F I G H T
約4300文字(読了までに11分ほどいただきます)
腕を引っ張られたので振り返ると、知らない中年女性と目があった。
「すみません。東京まで行かれる人ですよねえ」
俺とその女性のすぐ横に停車中の新幹線は東京行だ。念のため、ホームの掲示板を確認してうなずく。
彼女の視線が俺の胸の記章にある。確認するかのように見つめている。市の職員だと、声をかける以前に目をつけられていたのかもしれない。
「はい、そうですけど」何か、と続けようとした俺の横を抜けて、女の子が列車に乗り込んだ。きりっとこちらに向き直る。
「ママ、大丈夫だから」
「でもぉ、瑞希ちゃん——」
「東京駅までなんて、何度も行っているでしょう。大丈夫よ、一人でも。着いたらちゃんとメール入れるから」
「この人にお願いしておくから、もしも何か困ったことがあったら、ね、力になってもらうのよ」
ずっと腕を掴まれたままなので、聞く気がなくても耳に入ってしまう。この、ボストンバッグを提げた女の子は、俺が乗るのと同じこの新幹線で、東京まで行くことになっている。見たところ小学校の高学年くらいの娘ひとりで行かせるのが心配で、見送りの母親は同じ車両に乗りこむ俺に、声をかけた、と。
そう言えば、昨日は終業式だったか。
「解かりました」
母親にはうなずき、娘のほうには向き直って「一応ここに座っているから」と切符を見せた。
「瑞希、わかった?」
「もういいよ、ママ! ちゃんとするから、その人離してあげなよ。時間ないよ?」
タイミングよく、発車を告げるアナウンスが流れ始める。母親はまだ俺の腕を掴んでいたことに自分自身で驚いたように勢いよく手を離し一歩引く。なので、こちらも慌てて列車に乗り込んだ。すぐに後ろで空気の抜ける音がして自動扉が閉まった。
「ごめんなさい、迷惑かけちゃって」
瑞希ちゃんと呼ばれていた少女はまっすぐに俺を見上げた。吊り目なのも手伝って、気が強そうな印象を受ける子だ。細い鼻筋や薄く開いた唇からのぞく白い前歯が、どことなくリスを連想させる。そういえば、額を出したポニーテールも、リスのしっぽみたいだ。
「もし何かあったら、その時は遠慮なく」
「ええ。———まぁ、車掌さんもいるけど」
瑞希ちゃんは肩にボストンバッグをかけ直し、俺に背を向けると、車両の奥に進んでいった。
気まずいことに、俺と瑞希ちゃんの座席は近かった。こちらから彼女の様子は斜め前方によく見えた。俺の席は職場の担当が手配してくれた指定席で、誰の責任でもないことだけど、何となく気まずい心地がした。
瑞希ちゃんがさっき、俺にかろうじて聞こえるほどの声でつぶやいたように、車掌だっているのだし、彼女のことは気にしなくてもよかった。にもかかわらず、視界の隅にその後ろ姿を留めてしまう。
正規料金を請求されないような年齢の、子どもがひとりで新幹線に乗る。長距離を移動するといことが、めずらしく思えたからだ。
春休みが始まったとはいえ正午を少し過ぎた車両内に、乗客はそれほど多くない。俺とおなじスーツ姿の男性、そうでなければ女性数人のグループや、小さい子どもを連れた家族か。通路をはさみ、二人掛けシートにたった一人で座る瑞希ちゃんは、どうにも異質な感じがした。
身を乗り出してうかがうと、彼女はシートに浅く腰かけていた。細身のデニムに包まれた膝をきっちり揃え、その上に軽く握った手を置いて。背筋を凛然と伸ばし顔をあげ、まっすぐに前を向いている。
斜め後ろからなので、表情までは判らないけれど、まるで実際には存在しない何かにピントを合わせているようだ。そしてその何かを逃がしてしまわないように、しっかりと視線で、つなぎ留めようと見つめている風だった。
緊張しているんだろうな、と思う。
そう思って見てみれば、きっぱりと白いサマーニットに包まれた薄い肩が心細そうに見える。その肩にはねる、結わえた髪の先が強がっているように目に映る。俺が初めて自分ひとりで新幹線に乗ったのはいつだった? 少なくとも、小学生の時じゃなかった。もっと大きくなってからだ。
そう思っていると急に。視線の先で、瑞希ちゃんが振り返った。迷いのない強い視線を俺に投げてくる。解かっていたみたいだ。さっきからずっと俺が彼女を見ていたのを。
反射的に視線をそらす。窓の方に顔を向けた。
目に入ってくる車窓の景色なんて、まったく脳まで上がって来ない。どこだっけ、ここ。まだ、瑞希ちゃんは俺を見ている。耳のあたりにチクチクと細かいものが刺さってくる気がする。唐突に、そうだ、と判る。
そうか。視線は刺さるものなのだ。心に。
そのままの姿勢で跳ねた呼吸を整えていると、ようやく瑞希ちゃんは元通り、前を向いて座りなおしてくれたようだ。目だけ動かして、視界の隅でポニーテールを確認する。
ふと、引っかかった。どうして俺が、こんなにこそこそ、よく知りもしない女の子の顔色を窺うようなことを、しなくちゃいけないのか。
放っておけばいい。誰に非難されるわけでもなし。いくら市職員の身分を見込まれたのだとしても、そういうことでなかったとしても。
車内アナウンスがちょうど始まった。隣は空席だったので窓側の座席に座り直し、聞くともなしに聞いていると、一人旅の女の子を見守っていた非日常が洗い流され消えてゆく。憶えるくらい聞いてきた、停車駅の名前や乗り換え案内の地名が日常をすくい上げ、意識を上書きしてゆく。
