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海 葬 の 客

              約9000文字(読了までに23分ほどいただきます)


 厭なものを見てしまった。
 曇天。のったりとした雲に覆われた空は陽の光を遮り、かといって雨が降り出す様子もない。
 暑さもとうに去り、まだ寒くもないこの時季。一年に数日あるかないかの、こんな『好日』に。
 せっかく意を決して屋敷の外に出てみたというのに。 実に厭なものを、ぼくは見てしまった。
 たった今、すれ違った荷車には、人形が満載されていた。洋の東西を問わず、手入れの行き届いたものも、傷んでしまったものも。
 重ねられ折りたわめられてまるでそう、その荷車は戦の村から来た、死体を山積みに乗せたそれのように、ぼくには見えた。
 ぼくの視線をつなぎ留めたまま、荷車は通りすぎてゆき、そして角を曲がる際、山と積んだ人形たちの中から一体を落としていった。ころりと転がった人形は洋装の少女人形。
 ちょうどこちらに顔を向け、焦点の合わない大きな碧い目で、漠然とこちらを眺めている。豊かな黄金色の髪が、地面に広がって不思議な模様を作っていた。
 遠目のことでまた、ぼくのあまりよくない視力では、はっきりとは判らなかった。けれどその人形は、持ち主の女の子のお相手をして、たくさん遊んでもらった のだろう、くったりとくたびれた様子に思われた。力なく地に伏したその様が、人間の子の死体を連想させ、ぼくは多分に厭な気分になってしまった。
 それでもう、ぼくは遠出するのを止しにして、屋敷に戻っておとなしくしていようと決めた。踵を返す。
 来た道を戻ると、どうしても地面に転がされた少女人形のそばを通ることになる。見まい見まいと念じていると、どういう具合か却ってそちらを見てしまうものなのか。まさに一番近くを通り過ぎた時、ぼくはその人形を視界に捉えてしまった。
 全体的にひび割れ、ところどころ黒く煤けたようになった顔。泥がこびりついて汚れたドレス。靴は片方しかはいていなくて、もとは白かった様子の傷だらけの脚が、人形の無残をいっそう醸し出していた。
 この人形は、死んでいる。
 ああ。厭なものを見てしまった。
 早く屋敷に戻って、読みさしの書物のどれか一つを相手にしたい。そう思いながら、ぼくは屋敷への道を急いだ。


 階下から、ぼくを呼ぶ声がする。家主だ。
「うーらっらくーん!ちょっといいかな?」
 中二階の書庫の扉から、半身だけ覗かせる。
 家主はいかにも無害そうな笑顔で見上げていた。…なにか虫のよい頼み事だろう。
「麗くん、私はちょっと出かけるので、少しのあいだ、お客のお相手をお願いしたいのですが」
「やです」
「そうおっしゃらずに。可愛らしいお嬢さんなのですよ」
「家主のお客人でしょうが」
「大事な用があったのを失念していました。今から予定変更はできません」
 そんなこと言って、どうせ馴染みの芸妓を連れて、芝居見物にでも行くつもりだろう。こないだ外で、見知らぬ玄人筋の姐さんに挨拶されたぞ。ぼくを話のネタにするな。
「じゃ、頼みましたよ!」
 家主はご機嫌な笑顔で、余所行きのインバネスをひるがえした。
「え、ちょ、や、家主っ!」
 毎度のこと強引な!慌てて階段を降り、追おうとした。ところに。
「あのぉ…」

