黒瀬俊哉が、夢チャレンジに残したレガシー


魔法の様な9年が、北摂という地域と全国区を結び付けた。

誰もが、驚いただろう。
「その噂」は、瞬く間に広がった。

筆者である私も全く想像もしておらず、本当に驚いたことであった。

13年。

最後の1週間、親御さんたちが次から次へと訪れ、感情を抑えきれず、涙し、沢山の大きな花束を受取るその光景に、黒瀬さんが子どもたちと過ごした時間の重みと厚みが、伝わってきた。


夢チャレンジという名の啖呵。

始まった9年というのは自由とは程遠く、あまりにも長く険しい道のりであった。

当時は、地域社会に、何よりサッカー界に、ある意味、「生意気なモノ」は、到底受け入れられずに、皆がその存在を疑い、後ろ指をさした。
それが、世間知らずの大馬鹿者が子どもたちと夢見た歴史の始まり。

1年目に起きた奇跡

大阪や京都をはじめとする強豪チームが多く存在する中、1年目の挑戦。右も左もわからない中、街の少年団に声をかけ、集まってもらって出た関西大会。PKで勝ち上がり、全国大会へと駒を進めるが、思う様なサッカーはできず、自身の中で、世間の中でもその結果だけが一人歩きした。
確かな実力とは到底言えない「全国大会」であることは自分だけがわかっていた。



あまりにも鮮烈なそのオープニングは、2期生の募集に大きく影響することになる。
しかし、経営陣との方針の違いが軋轢を生み、上手く相乗効果を生み出せないまま、2期生の募集が始まる。
洗練された精鋭であるはずの「夢チャレンジ」はこの時、揺らいでいた。

日本一が賭かった瞬間

夢チャレンジ発足3年目。

ついに夢チャレンジは全国大会決勝の舞台に立った。

その相手は、大阪の名門ペンサール。
お互い手の内を知りつくした中、全国優勝するチームのクオリティーを知ることになる。

どうすればその壁を越えることができるのか。
そうして、自身の体験と指導の中で答えを探す積み重ねの毎日が始まったが、同時にどこか燃え尽きる様な思いも、抱いていたという。

4期生以降、夢チャレンジは新たな指導者と歴史を紡ぐが、全国の舞台からは姿を消したのだ。

その時間がきっかけとなり、指導者を育てるということにも着目した。
二人三脚で運営した夢チャレンジ。
コロナの影響から、思った活動が制限される2年間。もどかしい時勢であったが、EXILEカップをはじめとした数々の歴史を創る。

7年目に見た流れ星

そして7期生、ついにまた、トップチームを担当することになる。様々な偶然が重なり、自身の指導を常に正面から取り組んでいた子どもたちとの1年が始まった。
だが当時の指導者全員が匙を投げた学年。
到底選手のレベルは低かった。その
スタートは残念なものに見えた。
初めて行ったトレーニングマッチでは、大差で負け。
だが、黒瀬だけは確かな手応えを感じていた。

チームが行う全てのアクションに狙いを持ち、返ってきた答えから自分たちのスタイルを確立させていく。

それが、関西のリバプールという異名にもなった、4-0で行う超攻撃型のディフェンス戦術だ。

それは「前プレ」という言葉では形容し難いもので、自陣には誰1人として残らず、全員が相手コートでディフェンスを開始するという力業。
と言いたいところだが本質は違った。

実現には、途方に暮れる程の課題が存在し、ただ強く前に出れば良いというものではなかった。
何十センチ単位での立ち位置、距離感、角度の調整を行なう必要があり、出過ぎれば見切られ遅れれば外される。コンマ何秒のタイミングの違いも許されなかった。
一歩が命取りとなるこの戦術は、全員の連携はもちろん、相手の特徴や武器をピッチレベルで読み取ること。そして何よりも、チームのために走るという覚悟が必要だった。
この子達が毎週泣きながら走り、ボールを追いかけていたのを覚えている。

保護者の方々の協力もあり、選手たちは講習や強化練習、トレーニングに休まず参加し、感覚を研ぎ澄ませ、状況に応じた対応、そして個人の技術に磨きをかけた。

週にたった1回、たったの2時間の中で創り上げた組織は、「負けたくない」という一つの共通点がそれ以上のパフォーマンスを生み出したのかもしれない。

全国大会3位という挫折

フットサルフェスタという大会で、「関西のリバプール」は予選を勝ち上がり全国第3位という結果を残す。

しかし、そこで突きつけられたものは期待していた様な現実ではなかった。

そう、フィジカルの壁だ。

全国レベルで通用するフィジカルとはどういったものなのか、狡猾さ、執念、一撃で流れを手繰り寄せる様なスーパープレーは、太く、大きく、そしてしなやかな身体が実現するものだった。