車窓はすでに市街地を抜け、行儀よく似通った姿の家々が並ぶ、住宅地に差しかかっていた。
ぽつぽつと空き地があり、公園がある。高架の線路の下を並走するひょろひょろ伸びる県道沿いには、スーパーマーケットがある。桜の並木はまだ半分以上がつぼみの状態だったけれど、淡いピンクのもやは確かな春の兆しを示している。
桜並木は車窓の奥に向かって、なだらかな坂を上がって行く。その先には、学校がある。校庭がちょうど新幹線の高架から、よく見わたせた。この前にここを通った時はちょうど昼休憩だったらしく、校庭のそこかしこで遊ぶ子供たちを見ていたので、ここが小学校だと知っている。
春休み、誰も登校していないはずのその校庭に、子どもたちがいた。大勢いる。卒業式にでも使ったのか白い大きな布の端をみんなで持ち上げているようだ。
片付けようとしているのかと思ったが、見ていると、反対に布を広げようとしているようだった。
横断幕を。そう、横断幕だ、あれは。
よくスポーツの大会なんかでテレビに映る、応援のメッセージを書いてスタンドに掲げているような。
こちらに向かって手を振っている子がいる。校庭を列車と並走しようとする子も。
残りの子どもたちにしっかりと引っ張られ、ぴんと開いた横断幕に大きく書かれた、元気いっぱいの字が目に飛び込んできた。ここからでも十分に読めた。思わず。俺は席を立った。
「みずきちゃん!」
驚いた顔で見上げた彼女の腕を引いて、立ちあがらせる。
「見て、あれ! ほら、あそこ! 瑞希ファイトって!」
俺の席まで強引に引っ張って、窓の方へと背中を押す。早くしないと! 早く見せてやらないと。通り過ぎてしまう。瑞希ちゃんが知らないまま。
『瑞希ファイト! 東京でも頑張って! けがするな! 夢を叶えろ、はばたけ瑞希!』
こちらに向かって手を振っている子もいる。校庭を列車と並走しようとする子も。ばらばらの書体と、思い思いの色で書かれた文字。聞こえるはずがない子供たちの声援が、聞こえた気がした。車窓に貼りつくようにして瑞希ちゃんは、後ろに去ってゆくその光景を見つめ続けていた。驚いたような、傷ついたような、困惑しているような複雑な顔をして。
「なんで、みんな」
かすれた声がかろうじて聞き取れた。
「なんでそんなこと、してくれるの、わたし……!」言葉が鼻をすする音で途切れる。
そのまま、瑞希ちゃんは俺の隣の席に腰を下ろし、窓枠に肘をついた。視線は窓の外。
時折、鼻をすすったり目をこすったり、涙のあとを見せることなく。横断幕の校庭がまた、もう一度見えはしないかと待っているように、手のひらで顎を支え、窓の外を見つめていた。
どのくらいたったのか。次の停車駅の案内が流れてきた。
「わたし、東京に転校するの。一人で」
瑞希ちゃんがむこうを向いたまま、低い声でつぶやいた。
「そうなんだ」
「不思議じゃないの?小学生がたった一人で上京するんだよ?」
「あまり人のことは詮索しないようにしているのでね」
公僕という職業柄、知らなくていいことや、知りたくなかったことまで耳に入る経験が多いため、年中食傷気味なのだ。他人の事情には極力興味を持たないようにしている。
「わたし、東京でバレエの学校に通うの」
こちらに向き直り、瑞希ちゃんはバレエスクールの名前を言ったけれど、聞いたこともなくて
「すごいね。バレエ、上手なんだ」
そんな言葉くらいしか返せない。
「決まってから、あんまり時間がなくて、学校のみんなにも、こっちのバレエ教室のみんなにも、ちゃんと、言えてなくて、ありがとうとか……」
涙交じりの声になる。胸の内の堤防が壊れたみたいだった。大きな目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「……ごめんなさい」
頬をぬぐって立ち上がる。
俺はその手に、
「さんざん言われているだろうけど、がんばって。さっき見送ってくれていた友達に、胸を張ってまた会えるように」
ハンカチを渡した。もちろんまだ使っていない、きちんと折りたたまれたものを。
次の停車駅からはたくさん客が乗ってきて俺の隣も、瑞希ちゃんの所も埋ってしまった。
このあと、終着駅の東京まで、俺は瑞希ちゃんには声をかけなかったし、彼女のほうもこちらを振り返りはしなかった。
それが、今から九年前のことだ。
この九年のあいだ、瑞希ちゃんは東京のバレエ団在籍中に、国際規模の新人バレエダンサーのコンクールで、賞を獲得した。日本人としては数年ぶりで、これは県内にとどまらず全国的にニュースになり、俺はそこで瑞希ちゃんのフルネームを知った。
瑞希ちゃん——上原瑞希はその後、ヨーロッパにバレエ留学をし、首席で卒業。海外で数年活躍したあと、昨年末に退団し帰国。今では国内のバレエ団に所属している。
新幹線の窓に貼りついて涙を流すまいと必死に目をこすっていた女の子が、九年たって見事に成長し、今日、故郷に帰ってくる。
そう。帰ってくるのだ。凱旋公演に。
企画を立ち上げたのは、市の文化振興課に籍を置いている、ほかならぬ俺だ。
彼女の帰国が公になってすぐに、連絡を取り付けた。帰国するなら日程を調整し出来るだけ早く、故郷に戻って華麗に舞う姿を見せてほしい。そう言って。
今日、俺はまたあの日と同じ、新幹線のホームに立っている。次に到着する新幹線に乗ってこの町に帰ってくる、瑞希ちゃんを待ちながら。
おわり