 背後から声。 
 振り返るとそこには「西洋人形」がいた。思いがけず、身を固くしてしまう。驚いた。
「あなたが、うらら…さん? 麗しいのうららさんね。まぁ! なんてお似合いのお名前なのかしら!」
 人間の少女サイズの「お人形」が動いた。左の目に眼帯をした少女が、こっちに歩み寄ってくる。まるで獲物を見つけた猫のような、確かで軽い足取りで。
「綺麗な色の御髪ですこと! 鬘では御座いませんのね。瞳の強いお色がいっそう引き立ちますわ。お肌だってそばかすや傷ひとつ無く、なんてなめらか…!」
 お嬢さん、初対面で他人を無遠慮に眺めまわしたり、髪や頬に気安くさわったりしちゃいけないって、そのご大層なお言葉遣いを教えてくれた誰かに、ついでに教わらなかったのかい。
「髪も目も、生まれつきのものです。肌が白いのは、日光に当たるのが苦手な体質なもので」
 ぼくのこの、白金の髪も赤い色の目も、屋敷の外の世界では、好奇の対象になる。
「うららさん、わたくしも、今日はおめかしして参りましたの。いかがでしょう?」
 って十五、六歳の女の子に問われて、率直に思ったことを言う勇気は、ぼくにはない。
  彼女はその身を、飾れるだけ飾っていた。凝りすぎている。そう思ったけれど、この先の数時間、このお嬢さんと屋敷で過ごさなくてはいけないのだ。口が裂け ようとも、ご機嫌を損なう可能性のあることは、言ってはいけない。いま以上の厄介な状況に見舞われるに決まっている。
「よくお似合いですよ。意匠も色あいも。
 たくさん布を使っていて、とても贅沢です。寸法もお嬢さんにぴったりのようです。仕事熱心な腕の良いお針子さんを、雇っておられるんですね」
 どこのお大尽の令嬢なのか知らないが、フリルを寄せたブラウスや、裾を膨らませたスカート、刺繍やレースで惜しげもなく贅沢に飾った洋風の装束。西洋人形そこのけの、装飾過多で圧倒的な存在感だった。
「あらいやだ、うららさん。
 わたくしのことは、ひなとお呼びになってくださいな」
 見た目はヒラヒラふわふわのお人形でも、名前は和風で、かわいらしい響きだと思われた。

 応接間には、客用に薄茶と干菓子が供されていた。ついでに、抹茶が苦手なぼくのためのほうじ茶も。
「平沢様に、息抜きに遊びにいらっしゃいと仰って頂いておりましたので、こうして厚かましく罷りこしました」
 家主を苗字で呼ぶのなら、色恋でもめている類の相手じゃなさそうだ。…今のところは。
「本日は、日頃のお勤めの折々に募る想いを、平沢様にお話させていただく心積もりで御座いましたのです」
「そうですか。やぬ…平沢があいにくの急用で、申し訳ない」
「あら、いいんですの。お話のお相手は平沢様でもうららさんでも、どちらでも。御二人お揃いなら、尚よろしかったのですが。
 平沢様は『お話は麗くんがお相手になりますから、胸につかえて苦しいことは全部、話してしまわれて結構ですよ』と仰ってくださいましたわ」
 逃げたな…家主めっ!
 このお嬢さんの「お勤め」とやらの愚痴を聞くのが面倒になったのか。
「お勤め先には…あのお屋敷にはもう、わたくしの居場所など、無くなって仕舞いました。お仕えする方を亡くして、一体何の為のお世話係なので御座いましょう…」
 ひなと名乗ったお嬢さんは、伏し目がちに、一つため息をつく。胸元を押さえた手の袖口、手首に包帯が巻かれているのが見えた。清潔な白が、目に染む。
 人の生き死にが関わる話…。何かややこしい話なら嫌だと思った。


「わたくしのお仕え申し上げた方は、由緒ある家柄のお嬢様で御座いました。それはそれはお美しく、お可愛らしく、筝や書の才にもたいへんに恵まれていらっしゃいました。
 ただ、お体が弱く病がちで、お屋敷から外へお出になられることは、殆んど御座いませんでした。大きなお屋敷の中だけの世界でひっそりと、お嬢様は暮らしていらっしゃったのです。さまざまな土地から集められた、たくさんの人形たちに囲まれて」
 お屋敷は、海が近い丘にあったらしい。ひなは言わないが、そこは彼女の「お嬢様」の家の別荘だったのではないか。病弱な娘のための療養が目的の。
 海を見下ろす丘の上、幕藩の時代からそこにある、壮大な屋敷。潮風の運ぶ庭には、季節の花が咲き…。
 ひなはその仰々しいもの言いで、彼女と彼女の大事な「お嬢様」との日々を語った。

――ある時、お嬢様は目にするので御座います。眼下に望む浜から、一艘の小舟が海原へと漕ぎいずるのを。
 その木造りの質素な舟は、船上に箱のようなものを置き、四方に鳥居を取り付けた、不思議な形の小舟で御座います。舟は、先を行く伴走船が曳航する形で、沖へと向かって行きました。
 早速、当地育ちの使用人に、お嬢様は件の小舟の様子をお尋ねになりました。其の者が言うには、
『あ れは渡海船と申すものです。あの舟には木箱が乗っていますが、あそこには、偉い行者様が乗っておいでです。沖まで出た渡海船は伴走船に曳き綱を断たれま す。そのあとは、広い海を漂いながら、遥かな浄土、補陀落を目指すのです。行者様は箱の中、お経を唱えて過ごされます』
 この話に、お嬢様の心はすっかり捕らわれてしまいました。人並みに長くは生きる事の叶わない、ご自身の星回りを、悟っていらっしゃったのでしょうか。
 お嬢様は次第次第に思いの内に沈むことが増え、わたくし共お世話係にも、御顔を見せていただけない日が一日二日と伸びていったので御座います。

