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ロイホでタラタラ。#1 四つ葉のクローバーが「お~い」


話し手:いわいあや(い)、古内一平(古)
編集・ライティング:藤田梨紗




時間って不思議

い:前にもしたかもだけど、時間が点になったら、止まるっていう感覚じゃないですか。映画でもその世界全部が止まった状態で存在していて、主人公だけが動いてるみたいなシーンあるじゃないですか。でもそうじゃなくて、時間が止まったら何も存在しなくなる。時間が止まるってこと自体が、もう生命が存在しないっていうか。なにもないゼロの状態。だから、時間が止まったと感じる時間も存在しない。やっぱり時間が動くことで生命は生きてるし、だから、時間が存在しないと生命は生きていけない、みたいなことを思ったんです。

古:なるほど

い:だから、時間は円環するんじゃないかっていう。円環せざるを得ないというか。そうでなければ存在ができなくなる。だから、ゼノンの矢ってそれ自体がおかしな問いなんだなって思うんです。 

古:時間という概念でいうと、そもそも時間というものが存在するのかどうかっていう話もありますよね。

い:あ~、存在しないって言いますよね。

古:宇宙についての公式を出したとき、そこに時間は含まれないっていう話があって。時間というものは、結局何なのか分からない。ただ、便宜上人間は時間を定義することで、生きやすいっていう側面はありますよね。

い:だから、時間は人の記憶だと思います。記憶っていうか、その人の主観的なものでしかない。 

古:老いってあるじゃないですか。老いというのは、他者との比較で初めて存在する概念だっていう話がありますよね。例えば小さい子が歩いていて、その子と自分を比較した時に、自分の方が生きている年数が長いから、「私、老いたな」と感じる。きっとそれは、自分一人が生きている世の中だとしたら感じることすらない。そんな話を養老孟司さんがしていて、なるほど~って思って。まさにそんな感じがします。

い:時間を逆行できるのかということについては、ミクロ?マクロ?すごく小さい世界ではあり得るらしくて。

古:アインシュタインの実験ですね。海外旅行へ行く時の体験としても同じ現象があるらしいです。あとは、宇宙飛行士の人は少し若いとか言いますよね。

い:宇宙時間からすると地球の時間は遅いってことか。なんか、山頂と山のふもとでは時間が違うって言いますよね。

古:あ、そうそう。言いますよね。だけどそれは単純に自転の話ですよね。地球の自転ってコアの方は早く回ってるじゃないですか。1周あたりの円周が短いので。山のふもとの方が距離が長いでしょ。だから1周する時間がゆっくりなんですよね。

い:そういうことか。


山での体験

い:山へ行ったら、夢をすごく見るんですよ。なんかすごく長い夢を見て、起きて、「あ~よく寝た~!」って思ったら、外はまだ真っ暗で。あれ?と思って時計を見たら、まだ1時間くらいしか寝ていなかった。そのくらい時間が違うというか、歪んでる。

古:それは長く感じるってことですか?

い:長く感じるみたい。歩く時も、視界の距離の感覚が全然変わる。それは視覚の問題だけど。なんか、向こうの山がすっごい遠くにあるような気がする。山小屋から丘まで歩いたら、すごく遠かったなと思って時計見たら10分しか経っていない、みたいな。山って街で過ごしてる目の感覚とか時間の感覚と全然違っていて。体も環境に合わせようとするのか、なんか振る舞いが変わる感じがする。

古:実感としてはどんなふうに変わるんですか。

い:なんだろうな。山へ行った途端急に変わるわけじゃないけど笑 なんというか吸収しようとしてると思う。情報を得ようとしてる。やっぱり山って怖いから、緊張感が出るんでしょうね。

古:海外旅行と行った時と近い感覚なのかな。

い:そうそう。基本一人で行くので、骨折とかしたら終わりだと思うと緊張感がある。山は、情報もある意味たくさんあるけど、街の情報とはまた違う。騒がしさや聞こえる音も違うし。環境によって得るものが全然違うから、自分が見る対象が変わっていく気がする。

古:自然の中での生活に慣れていた時代もあったわけじゃないですか。今は都市生活だけど。砂利の一つも落ちていない、石ころ一つ。

い:あ、それって養老さんの話?

