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Uber Existenceのカスタマーレビュー

雨の日は外に出たくない。でも、日本科学未来館で開催されている「第25回文化庁メディア芸術祭 受賞作品展」の作品は見に行きたい。そんなジレンマに悩んでいた私は存在を外注するサービス「Uber Existence」を利用して未来館に行きました。

「Uber Existence」では、「Uber eats」の配達員に食事を運んでもらうように、ユーザーは登録しているアクターに指示した行動を取ってもらうことができます。

ユーザーはPC画面越しから、「歩いてください」や「踊ってください」のように行動を伝えることで、他人を遠隔操作して自分の目標を代わりに実行させることができます。

私の場合、館内を巡回してもらい、館内MAPと照らし合わせて、まずは位置関係を把握しました。その過程で、私のお気に入りの作品である「PUI PUI モルカー」の第一話が投影されているブースを発見し、近づいて音を拾ってもらったり、動画がクリアに見えるまで近づいてもらいました。しかし、画面越しで見る映像は映像がチカチカしていて、白くつぶれてしまっており、はっきりとは見えませんでした。さらに周囲のノイズが混じって音が聞こえず、アニメとして楽しめませんでした。

後日、実際に訪れた時に同じブースの前に立つと、映像も音声も明瞭で、Amazon Primeで視聴した時と同様の印象を受けました。「Uber Existence」による他人の感覚を画面越しに感じ取る部分では若干の不満がありました。哲学者のヒュームは『人性論』で「人間は知覚の束ないし集合に過ぎない」と断じましたが、ここでの私は他者の(正確にはアクターが身につけているセンサーによる)感覚を通じた、「解像度の粗い知覚の束」であったと言えるでしょう。

次に、会場の外に出て、美味しそうな屋台の前に移動してもらいました。そこでも不都合が生じました。操縦している人間の財布を取り出して買い物代行して良いか悩みました。私はアクターの存在を一時的に所有していましたが、アクターの所有している財布(金銭)を所有しているのかまでは正確に把握していなかったので、あえて危険を冒すまいと、買い物代行は諦めました。仮に食べ物を買ったとしても食べることができるのは屋台の前にいるアクターであり、遠隔操作している私ではありません。ここでも生存に必要な「食事」という行為が存在を代行しても替えの効かない特別な行動であると実感しました。同様に理由で、動物として重要な好意である「睡眠」や「生殖」も存在代行では任せることが難しいので、「人生は外注できない」という警句が頭に思い浮かびました。

最後に、会場近くにいる人間におすすめの展示がないかどうか質問してみました。「Uber Existence」では遠隔操作している人間が声を出すと、アクターの前にある音声出力装置から音が出ます。アクターは声を出すことができません。遠隔操作の指示が聞こえたかどうかは手によるジェスチャーで意思表示されます。そのため、会話は代行せず操縦者が行うことになります。会場出口近くにいる男性に話しかけ「面白い展示はありましたか?」と質問すると、日本科学未来館のインターネット物理モデルが良いと教えていただきました。「仕事を続ける上で体は資本」という切実なやりとりを終えて、会話を終えた私は、インターネット物理モデルの列へと移動してもらいました。ここでも、展示で遊ぶ列に並ぶことがルール的に難しく、もどかしさを感じました。

「Uber Existence」で契約した時間は一時間で、残り15分間に迫っていました。最後にもう一人とだけ話しかけてみようと意を決し、声をかけても問題ない場所に移動し、作品を眺めている女性に話しかけました。先の男性はライターのお仕事で取材に来ている方でしたが、二人目の女性は美術関連のお仕事をされていました。今回、挑戦的なことをしようと思っていたので、モニター越しにLINEのQRコードを提示してもらえないかお願いし、承諾を得て画面越しにQRコードを読み込んでLINEの友達登録に成功しました。おそらく、私が世界で最初のテレイグジスタンスによるナンパに成功した人間ではないかと思います。後日、その方はすでに結婚をされていると伺ったので、一人の美術好きの友人として関わることになりますが、画面越しだからこそトリッキーな行動も心理的ハードルを比較的感じずに実行する可能性を感じました。インターネットで普段では考えられないような言動をする、リスクのあるツール/サービスの使い方と通じますが、あくまで存在が代行されても責任は主体(操縦者)に発生するという原則をどこまで意識させるかがサービスの安全性を左右するとも感じました。

インターネットの交流にも共通しますが、アバターを介した人間関係で、人は何に魅力を感じるかという話にもつながると考えました。相手にとって(肉体的)魅力を感じられやすいアバターを選択して操縦すれば、ユーザーは遠隔から安全に音声と会話の内容だけを選んで声掛けできるのです。仮にそれが人間関係のきっかけになるのであれば、相手は操縦者の何に惹かれたところになるのでしょうか?ここでテクノロジーが進化した世界の風刺を描いているSF作品「ブラックミラー」の中でゲームのアバターを操作する(生物学的には男性同士の)友人二人が、一人が男のキャラクターを、もう一人が女のキャラクターを選択し、VR空間で格闘する中で自然と性行為に及んでしまい、互いに性的パートナーがいるにも関わらずお互いのアバターに惹かれあってしまい、自分達のジェンダーに煩悶とする様子を描いた、「Striking Vipers」と似た状況へと存在代行がつながっていく可能性があります。

もっと身近な例を考えると、身体動作をトラッキングすれば誰が操作しても同様の画面が表示されるVtuberに対して、ファンは従来のコミュニケーション以上に内面ないし性格を重視した好意を寄せているとしたら、それは肉体に結果的によらない人間関係を生み出す余白がアバターを通じたコミュニケーションに生まれることが想像されます。

ここでのコミュニケーションを考えると、普通の対面コミュニケーションであれば相手と自分がお互いに「見る/見られる」の関係にあります。「Uber Existence」の場合は、操縦者が会話の相手を見ることができるのに対し、会話の相手は操縦者を見ることができません。見ることが権力に対応するフーコーのパノプティコン、あるいは現代のSNSに見られるシノプティコンの状況と照らし合わすと、小説家の安部公房による実験的作品「箱男」が描いた、社会での存在証明をかなぐり捨て、箱を頭にかぶることで、他人を一方的に見る生を選んだ人間と「Uber Existence」で存在を代行する人間の相似形が見られます。

操縦される側について考えると、「評価する/評価される」という権力関係に基づく岡田斗司夫が提起した評価経済と、人間の作った都市は人間の身体に合うよう設計されているので、ロボットの代替として人間の労働力が必要とされる状況、さらに重要な仕事が少なくなる中で、必須とは思い難い「どうでもいい仕事」と呼ばれるブルシットジョブの出現など、あらゆる社会環境がアバターとなる人間を求める、特殊な時代背景を思わせます。派遣や、隙間時間に働くアプリで働いたことのある私の経験から鑑みても、ノーバートウィーナーが『サイバネティクス』で危惧した「人間の頭脳の過小評価」が進行する状況とテクノロジーの進化へのギャップへの違和感も感じました。コミュニケーション周りでの生きづらさを抱える主人公が、コンビニのマニュアル化された環境に適応する様子を描いた小説「コンビニ人間」ではコンビニの音に主人公が「呼ばれる感覚」を訴えますが、「Uber Existence」ではアバターが操縦者に「呼ばれる感覚」を感じるのでしょうか。

あらゆる意味で「Uber Existence」興味深いサービスでした。サービスの質は星3ですが、今後の将来性と社会の変化を捉える事業の先見性は星5だと思いました。

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