「補陀落渡海は…でも、代々の補陀落山寺の住職がするものでしょう。そのことを教えてあげれば、お嬢様って人も諦めたんじゃないんですか?」
 そういった気持ちは思春期特有の、一過性の自殺願望か何かに思われた。
「ええ、もちろん申し上げましたわ。渡海とは特別な修行の末に行者様が成し遂げられるもので、お嬢様のような一般の、それも女性が、為さるものではないと」

――それでもお嬢様は海の果てにある観音浄土の夢から、醒めては下さいませんでした。
「海は命の源よ。いわば胎児が眠る母体の羊水のようなもの。還るだけなのよ。海へ…!」
 そう言い募られます。仕舞いには、
「土に返る土葬は、ただ徒に腐るだけ。この身が朽ちるなんて、そんなのはいや」と、涙されるので御座います。
 お嬢様のその様子を、ご心配なされた奥様が、ある提案をなされました。
「では誰か、代わりの者に渡海させましょう」
 奥様はまるで、近くのお店に使いを遣ろうとする様に、仰ったので御座います。つまり、先に誰かに渡海をさせてみて何事もなく、補陀落にたどり着いたならば、其の者がお嬢様に様子を伝えるため、夢枕にでも立てばよいと。
 使用人たちは一様に顔色を変え、或いは俯き、或いは聞こえなかった振りをしてあらぬほうを見遣り、巻き込まれるのを言外に拒んだので御座いました。
 なんと、不甲斐無い!
 日頃より、手厚い待遇でお世話になっておきながら、いざという時に奉げる命も持ち合わせないとは、片腹痛い。わたくしは居並ぶお世話係の最前列で、しっかりと奥様のお顔を見つめました。
「この子達の誰かで構わないわ。いいえ、この際、まとめて何人か一緒に流していただきましょうか…」
 選ばれたのはわたくしの他、古参の者が数名。誰もが、お嬢様のためならばと、言葉も無くただ、頭を下げたのでした。

「ひなさんのお身内は、それで…納得したのですか。大事な娘を、その」
「ええ、ええ。わたくしは天涯孤独の身。別れを惜しむ親兄弟なぞ、存在いたしません」
 それにしても、なんて強い気持ちで、ひなは彼女の「お嬢様」を思っているのだろう。ひなの話す人物の、誰もが心のどこかに正気の向こう側を抱えているようで、聞き入るほどに背筋が寒くなる。

――お世話係から選り抜かれたわたくし達の渡海は、上巳の節句の翌日に、行われました。
 凪いだ海に向かって、渡海船は曳かれて行きます。船の上でわたくし共は沖を真直ぐに見詰めながら、お経を唱えたので御座いました。人数の都合からか、例に倣った箱は無く、四方に鳥居のみを設けた簡単な小舟でした。
 それまでの楽しかった毎日との決別を小声で嘆く者も居りましたが、わたくしは仲間と共に気を確かに保ち続けました。波の彼方に浜が消え、いよいよ伴走船が引き綱を断った時、弾みで波の上に小舟が保っていた均衡が、いくらか崩れたのでしょう。
 渡海船は揺れました。
  上人様お一人の乗る本物の渡海船なら、何と言う事も無いささやかな揺れでしたでしょう。しかし、わたくしどもの舟は、そうではございません。悲鳴があちこ ちから上がりました。誰かの手がわたくしの着ている物を掴みます。立ち上がる者、うずくまる者。その動作が余計に、舟の安定に支障をもたらしたのでしょ う。
 ついに。わたくしは、渡海船から海面へ、落とされてしまいました。
 春とは名のみのまだ冷たい海水が、身に着けた物に滲み、身動きも儘ならず、わたくしは沈みます。そして意識を手放したので御座いました。

……正気を取り戻したのは、一体どれほどの時間が経ってからなのか。浜に打ち上げられていたわたくしは、お屋敷の使用人に発見されたそうです。
 はい、この目や腕の怪我は、そのとき以来のものですわ。
 連れて戻され幾日も、わたくしは意識の無いまま、床に伏せっていたようです。その間に、お嬢様の身に、大変なことが起きていたとも知らずに。
  ええ、お嬢様は天候の不順のせいかお風邪をこじらされ、高熱を発せられたそうです。しかし往診のお医者は大事無いとおっしゃったのだそうです。いつものよ うに栄養のあるものを摂られ、安静にしていらっしゃればやがて、快方へと向かうだろうとのお見立てだったのです。しかし。
 お嬢様のお風邪は余程、質の悪いものだったのでしょう。悪い菌が肺に取り付き、高熱が続き。元より弱っておられた体力が持たずに、とうとう。
 お嬢様は、お亡くなりになって仕舞われたので御座います。補陀落からの便りを待たずに。
 幾らか回復したわたくしが真っ先にさせて頂きましたのは、お嬢様のご霊前に、渡海の不手際を詫びることでした。詫びたところでどうにも取り返しの付かないことではありましたが、そうするより他、無かったので御座います。