古:そう。僕はねその話がすごいしっくりくるんです。

い:その石ころを排除する感覚っていうか。

古:そうそう。だから逆に現代の生活を送っている人は、山に行くと今まで使っていなかったところを使うのって至極当然な話で。

い:山で石につまずいて転んだら自分のせいにしようとするし、関係が人との関係じゃなくて、植物や動物を見ておかないと何が起こるか分からない。でも、基本的に山は優しい。自分が変わっているのか、山があるから自分がそう作用しているのか分からないですけど、なんか不思議なことがよく起こるんです。山が与えてくれている感覚。例えば歩いていて、ふっと道を見てみたら、そこに四つ葉のクローバーがぽーんと現れたり。っていうか、目が合うみたいな感覚なんですよ。なんか四つ葉のクローバーが「お~い」って言っているような笑

古:あれ、大丈夫?薬とかやってないよね?笑

い:やってない笑 けど、ぱっと見たらそこにあるから!笑

古:トレッキングハイみたいになってるのかな~笑

い:そうかも。でも、山に行ったら速攻で呼びかけられる笑

古:速攻で四つ葉のクローバーに?笑 おもしろい笑

い:うん笑 その時は自分の身体がしんどい時で。だから、そういう応答してくれている感覚というのがあった。自分の身体が弱っていたから、山の強さみたいなものをより感じた。山の中では比較対象が人じゃないんですよね。

古:う~ん、なるほどね。

い:もちろん人もそこにいるけれど。やっぱりある意味では、四つ葉のクローバーは自分自身かもしれないっていうか。「あんたこれ求めてるでしょ」みたいな笑 自然と私なんだけど、本当はそうじゃなくて、私と私なのかもしれない。まあ街にいても人と話してたら、その人は私かもしれないんですけど。山はもうちょっとそれが分かりやすいというか。自分が今何を必要としているのかを、分かりやすく見せてくれる。


山の植物と街の植物

古:あやさんの中ではご自身の心や体の状態に不調を感じたときに、山という場所に意識を置いて、そして山に触れた瞬間に今までとは違う感受性を開けていますよね。なんていうか別のスイッチが入っているような感じ。例えば整体に行った時、力が入っていると整体師さんは本領を発揮できないから、力を抜いて身を委ねるみたいなことが求めらるじゃないですか。その感じと似ているような気がして。山は何かを与えてくれる存在だということが自分の中であって、だからこそ山に行った瞬間に解きほぐれるというか。生き物としては、山や草花などの自然というのは最終的には分子レベルで見ると結局みんな一緒なんですよね。遺伝子の構造が違ったりして形が変わっているというだけの話。だけど、人はそこに差異を求めるわけですよね。だって街の中にも草花はあるじゃないですか。そこから何か感じることも可能なんじゃないかと思えるんだけど、それはできないわけで。

い:その差異は結構大事だなって思います。差異がないと、そういう発見や新しいものとの触れ合いはないのかなって。それをネガティブに捉えてしまうと見えづらくなってしまうし。別にネガティブに捉えてもいいのかな…今この街の中にある植物と山の植物の差って、実際に山へ行って見てないと分からないことってあるじゃないですか。

古:厳密に言うと差異は必ずあると思うんですけど。今この席から見えているプランターに植えられた植物には特別な感情を抱いて観ることはないですよね。基本的にはプランターの中だけで育っていて人工的に植樹されているわけですから。野生的ではない。だけど、この今見えている植物、彼らの気持ちに立ってみると、「僕は僕で植物です」っていうことだと思うんですよ。仮にこれが山に自生しているものと同じ種類の植物だったとしても。極端なこと言うと、人間でもそうじゃないですか。田舎の人間と都会の人間。住んでる環境は違うけれど、人であることには変わりない。それと似たような感じじゃないかと思っていて。まあ環境の違いは絶対にあるけれど。

い:そう、その差異を感じられるっていうのはすごく大事なんじゃないかなって。そうじゃないとこの彼に感じることがなくなってしまうというか。

古:そうですね。

い:こういう話をしていない限り、彼はフューチャーされないじゃないですか笑 そして山の木も見ておかないと、この彼とその木をそれぞれどう感じるかということは分からない。

古:うん。それはありますね。




いわいあや 写真家
1982年生まれ。福岡県出身、東京都在住。 中央大学文学部史学科卒業。 会社員を経て、パオラスタジオ勤務後、小林康仁氏に師事。 2014年からフリーランスに。雑誌、広告、 映像制作を中心に活動中。おもに、身のまわりの人やものを撮影。


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