短編小説「弁護士は嘘をつかない」
弁護士の夫が「お前、浮気してるだろう」と言ってきたのは朝食の席だった。
よく晴れた夏の日。コーヒーもうまくはいったし、気持ちのいい朝になるはずだったのに、台無しだ。
「はぁ?」
「だから、浮気だよ。してるんだろ?」
ここ半年で浮気を疑われるのはもう3回目。ほとほとウンザリする。
「だからぁ。前にもそんなこと言ってたけどさぁ、証拠でもあるの?」
「いや、それは・・・」
それまで威勢がよかった夫が、とたんに口ごもる。
おかしい。
前回口論になったときは「そんなものないけど、なんとなく分かるんだよ」と言い張ったのに、なぜ、今回はないと言わないんだろう。
結婚して10年になるが、弁護士という人種は決してウソをつかない。仕事柄、偽証の恐ろしさを人に説いている立場なので、ウソがつけない体質になっているのだ。
「なに? あるの? ないの?」
「・・・」
代わりに、彼らが得意なのが「黙秘」だ。これはなにかある。
「あなた、まさか、私に尾行でもつけたんじゃないでしょうね」
「・・・」
「え、ちょっと、本気? それで写真撮ったとか言わないでよね?」
「・・・」
まったくもう。最悪の気分だ。
だが尾行までつけたとなるとだいぶ本気みたいなので、私は一口かじったトーストを皿に置いて、本腰を入れる。彼のほうもスイッチが入ったようだ。
「だいたい、お前が疑われるようなことをするからいけないんだろう? 誰なんだよ、あの写真の男は? なんで、あの時間帯に公園なんかにいるんだよ。あと、あの親密さ! なにもないにしては、距離が近すぎる。え? どうなんだよ?」
口げんかは弁護士の得意分野だ。立て板に水を流すように理路整然と相手を攻め立てるから、相手はそれだけでクタクタになってしまう。
「別にあの公園に誰といっしょにいたっていいでしょう? どんな写真か知らないけど、誤解だからね、まったく」
「誤解だと? じゃあ、それを証明してみろよ」
筋道の通った説明を求めながら、徐々に相手を追い詰める。弁護士の常套手段だ。レストランのサービスにケチを付けるときもまったく同じ手口。ほかにコミュニケーションのしかたを知らないのかしら?
そりゃ私だって、つきあい始めたころはその振る舞いが「毅然としててかっこいい」なんて思ったけれど、今になって思えば単に「偉そう」なだけだ。鼻につく。「高慢」や「傲慢」は司法試験の重要科目じゃなかったはずだ。
「っていうか、ほんと気持ち悪い。尾行ですって? もう、いや。あなた、こんなことして恥ずかしいと思わないの?」
「恥ずかしい? 思わないね。お前のほうこそ、どうなんだよ?」
「私は、純粋にあなたが気持ち悪いだけ。ねえ、謝ってよ」
「はぁ? なんで俺が謝らなきゃいけないんだよ」
「”なんで”じゃないの。私が、この私が、不快な気分になったからそんな事態を引き起こした責任をあなたに問うてるの。ほら、謝って」
「いやだね。俺は謝らないよ」
そう。弁護士は謝らない。これまた仕事柄、一度でも非を認めた発言をしてしまうと、のちのち不利になることを身に染みて分かっているので、なにがあっても決して謝らない。たちの悪い当たり屋みたいなものだ。
「あ、そう。それならそれで別にいいわよ。私、もう行くから」
「ちょっと待てよ。まだ話は終わってないだろ。ちゃんと話をしようじゃないか」
「こんなくだらない話、つきあってられないから」
「俺は今日、事務所に行かなくてもいいんだ。じっくり話そう。なぁ、正直に言ってくれよ、浮気してるんだろ?」
しつこい。
よくお昼のテレビ番組で「夫が私と向き合ってくれない」と愚痴っている主婦がいるが、うちは違う。粘り強く、執念深く、とことんまで私と向き合おうとする。議論に飽きて途中で投げだしたりはしないし、面倒だからと表面的に負けを認めたりもしない。負けず嫌いは、弁護士にとっての”憲法”だ。
私はすっかり冷めてしまったコーヒーをぐいっと飲み干して立ち上がる。
「私は、そうはいかないの。続きは帰ってからね。あなたがいかに私を失望させたか、きっちりと分からせてあげるわ」
「おお。望むところだ。先に裏切ったのはお前なんだからな。今日は7時には終わるんだろ?」
「わからないわよ、そんなこと。じゃ、行ってくるから。あなたこそ、来週の出張の準備でもしたら?」
ふん。確かに私は今日は7時には仕事が終わる。私の行動パターンを几帳面に全部把握してるからこそ、少しでもおかしなことがあると疑うのだろう。息苦しいったらない。
エレベーターに乗り込み、地下駐車場へ向かう。
それにしてもいつ写真なんて撮られたのだろう? 先週? いや、先々週か。尾行なんて卑劣な手を使って。絶対許さないんだから。まったくあっちが結婚してくれっていうからしてやったっていうのに、細かいことをちまちまと。私にケンカを売ったら、どうなるか思い知らせてやる・・・。
愛車のポルシェに乗り込んだところで、私はかっかした頭を仕事モードに切り換えた。
今日のケースはちょっとやっかいだ。物的証拠はガチガチに固まっているから、正直ここからの挽回は苦しい。でも、私の依頼人は殺したとは言ってない。争点は自白に絞られるだろう。
ルームミラーをのぞき、メイクと襟元を直す。ついでに弁護士バッヂがちゃんとついてるかチェックした。
そう。私だってさっき「してない」とは言ってない。ウソは嫌いなのだ。
キーを勢いよく回すと、低いエンジン音が駐車場に気持ちよく響いた。
photo by LYDIA and her SALAD DAYS