(短編)塔の中のミノタウロス――being locked up――
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エピグラフ
本文
――あなたは特別な子なのよ
――お母さんの夢も叶えて
母とわたしはいつもつながっていた。どこへ行くのも、何をするのも一緒。そんなわたしたちをみて、他人はいつも「仲良しね」と言った。けれど、どれほどの人が気付いていただろう。わたしたちは鎖でつながっていた。鎖は赤く錆びていて外す術はなかった。
わたしたちの家は森の中にあった。三階建ての大きな洋館で、誰もが羨んだ。ツタが絡まる白い壁は遠くからでもよく見え、夏の晴れた日には真っ白に輝いていた。庭には大きなニワトコの木と小さな池があった。中に入ると、大きな鏡と真っ白な外壁とは対照的に真っ赤な床が目に付いた。リビングには大きなグランドピアノがあったけれど、何十年も調律していないせいで音が半音ずれていた。外から見ると立派に見えるわたしの家はそこら中に蜘蛛の巣と暗い色の雲が浮かんでいた。家の中は迷路のようで、初めてきた人は必ず迷子になったし、友達は怖がって誰も二回以上遊びにこなかった。わたしの家は、出口のない白くて大きな迷路だった。
そこら中真っ赤な床と黒い壁に囲まれた家の中で、中二階にあるクローゼットだけが異質だった。クローゼットだけは青い壁と白い床だった。きっとここだけは父が色を決めたのだろう。当時のわたしにとって、暗くて冷たい家の中でもクローゼットが唯一心落ち着く場所だった。青い壁に囲まれて、ふかふかの洋服とたくさんの本に埋もれて、ぼーっとする。誰にも邪魔されないわたしだけの世界。ここにはストップウォッチもない。クローゼットは別の世界への入り口だった。ほら、今も時計をもったウサギが鏡に向かって走っている。
辛いときには自分を物語にしてしまう。図書館で手に取った、果物がタイトルの本の主人公もそうしていたもの。これは、わたしの体験ではなくて、わたしの「物語」。そう思えば、なんだって耐えられた。
※※※
ガラスを飛び散らす雪の女王。籠からいなくなった青い鳥。ウサギを追いかけたアリスは穴に落っこちて、家から追い出されたヘンゼルとグレーテルは森で迷子。後ろには赤ずきんを狙う狼が。さあさあ家の外には危険がいっぱい。外に出てはいけないよ......
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母はわたし一人だけで外に出るのを嫌がった。学校まで迎えに来て、そこから習い事に行く。「そうすれば、時間短縮にもなるし、車でお勉強もできるでしょう?」そう得意げに母は言った。そのせいで、中学三年生になるまでわたしは歩いて帰ったことがなかった。そんなわたしを同級生や先生はお嬢様と言って揶揄ったけれど、わたしは友達が羨ましかった。友達と一緒に歩いて帰りたい。夕方のアニメを見てみたい。家族でテーブルを囲んで夕食を食べたい。それが当時のわたしの「夢」だった。実際、友達がなかなかできないわたしにとっては本当に手の届かない夢だった。
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青いひげを持つ男と結婚した女の子は見てはいけない部屋を見て手にかけられて、人魚姫は人間に愛してもらえず泡になった。さあさあ、外の人と関わるのは危険だよ…「好奇心は身を滅ぼすのよ…けれどわたしといれば、この白いお城で暮らせば、心配いらないの」
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「あなたは特別なのよ。」
と母は毎日言った。それが母の口癖だった。あなたはすごい子。だから、お母さんの夢も叶えて。あなたはお姉ちゃんたちと違うのよ。母は自分を犠牲にすることを厭わなかった。仕事をせず、食事を管理し、わたしをサポートすることに徹底した。少しでもケガをしたらいけないからと、わたしが料理をすることを嫌がり、友達と遊ぶと眉をひそめた。姉は家に寄り付かなくなり、気が付いたら別の名字になっていた。そんな母を見ているうちにいつしか、わたしの夢は母の夢とすり替わってしまった。六年生のある日、先生が卒業文集用に将来の夢を書きましょうと原稿用紙を配り始めた。先生、薬剤師、看護師、アイドル……。皆が思い思いの自分の夢を描く中、わたしは「お母さん」の夢を書いた。嘘の割には思いのほかすらすらと文章が出てきた。そのせいかクラスメイトも先生も、それがわたしのホントウの「夢」だと思っていた。「サインもらわなきゃね」と皆が口をそろえていった。嘘をつくのってこんなに簡単なものなんだと思った。家に帰ると母に卒業文集を見せた。その日の夕食には紅茶とケーキが並んだ。りんごの香りに包まれてケーキを食べていると、その夢が自分から言い出したもののような気がしてきた。
