてくることが多いので、この辺りから一気に資本が蓄積していきます。
労働者としても資本市場に参加しつつ、資本家としても株式市場のリターンを享受する立場に移行していきます。
40歳、50歳と年を追うにつれてこの差はいよいよ顕著になっていきます。労働者としての給与収入に加えて、資本から生み出されるキャピタルゲインや配当収入により、何もしなくてもお金が増え続けていく状態です。
ちなみに、一例として、私の場合は一昨年、昨年ともに資本から生み出される収入だけで、それぞれ優に1,000万円を超える収入を得ています。過去2年間は株式市場のリターンが非常に高かったことを差し引き、市場の過去平均リターンを前提に控えめに見積もっても、現時点で年平均400万円~500万円の収入は堅く、これは今後基本的には伸びていくばかりです。(あくまでも平均。株式市場は単年ベースでは下落も当然あり得るため。)
つまり、給与収入の多寡や支出の程度によっても変わりますが、30歳~50歳の間に、少なくともアルバイトの年収程度は働かなくても手持ちの資本から勝手に産み出される状況が生じます。
つまり、大企業会社員型人生とアルバイト型人生との間で、可処分時間の長さが徐々に逆転していく現象が生じていきます。私の周りでも既にFIREしている人もいますし、50歳前後でリタイアすることも決して珍しい話ではありません。
一方で、給与収入が必ずしも高くない場合、最近では70歳や80歳を過ぎても働いている方も珍しくないですよね。
資本から得られる収入は、労働を伴わないため、非常に効率が良いです。資本が蓄積するにつれて、労働への投下時間に対する総収入が一気に伸びていきます。
大企業会社員型は、若年期に可処分時間を削って給与収入を伸ばすことで、資本蓄積を加速させ、労働を伴わない収入を増加させることができます。これにより、人生全体における総労働時間を限定し、可処分時間を延ばすことが可能であることは留意しておく必要があります。
まとめ
何によって幸福感を得られるかは人によっても変わりますが、同じ人であっても時期や周囲の環境によっても変わってくると思います。仕事が面白い時は残業していてもワクワクしますし、嫌な上司や同僚が近くにいたら、職場にいる時間は最小限にしたい、早く仕事なんて辞めてしまいたいと思うこともあるでしょう。
自分が何によって幸せを感じるのかという点は時折見つめ直し、自分の生き方がそれに対して効果的なアプローチになっているのか、振り返りたいものです。