20210124㉜初めてBassを手にしたあの日!後編~いざ!横浜スタジアム
こんにちは!ioriです。昨日は、執筆中に営業時間開始が押し迫ってきたので一旦、投稿し、今日は、その後半とさせて頂きます。
高校2年生辺りから、いわゆるオーディションというものに片っ端から受けるようになりました。大小問わず、何かに引っかかればよいかな?というきっかけでした。その他、ラジオの公開録画で演奏させてもらったり、売り出しするバンドの前座で演奏させていただいたりと何かと地元のイベンターさんや楽器店さんには、当時、高校生の僕たちに何かと良くしてくれていました。
僕たちが受けた主なオーディション
YAMAHA音楽振興会主催の出演者未成年限定の音楽祭 TEENS MUSIC FESTIVAL
主催 横浜市の出演者、スタッフ全て高校生で運営のYOKOHAMA HIGH SCHOOL HOT WAVE FESTIVAL
http://www.pep-p.co.jp/hotwave/
ヨコハマ・ハイスクール・ホットウェーブフェスティバル(通称ホットウェーブ)は、1981年から1998年にかけて横浜で行われていたバンドコンテスト。大会運営スタッフも高校生、出演バンドも高校生で、まさに高校生による高校生のためのバンドコンテストとして、神奈川に限らず全国各地の高校生バンドが出演し、「音楽の甲子園」と呼ばれた。
高校3年生の夏にいずれの大会で地区予選を勝ち抜き、全国大会へ出場できることになりました。
特にHOT WAVEは、第10回記念大会という事でそれまで神奈川県の近隣のバンドばかりでしたが、近畿特別枠のような待遇で出演させていただいたと記憶しています。しかもゲストが僕らが敬愛していたHOUND DOG 大友康平氏
しかも!決勝大会は、球場面積は26200平方m、収容人数30000人の横浜スタジアムとくれば?当時は、わくわくというよりビビる以外の感情が湧き出てきませんでした。
実は、僕はこの日を最後に脱退することになっていました。後任のベーシストも決まっていました。仲間割れとかではなくてやはり後任の彼のテクニックが数倍も僕より上でした。大事な決勝大会なので僕は、辞退も考えましたが、僕に演奏を任せてくれた当時のメンバーには心から感謝しているし、今でも何かの際には、連絡を取り合っています。
今でも、若い子たちに話しますが?努力してもセンスと素質はなかなか上達しないな!と思います。では、打ち勝つには何ぞや!となればひたすら没頭するのみなんです!決勝大会が決まってからは、とにかくBassを触る時間というか?引きまくりました。今でいう継続なんですね。すると必ずそれまで見えなかった何かが見える!いろんなことをイメージしながら、大舞台での度胸をこの時に身に着けました。
その時点で父親は他界しており、母親からはやる分にはいいけど?プロになんか?なれへんから!と反対されていました。
決勝大会
結果は、応募テープ数1482本 決勝大会出場バンド17組の中、各バンド2曲演奏し、(本曲、イメージ曲)
イメージソング賞を頂きました。でもオーディションに出まくり闘争心しかなかった僕らには、やっぱりグランプリでないと意味がなかった。
小学校の頃、少年野球で負けても?たいして悔しくなかった。
テストで悪い成績で親に怒られても?たいして悔しくなかった。
僕が、生まれて初めて悔しい想いをしたのが、この時です。
一目はばからず涙が止まりませんでした。また、帰りの新幹線でカバンの底の方を見ると封筒に入った一万円札と『演奏頑張れ!このお金は、大事に使いなさい。』と母親からのメッセージがありました。
その後、名古屋~京都間は嗚咽も含んだ涙が止まらず、車内のトイレから出れませんでした・・・
この時のことは、32年経った今でも鮮明に覚えています。全部含めて、まだ右も左もわからない高校3年生でしたが、本当にいい経験をしました。
今日は、ここまで。