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雨のあと 後編
十二月に入って最初の土曜日は朝から雨だった。
父と母は外出しており、いつもなら塾に行っているか部屋にこもって勉強している渚も、今日は茜と一緒に遅い朝食を食べ、何を話すでもなく居間で過ごしていた。
ふいに渚が読んでいる本から顔を上げて言った。
「今年のクリスマスもアイスケーキがいい」
「去年もアイスケーキじゃなかった?」
「アイスケーキ、美味しいもん」
「どれにするの?」
スマホでメニューを調べながら茜が言い、渚がのぞきこんだその時、スマホが鳴って「亮ちゃん」と画面に表示された。
驚く渚をその場に残し、茜はスマホを持ったまま慌てて居間を出た。
廊下に立って「はい」と電話に出る。
「今、話せる?」
久しぶりに聞く優しい声だった。
思えば、「離れたい」と言われる少し前から亮は国内でも出張を繰り返し、笑顔も少なくなっていた。声も疲れていた。
「帰国が早まって、先月にはもう帰ってきていたんだ。すぐに連絡したかったけど…」
しばらく沈黙があった。
「茜はどうしたい?」
これからの二人について話そうとしているのに、簡単にボールを投げて寄こしてきた亮に茜はムッとした。
この一ヵ月と少し、眠れない日もあった。食べられなくなった時もあった。だが、体調を崩して仕事を休むわけにはいかないと、懸命に過ごしていたのだ。
茜が一呼吸おいて、
「私たち、もうこのまま離れる?」
そう言った時だった。
気がつくとすぐ目の前に渚が立っており、茜のスマホに向かって、「はなれないっ」と叫んだ。
ぼう然とする茜の耳に、「えっ、何?」と亮の声が聞こえる。
「渚が…」
「なぎちゃん?」
亮は何度か渚に会ったことがあった。茜が言いよどんでいると、
「離れない」
そう亮が言って、今度は「えっ?」と茜が聞き返した。
「会いたい。会って話がしたいんだ」
明日会う約束をとりつけて、電話を切る。
何と言えばいいのかわからずに渚を見た。
「亮さん、なんだって?」
「離れないって」
「え。やった」
「やった、って渚…」
思わず眉をひそめると、渚は思いつめたように言った。
「どうしてそんな大切な話を電話でするの? お姉ちゃん、そんなにやせて、それでもお父さんとお母さんが何も言わないのは、お姉ちゃんと亮さんはこのまま別れたりなんかしない、二人は大丈夫だって思ってるからだよ」
いつにない渚のはっきりした物言いに、茜は気圧されて何も言えなかった。
「大切なものを自分から手離すようなこと、言わないでよ」
それからトーンダウンして、「受験生にあんま心配かけさせんな?」とぼそりと言い、その軽口に思わず二人で吹き出す。
「めっちゃ必死やん、私」
そう言ってお腹を抱えて笑う渚と一緒に笑いながら、ふと廊下が明るくなったことに気づいた。開けっ放しにしている居間の扉から日が差し込んでいる。二人で居間に戻り、窓の外を見上げた。
実家に戻ってから、茜は九月に亮と行った今井美樹のコンサートのことを時々思い返していた。
大好きな「雨のあと」のイントロの前に演出があり、この曲が演奏されるのだと気づいた時は嬉しくて思わずそばにいた亮を見上げた。優しい笑顔がそこにあった。その笑顔を当たり前のように受けとめていたあの時の自分を、今は幼く思う。
当たり前のことなんて何もない。
好きな人のそばにいること。喧嘩をして仲直りすること。出勤すること。クリスマスのアイスクリームケーキ。生きていること。毎日が奇跡の連続だ。
「雨、やんだね」
そう呟く渚の横顔を、茜はほほえんで見つめた。
おわり