考えてくれてありがとう

ある日ある新宿のバーガー店で「考えてくれてありがとうということの何か文章を書いてくれ」と向かいの壁に言われた。もちろん本当の壁に言われたわけではない。壁は喋らない。喋るのは人間だ。人間に言われたのだ。だが人間の中では限りなく壁に近い。勘違いしてもらったら困るので釘を刺しておくが、人間に対して壁と例えて表現するときライバル的な越えなければならない対象として表現することが多いと思うがそういう乗り越えるべきことのハードルだとか関門だとかの比喩表現ではなく、肩がもりっとしてて少し全体的に重暗くて娯楽の何もない築30年のおばあちゃん家の砂壁のような視覚的に似ているから壁なのだ。視覚的壁人間。その次は静岡のみにしかないと言われているおでんの黒はんぺん。その次は誰がこのサイズの使うの?と言わせるために作られたであろう黒い大きい消しゴム。とにかくそれらを一つに集めて束ねて捏ねて形成して出来た巨神兵みたいな人間の『たなしゅう』という先輩に言われたのだ。だからこの文章を書くことになった。悲哀の黒壁はんぺん巨神兵人間たなしゅうの提案で。

私はがさつなイメージを持たれてると思うと思っている。思うと思っているという表現は添削候補ナンバーワンだが、自分はまだ人生で一度も他人に乗り移ったことがないので人の感情なんて分からない。だからこの表現が非常に正しいのだ。芸術に限らず文章も自由だ。そして爆発だ。失礼、太郎が過ぎた。とにかくがさつと思われてると思っているのだから考えてくれてありがとうなんて直結してイメージされないと思われていると思っている。しかし内情私はがさつというわけではなくて、実は非常に内弁慶なだけだ。実家ではお茶と言うたけで氷の入ったお茶が出てくるし、なんかない?でお菓子を数種類をゲットでき、テレビのチャンネル権をあらゆる政治力をつかって掌握している。誰も私には逆らえない。

私はつまり内弁慶の内にあたるテリトリーを拡げているのだ。そのテリトリーの一つに舞台上があり舞台上を家と思っているのだ。家でのびのび羽を伸ばしている私のあられもない姿をお見せしてお金を出して楽しんでもらおうと画策しているのだ。もし私のその家でのその一面を覗き込んでいるから私をがさつと思っているのだとしたら、それはもう外国人もビックリの日本のダイヤ通りの電車が如く予定通り出発進行と叫ぶほどの作戦成功である。ありがとう私の手のひらの上で踊る人達。意外と手がこんもりしてて柔らかいでしょもしタンゴみたいな情熱的なやつ踊る人は出ていってね。話がルパン三世が手錠から抜け出る時の手の関節を外すようにぱきっと外れたが、本筋に戻そう。つまり私が見せているのは商業的がさつであり真実はそれを脱ぎ捨てた先の中野区の一人の住人である状態の時である。その証拠に一度舞台を出て街で会ったらなんとと驚くのではないだろうか。そこにいるのは物腰の柔らかな猫背の青年でしかないのだ。その時の私はがさつの一欠片もなく人間社会を潤滑に進めれるようにするために当たり前のように言うのだ。考えてくれてありがとうと。

2019年11月11日にあったコントライブ『考えてくれてありがとう』のなかで独白したコラムの完全版です。ありがとうございました。

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安田一平 (太陽の小町)
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