「わたくしが渡海を成し遂げ、お嬢様を導かせていただくことができたなら、それ以上の喜びなぞないものを…。お嬢様を災厄からお護りするその御役目こそ、お世話係の最も大切なものでありましたのに」
 ひなの傷ついていない瞳から、あふれた涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
 懐紙を渡してやろうと手を浮かすと、ひなは慌ててレースの縁取りのハンカチを取り出し、頬に当てた。
「お嬢様を亡くして、一年あまり。もう流す涙も枯れ果てたと思っていましたのに。お見苦しいところを…」
「泣いて気分が軽くなるなら、それでいいじゃないですか。ぼくにはよく解らないけど、女の人は涙で心を洗う生き物なのでしょう」
 そういうようなことを家主がこの前、言っていた。
「泣いた所でどうしようも御座いません。お世話係は、全員お暇を頂きました。
 ただわたくしだけは…、奥様がわたくしの有り様を哀れに思ってくださり、役立たずのわたくしに今も、お屋敷のひと部屋をあてがって下さっています」

 彼女の長い身の上話が、ようやくひと段落した頃には、窓の外には藍色の空が広がっていた。風が庭の木を揺すっている。
 ひなを彼女のお屋敷まで送って行くものかどうか迷っていると、家主の戻った気配がした。遅い!
 ノックのあと、開いた扉の隙間から、家主がご機嫌そうな顔をのぞかせた。
「遅くなってしまって申し訳ありません」
 家主お得意の無害そうな笑顔で言う。
 睨みつけている視線は、ぐっさり刺さっている筈なのに、ぼくに視線を合わさないのはわざとだ。
「ひなさんにはお部屋をご用意してありますから、今夜は泊まっていっていただきましょう。失礼ながら、お屋敷にはもう使いをやってお伝えしてあります。ご安心を」
 女性あしらいとかそういった方面の気くばりは、呆れるくらいにまめな奴だ。
「平沢が戻ったようですし、ぼくはこれで失礼します」
 社交辞令を笑顔と一緒に並べて、応接間の扉を閉めた。重たい話が堪えたのか、少し前から軽く目眩がする。
「お客の様子は如何でしたか?」
 気取った洋装から普段着に着替えた家主がそばに立っていた。
「それはもう、家主の代わりに、ひなさんのお話はしっかり聞かせていただきました。…ご不幸と心身のご不調が重なって、ひなさんには、お気の毒なことで」
「ふん…。まあ、そういうことですかね。ひな嬢の立場からしたら、そういうことなんでしょうね。麗くん、ご苦労でした」
 もってまわったような物言いを残し、家主はひなの待つ部屋の扉の向こうに消えた。


 その夜。夢を見た。
 海。霧の立ち込めた波打ち際。
 一艘の舟が今にも漕ぎ出でようとしている。
 その小舟には、ひなが横たわっていた。眼帯を隠すように少し左を下にした顔は、確かにひなだった。しかしそれは、ひなではなかった。ありえなかった。
 舟底に横たわっているのは、一体の人形だったのだから。波打つ豊かな髪も装飾過多の衣装も、ひなにそっくり、否、ひなそのものだけど、それは人ではありえなかった。
「流し雛には、西洋人形だって、引き受けることもあるんですねぇ、近頃は」
 舟を海へと押しながら、家主が言った。
「麗くん、きみもどうです、渡海。いっぺん、流されてみませんか? ああ、でもきみなら死なずに永遠に、大海原を彷徨いつづけかねないですね。補陀落が麗くんを受け入れるようには、思われないというか…」
 低く、うねりのような読経がどこかから聞こえる。目眩がする。
 場面が変わって、ぼくは狭い箱のようなものの中に、閉じ込められていた。時折、持ち上げられるように揺れる。潮の匂いと、波の音。これは、渡海船。そう解った。
「麗くん、迷わず浄土へ向かうんですよ。麗くん…」
 引き綱を断たれた渡海船は、浄土補陀落に向かって…行くのか? ほんとうに? 波が、舟を持ち上げた…。

