あとがき
ペットロスについて、全11項目にわたり、記載させていただきました。
最後に、グリーフケアについても少し触れさせてください。
グリーフケアとは...
「グリーフ」とは悲嘆という意味で、最愛の存在を失った人が
その悲しみを乗り越えようとする心情です。
「グリーフワーク」とは悲嘆のプロセスの意で、死別に向き合ったときに伴う苦痛や嘆き、悲しみ、環境の変化を受け入れようとする感情の表現です。大切な家族(人でも動物でも)とのお別れは大きな悲壮感、孤独感、喪失感など様々な感情が溢れます。ときに怒りや不当感なども出現し、自分自身に留まらず周りの人たちにもその感情が拡散してしまうこともあり得ます。
このような感情は、人間であれば誰でも現れるものです。
しかし、グリーフ状態は時間の経過とともに必ず癒され、
立ち直りに向かう日が訪れます。
グリーフワークの段階
精神的打撃と麻痺状態
↓
否認
↓
パニック
↓
怒りと不当感
↓
敵意と恨み
↓
罪の意識
↓
空想・妄想
↓
孤独感と抗うつ
↓
精神的混乱と無関心
↓
あきらめ→受容
↓
新しい希望
↓
立ち直りの段階
適切な時期に、適切なお弔いの儀式を行うなど、「受け入れるため」のライフイベントを行うことも大切です。この場合のライフイベントとは葬儀や供養の場を作り、手を合わせ想いを昇華させてゆくことなのだと思います。
ここまで書いてきて、やはり実感したのは、当の書いている本人、私自身がいまだに、そしてこれからも万年ペットロスなのだなあ...ということに、今更ながら認識が深まった、ということでした。
ということは、人生が動物とずっと一緒の人たちってどうなのだろう..というところまで想いを馳せることになりました。
余談になってしまうかもしれませんが、私が動物取扱業を取得して、5年になりますが、生業としてこの業を営むことはいまだにできていません。
生業に...という安易な気持ちも正直、初期はありました。一緒に小鳥と暮らし、あまりの可愛さに、育てて一緒に暮らしてみるこの幸せを、人様に広めるのは素晴らしいことだ、そんな気持ちが大きかったのです。
しかし、そんなに甘いものではありませんでした。
最初に厚い壁が立ちはだかるのですが、それは愛情込めて育てた小さな命が、あっけなく逝ってしまうことがたびたびある...そんな事実に直面する、ということです。そうなると、新しい命に関わることに、罪悪感だってふんだんに芽生えてしまいます。
以前、私が「飼う専門」側の立場だった頃...「業を営む」という意識が皆無だった頃は、ペットショップで小鳥を迎えたり、少し飼育環境や対応に疑問を感じるような業者さんだったり、そんな方々と小鳥の売買を行う場合、下手するときちんとしたペットショップさんでさえ、なんというか、なんとなくマイナスなイメージを持っていた時期がありました。日本人特有の命の売買に対する罪悪感とか後ろめたさ...みたいなものでしょうか。勝手なイメージで動物を売り買いすることで生計を立てているのだから、仕事なのだから、きっと小さな命がひとつ消えたとしても、麻痺してしまって悲しみもそんなんでもないのではないだろうか...などと浅はかで偏った思考がきっと満載でした。
そしてそれは、割と世の中、もっと言えば人の心の基本に浸透している道徳観念で、悪いわけではない、ということが更に思考を複雑化させてしまうのだとは思うのですが。
確かに、現在でも批判されるべき粗悪なショップさんや業者さんは存在するのでしょう。
でも、大半のショップさん、そして愛鳥家さんたちは、知識にしても健康衛生面の配慮にしても皆さん素晴らしい方ばかりですし、少なくとも酷いとされる方を私は今の時点では存じません。
むしろ、命を迎え入れる側の認識不足、勉強及び責任不足、も、難があるのではないか...という思いもあったり、それは我が身にも思うところがあり、いつも意識していなくては...と感じています。売る側、買う側、どうこうではなく、命へ関わる個々の良識や意識が求められるのだと思います。
命との関わりの立場が違えばグリーフの質も乗り越え方も複雑化し皆一様ではないというのもわかるような気がします。
