大家さんの枇杷(ビワ)
「この場面(この場所)、見たことがある……」というときになって、「ああ、夢の中で見た」と思い出す。
思い出すまでは、その夢自体が埋没していて見たことすら憶えていない。
ある日、外から帰ってきて事務所のドアまであと数歩というところで思い出した。
見慣れたドアの横に枇杷(ビワ)の鉢植えが置いてある。
ビルのオーナーである大家さんのものだ。
その鉢植えとドアの間には、人が一人、座り込めるスペースがあるのだが、そこに妙なおじいさんが胡坐(あぐら)をかいて寛(くつろ)いでいる光景を見た。
見たのは夢の中のこと。
ほろ酔いなのか少し赤ら顔で、楽しげに座っている小太りのおじいさん。
一瞬、「貧乏神じゃないよね?」と思ったが、何となく、追い払ってはいけない気がして……、そんな夢だった。
数日前に見た夢を急に思い出して、事務所の借主であるOさんに話した。
「それ、元の大家さんだ」
元の大家さんとは、今の大家さんの亡くなったご主人で、私は会ったことがない。
いつもちょっと一杯呑んだみたいな赤ら顔をしていて、小太りだけど小柄な人だったとOさんが話してくれた。
「そうそう!」
それと、工務店の人みたいな上下の作業着をよく着ていたと。
「そうそう!」
亡くなった元の大家さんは、Oさんが事務所を下見に来たときに、他にも不動産屋さんが事務所を見せに何人かを連れてきていたにもかかわらず、
「あんたに貸したい、あんたに決めた」
そう言って家に電話をくれたのだそう。
大家さんの「貸したい」とまで言ってくれる勢いに、Oさんはこの事務所を借りることに決めたのだ。
築何年になる建物なのか。
エアコンは古いし、洒落たビルではないが、この事務所には元大家さんの拘(こだわ)りが随所に見られる。
仕事仲間からは「秘密基地」と呼ばれている地下室のある事務所などなかなかないだろう。
物置に使っている階段下のスペースは、ハリー・ポッターが閉じ込められていた小部屋にも似ている。
元大家さんを貧乏神と間違えて追い払ったりしなかったのは正解であった。
貧乏神であったとしても、感じ悪いことはしないほうがよさそうと思ったのが幸い。
入り口の横に置いてある枇杷の鉢植えは、元大家さんの遺品ではないかと思う。
その枇杷の木が実をつけるのは、毎年のことではない。
一つ二つ成る年はあったが、その年はいったいどうしたの?ってくらい実をつけていて、豊作の実はツヤツヤ輝いてさえ見えた。
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