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IP Judge への道

はじめに

私は、2023年4月より知財高裁の判事を務めています。

仕事は、知財高裁に係属する訴訟事件を裁判官として審理判断することが中心ですが、海外から知財高裁を訪問されるお客様へのご説明(この写真では非常に緊張しており、普段と違う表情になっております。)や、内外向けに行う各種イベントの企画等も大切な仕事です。

私は、裁判所の中では知られた「知財好き」で、このたび、念願かなって知財高裁での勤務が実現したので、今まで読むばかりだった「知財系 Advent  Calender 2023」にようやく参加できることを嬉しく思います。

とはいえ、初めての参加ですし、歴々の参加者の皆様のような論稿を書ける力もないので、今回は、自己紹介回ということで、私を「知財の裁判官」に向かわせた出来事、つまり私のキャリアを方向づけた(かもしれない)出来事をいくつか紹介することにしました。木本大介さんから激アツのバトンを引き継いでしまっており(私も「キングダム」が大好きです!何ならアニゲ、漫画も好きだし、ロードバイクも持ってますので今度教えてください!以上私信)、こんなのが最後でいいのか?と不安で仕方ないのですが、ともかく始めてみます。

表・裏とも学びの多いAdvent Calendarでした。

1 - 演劇への憧憬と、挫折

地方の公立高校で、基本的にやる気のない日々を送っていた私は、ある日、席替えで隣の席になった子から唐突に、演劇部への入部を勧誘されたのです。その日から、モノクロだった一高校生の日常が一気にカラフルになりました。自分の舞台上の挙動への観客の反応、それに高揚する自分。すぐに私は、将来舞台俳優として大活躍する夢を見て、演劇部を引退後は猛勉強し、大学進学を口実に東京に出てきたのでした。進学先はもちろん文学部!
さて、東京に出てきて劇団に入り、小さな舞台に立ったり脚本を書いたりしたのですが、当然、簡単に売れたりなんかしないわけです。今になって振り返ると、演劇への情熱が全然足りてなかったと思います。もっと本を読んだり、いろんな経験をしたり、自分を顧みたり、できることはたくさんあったはずです。でも、この「鳴かず飛ばず」の状況が永遠に続いてしまうことを恐れた自分は、さっさと上京時の夢を捨ててしまったのでした。
とはいえ、人の魂を揺さぶるようなアートをほんの少しだけ志した経験は、その後、著作権を中心とした「アートと法との交錯」といった場面への好奇心として、いまでも自分の中に生きているように思うのです。

2 - 司法試験を見つける

演劇をやめた私は、その後、将来への不安を誤魔化すように意識高くあろうとしたり、他方でバイトに明け暮れたりして二留をかましたわけですが(お父さんお母さんすみません)、新卒でいわゆるJTCに入社し、ひたすら金融商品を売るコテコテの営業をすることになりました。ここでの経験は、いまではなかなか良い感じで自分の中に生きていると思いますが、当時の私は、「もっと根拠のあるものに基づいた仕事がしたい」と思いました。営業の仕事の流動性、不確実性が不安だったのだと思います。私は仕事を辞め、ちょっと自分探しを始めました。人材関係の仕事に首を突っ込んでみたり、海外での仕事を探してみたり、簿記の資格を取ったり、特に方向性を定めず彷徨いました。
そして、「司法試験」との出会いを果たしました。なにせ、当時の自分は、「根拠のあるもの」に基づいた仕事をしたい、と考えていたので、法律ほど「根拠」のあるものは無いように思えたのです。また、当時は法科大学院制度のない一発合格式の制度で、弁護士の人数を増やすために合格者を大量に増やす計画が進行中でした。書店で、中央大学真法会が出していた過去問題集を手に取って立ち読みし、なぜか「これはいけるかも」と思ってしまったのです。たぶん、書いてあった解説が分かりやすかったのでしょう。司法試験受験を決意し、図書館、その後は自習室に毎日通う生活を始めました。
私と法律の勉強は相性が良かったのか、司法試験に合格できました。裁判実務の好きなところは、問題を比較的明確なルールで処理しようとするところであり、また、ルールの解釈や適用に際して論理付けられた理由を用いようとすることです。もちろん、実際にはそこまで単純ではないのですが、金融商品の営業と比べると、基準も、物事の帰結の理由も明確に思えたのです。