たった1羽の小鳥もたくさんの小鳥も、また、それこそ他の動物たちも一緒に暮らしていれば皆同じ、かけがえのない命です。
その命たちを管理して安全を保ち、世話をするのですから、表立って出なくても、たいそうな苦労も努力も、いろいろな葛藤も、そして愛情もあるのだと思います。
日本の動物に対する文化は動物愛護の観点から見ると、かなり遅れている....そんな認識や風潮も以前より、より濃くなってきているように思います。
しかしながら、命を扱うプロフェッショナルな方々は確かに存在し、そして亡くすたびに一般の飼い主さんと同様に深い悲しみを感じているのです。万年ペットロスの動物取り扱う生業の方って、多いのではないかと。
そして、人知れず悲しい想いをしていらっしゃる方も大勢いるのだとも。けれど、お仕事として業を営んでいる以上、悲しみを表に出しっぱなしにするわけにはいきません。
ペットロスを学んで、動物従事者の方たちの覚悟や、受け入れながら逃げないで、しんどさを乗り越えた強さ、のようなものが際立って感じられるようになりました。(もちろん良い面ばかりではないのですが)
そこはプロなのです。素人ではなく覚悟が違うのだと思いました。
私には、まだその覚悟が足りないですし、業として展開してゆく経験もご縁もまだ、必要性に至るまで、自分自身感じていませんし、この先もペットショップという形では運営していかないだろうな、と思っています。
自分も多数の命と向き合い、世話をし、愛でて暮らしながら見えてきている景色があります。
1羽だけと向き合っていたときは、飼い主本意な物の見方をしていた気がします。それが悪いことだというわけでは、もちろんありません。寧ろ、本来の命との向き合い方だと今でも思っています。そのうえで実際に暮らした、たくさんの命と向き合った景色とは違うということです。
ペットショップの殺処分を禁止!と声を高めるよりも、その前に1羽でも多くの小鳥を、その小鳥を幸せにできる飼い主さんが迎えてあげて欲しいと思います。※あくまでも小鳥の場合です。ワンちゃんや猫ちゃんの場合、もっと深く掘り下げないと語弊があると思います。また、その生命を迎え入れる前に落ち着いてもう一度、その生命と最後まで向き合い、時間と労力、愛情、経済を提供できるかどうか、ということを自問自答するべきなのではないかと思うのです。保健所へいかなければならない命が発生するのは、元のその子の家族の事情....という事例がとても多いのではないかと思うのです。
世話をして、管理して←(好きな言い方ではないですが)複数の小鳥たちと暮らす生活が10年以上となった今だからこそ、命を提供する側、迎え入れて終生飼育する側、どちらの気持ちも解ってきている気がするがゆえ...そんな考えに及んだりしています。
やはり命を「飼う」ということ自体が人間のエゴだということも、しっかりと頭に入れた上で、迎える命、送る命、両方の経験をさせていただいています。やがて必ず向き合わなくてはならないお別れのことも、その都度身につまされるような想いをしつつも、すっきりと悟るのは無理なことなのです。悩みながらも苦しみながらも、そして悲しみながらだとしても、それ以上の至福の時間を、与えてくれるのですから大切に大切に、出会えた命とのかけがえのない時間を、丁寧に共存してゆきたいと思っています。
なんだかまとまりのない締めになり、結局ペットロス、克服できないんだなって自嘲してしまったのですが、そうなのです。悟ることはできませんし、そもそも、克服するものではなく、訪れて、受け入れて、昇華させ同じ時間を一緒に過ごした存在として大切にしてゆくものなのだと思います。人は聖人君主ではありません。古の時代から動物を利用し、食べ、自分本意に可愛がりしてきたのです。でも人も動物も共通して「寿命」がありますし、命は有限でそこは平等です。現在は愛でることに終始できる幸せな時代でもあります。人にせよ、動物にせよ命と真剣に向き合うこと自体が、豊かな人生なのだ、と、無理やり締めさせていただきます。最後までおつきあいくださりありがとうございました。