 荒れた波に体が揺られている。最初はそう感じていた。まだ、夢の続きにいたようだ。
 目を開くとすぐ前に家主の呑気そうな顔があった。
「…心臓に悪い起こし方をしないでください」
 思い切り睨んだまま、言ってやった。
「麗くん、起きてください。今からひな嬢を送っていきます。一緒にどうですか?」

 屋敷から海までは歩くと一時間足らず。
 その道のりを、家主はひなを肩に担いで歩いた。
「若い娘をかどわかして連れて行くみたいですね、誘拐犯」
 眠り足りない不機嫌をぶつけてやる。
「疑うなら、無実を証明できますよ。ひな嬢はこうして運ばれることに合意していらっしゃいますから」
 日の出まえ、少し明るくなってきた空には、まだ星が残っている。一日のうちで空気が一番きれいな時刻だ。
 異界と繋がる夜が明けきらぬうちに、ひなを送ると、家主は言った。
「ひな嬢は一度は流されたのに、どういうわけか跳ね返された。持ち主の元に戻ってしまった。おそらく彼女の『お嬢様』への執着が、強過ぎたのでしょう。人形にも、ものによっては思い入れの強い気質のがいますからね」
「人形? にんぎょうって…! え? ひなさんは」
「綺麗で豪華な西洋人形。最初はそう見えていたでしょう、麗くん? ひな嬢の念に捕りこまれるまでは」
「でも! ほんとうに話しました。ひなさん、ため息をついたり、涙を流したり…」
「だからそれが、ひな嬢の思い描いた、そうありたいと願う姿だったのですよ。もしかしたら、きれいなお人形として大事にされているうちに、ひな嬢は自分は人だと錯覚してしまっていたのかも知れません」
 お世話係…たくさんの人形が並ぶお屋敷。『奥様』はなんて言った? この子達を、流す。流す…? では、ひなが渡海舟と思ったのは、流し雛の船?
「考えてもみてください、麗くん。どれほど使用人に冷酷な女主人でも、ここは現代の日本です。中世ヨーロッパの伝説並みに、愛娘の我がままにつき合わせて、何人も生身の人間を、まとめて一緒に海に漂流させたりはしないでしょう。大騒ぎになりますよ」
 家主は肩の上のひなを、担ぎなおした。その時、ひなの力なく垂れた腕が揺れ、包帯の解けかけたところから、生身の傷口ではなく…人形のひび割れ崩れかけた球体関節が覗いた。
「心を持ったひな嬢は、つらかったんでしょうね。自分がうまく渡海できなかったことが。つまり、主に代わって災厄をその身に引き受け連れて行く、流し雛の役割をまっとう出来なかったことが」
 潮の匂い。波の打ち寄せる音。海が、近くなってきた。
「しかし前川の奥様だって善くはない。亡くした娘の形見にと、一度手放したのに戻ってきたような人形を、いまさらのように大事にして。そりゃあ、ひな嬢だって期待してしまうのも仕方ない。涙も流せば血も流す、幽霊人形にもなってしまうというものだ。
 挙句、処置に困って何とかしてくれって…。まあ、報酬がそれ相応のものなら、私は何だって良いのですけどね」
 浜には舟が用意されていた。
 ひなを流す、流し雛…ややこしいな。ひなを海に葬るための舟は、白木でできた真新しい、ささやかな小舟だった。
「麗くんにひな嬢のお相手をしていただいている間に、これを調達しに行っていたのです。おかげ様で、いい雰囲気のものが手に入りました」
 家主はそっと、本物の少女を横たえるように優しく、ひなを船底に横たえる。少しずれて、欠けた眼球がのぞいていた眼帯も、元に直してやった。
 ぼくは…手を出すべきなのか迷ったけれど結局、砂に膝をついて、ひなの髪を整えてやった。手ぐしで、でも出来るだけ丁寧に、整えてやった。

「ひな嬢の大切な『お嬢様』は水葬ならぬ、海葬を望んでいたそうですが、実現したそうですよ。一周忌にご遺骨の一部を、海に還したそうです。ひな嬢とも、海の向こうの遥かなところで、また巡り会うこともあるのかもしれませんね」
 家主が言った。
 艪舟を操り沖までの伴走船の役割を果たしたあと、海上でひなを見送りながら。
 家主らしい、気取ったことを言っているなと思ったが、指摘するのも面倒なので黙っていた。それに、そういうこともあれば、ひなの一途な思いも報われるようで、悪いことではないと思えた。

 

               おわり