3 - 専門性に特化した裁判官という存在

司法試験に合格すると、司法修習という見習い期間があり、その後、裁判官・検察官・弁護士という法曹三者のいずれかの職業に就くことができます。私は色々あって裁判官になりました。裁判官を選択した理由は複数あり、ここでは書ききれませんが、自分の現在のキャリアを方向付けた二つの裁判がありました。
一つは青色LED職務発明対価訴訟の一審判決(いわゆる200億円判決。2004.1.30)、もう一つはライブドアがニッポン放送の新株予約権の発行差止めを求めた仮処分決定(2005.3.11)です。裁判長は、前者が三村量一判事、後者が鹿子木康判事でした。
三村判事は最高裁調査官(知財担当)を5年間務めた後、東京地裁民事46部(知財部)の裁判長を長期にわたって務める「知財専門裁判官」、鹿子木判事は、当時まだ任官して20年が経過していない(いわゆる「部総括判事」ではない)にもかかわらず、その意見が日経新聞の「経済教室」の記事となるほどの影響力を持つ「商事専門裁判官」として、異彩を放っていました。
私は、「この人たちのようになりたい」と思いました。その頃は、どちらかというと、知財事件より、買収防衛策や経営判断の原則に関する判断が多数示されていた商事事件への興味が強かったのですが、とにかく私は、「抜群の専門性を身に付けた裁判官」という存在を知り、これを一つのロールモデルにしようと思ったのでした。

4 - Tim Wu 教授の Copyright Law Class

裁判官になって4年目に、アメリカに留学する機会をいただきました。最初の学期に取った授業が、Timothy Wu教授のCopyright Lawでした。Wu教授は、通信政策や独禁法政策が主たる専門ですが、Copyrightの授業もとても刺激的でした。そのスゴさを言葉で再現できないのが本当にもどかしいのですが、ケースブックに書いてあること(要するに既存のルール)は理解していることが前提であり、現在進行形で起きている事象を教室前方のスクリーンに映しながら次々ととりあげて、シャープな議論を学生としており、自分の言語能力では全く議論に参加できなくて悔しい思いをしながら、それでも「これがこれからの法を形成していく議論だ!」と思い、毎週、心が熱くなったのを覚えています。その頃、日本でも、YouTubeやニコニコ動画でゲーム実況が始まっており、これは著作権との関係でどうなるんだろうと思っていたし、ロクラク事件、鑑定書事件があったりとかで、社会の変化と法との関係が鋭く問われていました。
ともあれ、この授業をきっかけに、私の知財への関心のギアが一段階上がり、残りの留学期間を、特許法、商標法その他の知財法の授業や、Federal Circuit滞在など、知財法分野での専門性獲得へと充てていくようになったのでした。

5 - 技術との出会い

留学から帰ってきてから、私は裁判所のローテーションシステムに乗って、倉敷に転勤し、民事訴訟事件、家事審判・調停事件などを3年間担当しました。この3年間の経験も得がたい貴重なものであり、現在の自分を形作っているものではあるのですが、知財に直接関係するとはいいにくいので割愛します。倉敷にいるときから、毎年、「知財をやらせろ」と要望を出していたのですが、その願いが伝わり、次の異動先は東京地裁の知的財産権部(29部)でした。
そこで多くの事件と格闘することになるのですが、私の知的好奇心を最高に刺激してくれたのは、STEMのバックグラウンドを持つ裁判所調査官の皆さんとの議論であり、事件の証拠として出されてくる特許公報や技術的な文献であり、当事者や専門委員の主張・説明でした。文学部出身で、どちらかというとアート・著作権の分野から知財に関心を持った自分としては、技術に真正面から向き合うのはこのときが初めてでした。サイエンスを学ぶのがこんなに楽しいなんて知らなかった!
東京地裁知財部での3年間は、とにかく勉強、勉強でした。当事者も代理人も専門家、判決は全部公開されて研究者による批評の対象となるといった状況で、説得力のある判断をしなくてはならないわけです。この時期に、学ぶテーマもグッと広くなったと思いますし、学び方に関するいろいろな習慣を身に付けていったようにも思います。

