❝仮想徹と自己正当化が常套手段であるところの"小さな"共同体から 全人類共同体へ❞
戦略が齎す結果の事情がどれ程の大事になったとしても、分かれたコミュニティ(共同体)、その分化した世界の中にあっては、コミュニティ中心利己主義に振る舞う事については、勝負だけが問題となり、互いに責任を求めると迫ったり、詰り合っても意味がない。
何故かと謂えば、世界の"殆ど"のコミュニティにおいては、大小強弱に限らず、戦略の色形に拘らず、地球上にひしめく国々の生存圏の拡大や縮小のみが、現実であり、自らが求める未来という"結果"に過ぎないからだ。
(言う迄も無いが)勝負事において参加者自身が負けを食らった事について恨みを吐いてもそれは負け惜しみでしかない。(しかしテーブルをひっくり返す事はできる。それは『まだ終わったつもりではない』と言う事で、スポーツ等とは違う争い事の穢らわしさだ。しかしありのままの生存競争の様態である。)
『殆ど』以外と言うモノは一体何か?
それは、分化せずに世界人類を一つのコミュニティと捉え、統一統治という目標を掲げて推進するところの、"大きな", "越境的, "全人類包括"指向を目指す動きの事だろう。
"結果"にしても、それは時点での状態でしかなく、多重同時戦略の一つの状態であり、そこで終わるものではない。いつかの後にその"役割"が主旋律である事が明かされる壮大なオーケストラかも知れないし、全てが主役であれば、隠れたところさえ無い雄大な超長大作かも知れない。
また、人工か、自然的なモノかによって、その完全性と強大さの度合いは異なり、而も、自然的な状態の俯瞰的観察とそれに基く研究によって人工に移行しての存続も可能なのだ…
(つづくかも知れない)