あのバルセロナと互角にやり合えるチームに、アリーナでワールドクラスのフィジカルを見せつけられた。
しかし、確かな手応えがグループとして感じられたという。

俺たちのワールドカップ

地域予選は難なく通過。
もう夢チャレンジとはやりたくないと思わせる内容・結果を求めたマネジメントは関西大会に影響する。

関西大会。
またも、ここで立ちはだかったのはあのペンサール。予選リーグでは惨敗。
何もさせてもらえず、強さを見せつけられたが、勝ち点6の2位のワイルドカードでなんとか予選を通過。

そして大会規定により、またもや初戦は、ペンサールとなる。
この時、両者が引き寄せた運命は、世に二つとないものだっただろう。


ここで勝てば全国出場。
試合開始直後、軸となる選手のエラーと相手のエースストライカーの無慈悲な一撃から1点、2点と失点し、その試合展開は保護者さん、そして監督にとっても、あまりにも絶望的に見えた。


しかし、子どもたちだけは諦めなかった。
1年の想像を絶する程、緻密で厳しいトレーニングを積んできた子どもたちだけは乱さなかった。
原点に立ち返り、黒瀬監督の口から今でも語られる小さな侍の躍動は、私の心をいつも躍らせる。

リスタート、ショートカウンター、エースの覚醒で3点を奪い、3-2で試合終了。

事務所の音が出ない古いPCで見る、今にも聴こえてきそうな、歓喜の声、終了のホイッスル、ボールを奪った直後に繋いだあの縦パスは、今でも鮮明に脳裏に焼き付いているし、何度も見直す映像の一つだ。

目指し続けた、全国大会。

全国の強豪が一堂に会する中、満を持して挑んだこの大会を制するのは、夢チャレンジでもペンサールでもなかった。

チームは順調に勝ち上がり、ベスト4をかけた戦いに、静岡の古豪「マリオフットサルスクール」に出会う。

この試合で、「関西のリバプール」が練習試合を含め、初めてこの1年で「逆転負け」を喫することになる。

もしかすると、「勝ち越せば負けはない」という潜在意識が刷り込まれてしまう程の、練度であったと。そう言えることもできるかもしれない。


保護者、選手含めその試合を目の当たりにした皆が、勝てそうだった、なんで負けたのかわからなかったという中、両者の監督だけは、その理由が明確に理解できた。

狙いのある取り組みを1年間やり続けたからこそ、結果に対してのジャッジが出来るということだろう。


黒瀬監督はその時、


ここに来て自分の甘さが出た。
しかし、自分の伸び代に心が昂ったという。

そうして、1年が幕を閉じた

夢と子どもたちを「ツナグ」育成


黒瀬監督もまた、夢チャレンジを通し、自身が体験したことを今後の育成に活かし、また一から歩き始める。

それらの哲学や魂は、受け継がれ、また宝塚の地でも新たな1年が始まる

黒瀬監督協力のもと、ジュニアユース、ユース年代へと繋げていく育成は、今年のテーマである「ツナグ」の一つであり、今後もJユースや強豪クラブへと、子どもたちを送り出していく。


「スタイルを確立させる」


それが黒瀬監督が私に残してくださった、夢チャレンジ9年目のテーマ。

最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。

終わりに

この記憶は、黒瀬監督と選手たちの中には、色褪せることなく残り続けると思いますが、このブログを読んでくださる皆様にも、素晴らしい時間が、そして出逢いが、夢チャレンジを通じて確かにあった事を知っていただけたらと思い、書くことにしました。

筆者である私も後任ということで、子どもたちの未来を創るという重要な責務を担っているということを忘れずに日々挑戦していきます。

稚拙な文章、表現でわかりにくいものだったかもしれませんが、少しでも何か受け取っていただけましたら幸いです。

次は、でっかいアリーナで、ふかふかの芝の上で、一緒に笑いましょう。

小さい頃から、自由に、好きな様に、そして誰よりも大切に育てた、子どもたちと。一緒に。


ありがとう。さようなら。

#レガシー #クロセイズム
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