まとめ

さて、全く取り止めもなく書いてしまいました。もっと自分に影響を与えた経験はあるだろうと思うのですが、いろいろなことがあって現在ここに辿り着いて仕事をしているわけです。書きながら、自分は、その時々でいろいろ悩んだりもしましたが、総じてみると、ずいぶん機会に恵まれていたのだと改めて実感し、本当にありがたいことです。
かつての三村判事にはまだ遠く及ばないわけですが、これからも、「こんな奴に知財司法を任せるわけにはいかない!」ということにならないように、しっかりと勉強していきたいと思いますので、ご指導のほどよろしくお願いします。それから、知財に関するイベント関係にはよく顔を出しますので、お会いしたことのない方であっても、見かけたときには声を掛けてくださるととても喜びます。

追記 - 知財レジェンドの逸話

と、ここまでがあらかじめ用意していたものだったのですが、昨日の木本大介さんの投稿の熱量に気圧されまして、これだけではなんか物足りない気がしてきました。とはいえ、今から書き直すこともできないので、追記として、知財レジェンドお二人、具体的には、飯村敏明元判事と、田村善之教授のエピソードから窺い知れる知財への「情熱」をみてみることにします。

まずは弁護士の片山英二先生が休日に裁判所を訪問したときに、飯村判事を目撃した時のエピソードです。

(…)さて、休日の庁舎の廊下は暗く、少し早めに到着して待っていたのですが、暗い長い廊下を端から歩いてくる人影がありました。その人影は歩きながらブツブツ独り言を言っており、少々鬼気迫るものがありました。それが、飯村所長でした。後で陪席裁判官の話をうかがうと、飯村所長は休日にこのように庁舎の廊下を行き来して、判決の想を練られているとのことでした。なるほど、このようにして考えを詰めて判断されているのかと、日本の知財裁判の真摯さに触れたように感じました。(…)

片山英二「国際競争下における特許訴訟制度の改善」設樂隆一ほか編『現在知的財産法実務と課題 飯村敏明先生退官記念論文集』(発明推進協会・2015年)

次に、田村善之先生がお弟子の先生方に背中で語った研究への向き合い方です。

第1に、他の人よりも時間をかけて取り組むこと、第2に、自分の専攻テーマにかかわらず、主な知財研究者の助手論文、博士論文、修士論文は読んでおくこと、第3に、自分の頭で考え抜くこと、です。そして、これらの教えについて、先生は身をもって実践し、範を示しました。
印象深いのは、(…)先生の日々の拠点が、北海道大学の個人研究室から、院生部屋の窓からよく見える場所(通称「COE部屋」)に移ったことです。先生は、ご出張日を除いて、盆も正月も休むことなく一年中、窓際の席で研究に打ち込んでおられました。院生は皆、毎日明け方までパソコンに向かわれる先生の背中を見て、第1の教えを悟ったように思います。(…)

「あとがき」吉田広志ほか編『田村善之先生還暦記念論文集 知的財産法政策学の旅』(弘文堂・2023年)

この数十年、知財の議論をリードしてきたお二人が、非常に勤勉であり、文字どおり休むことなく知財の世界に没頭されていたことがよく分かります。

今では、仕事のやり方が変わっており、毎日登庁したり、毎日研究室に来る必要はないでしょう。家族・友人と過ごす時間や、心や身体をメンテナンスすることも大切です。一見、仕事とは関係のない趣味などから学ぶことも多くあることでしょう。それでも、先輩方の「知財への情熱」を、現在の自分を取り巻く環境にフィットした形で、自分に取り入れることはできるはずです。
「ロールモデル」の話を書きましたが、三村先生と私はちがう人間であるし、置かれた環境もちがうので、そのまま真似をするようなつもりはありません。ただ、この目まぐるしいほどの世界の変化を楽しみ、知的好奇心に突き動かされながら、情熱的に知財の大海を泳いでいきたいと思ったのでした。(追記終)

2023年、思いっきり好きな仕事ができました。2024年が皆様にとって良い年でありますように。知財系Advent Calendar 2023の終わりに寄せて…

Happy Holidays!

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