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「ラプンツェル、ラプンツェル、髪をおろして」魔法使いが帰ってきた。髪をおろして、魔法使いを引き上げる。「お母様、お話があるの」ラプンツェルは鏡を覗いて、髪をなでる魔法使いに向かっていった。「わたし、外に出てみたい」そう言った瞬間魔法使いの顔が歪んだ。髪は蛇のようにうねり、目は見るものを石に変えてしまいそうなほど怒っていた。鏡が割れ、割れた鏡に自分の顔が映った。――ああ、間違えてしまった。次の日の朝食は用意されてなかった。
ラプンツェル、ラプンツェル。風がささやく。きっといつか。外に出られるはず。でも、「いつか」っていつだろう?
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なぜ外へ出ないのと聞かれたこともあるけれど、自分でもわからなかった。髪を頼りに下に降りようとして、底なしの迷路だったら?飛べると思った翼が蝋でできていたら?出口があるかは、そこにたどり着いてドアに手をかけるまで分からない。翼に羽があるのかは飛んでみるまでわからない。そう思うと怖かった。家のドアには透明な幕が張っていて、母以外破ることができなかったし、わたしも破ろうとしなかった。現実世界の迷路は住む人々の感覚を狂わせるのだ。
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昔々あるところにシンデレラと呼ばれている女の子がいました。継母とお姉さんたちにいじめられ、シンデレラは毎日泣いて過ごしていました。ある日、街のお城で舞踏会が開催されることを耳にします。けれど、シンデレラはお家から出られないので行かないことにします。その夜、彼女の前に魔法使いのおばあさんが現れます。「着るものをあげるし、お家から出してあげるから、舞踏会に行っておいで。ここから出れば、お前さんの人生は変えられるよ」生まれて初めてシンデレラは助けてくれる人に出会いました。お洋服と綺麗なガラスの靴を貰ったシンデレラは、お城に向かって走り出します――
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母へのある種の反抗として、わたしは勉強を頑張った。「勉強を頑張って、東京の大学に行く」中学の先生と一緒に考えた家から出る作戦だった。家から出られるかもしれない。そう思えば、どんなに母の夢を叶えるためにさせられていたことに時間を取られても、精神的に疲れていても、勉強を頑張ることができた。受験期になると、わたしは水泳の練習をしながら受験勉強をするようになった。ストップウォッチに時計にタイマーに、いつも時間に追われていた。シルクハットをかぶった白いウサギやピンチの時に助けてくれるフェアリーゴッドマザーでもいれば、心の慰みになったかもしれないけれど、どこからも現れてくれなかった。けれど、忙しさは現実を忘れるのに持ってこいだった。
それから数か月して、わたしは無事に大学から合格通知を貰った。合格通知を持って、家に帰ると母が食事を用意していた。机にはいつものいちごがのったケーキが並んでいた。「合格おめでとう。ここなら家から通えるね」紅茶を注ぎながら、母はそう言った。りんごの匂いがリビングに漂った。紅茶の熱気で近くの鏡が曇る。
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お城についたシンデレラは、心を躍らせながら、舞踏会へと向かいます。大きな音を立てて開いたドアの方へと皆が振り返りました。遅れて入ってきたシンデレラを皆はひそひそ話し、じっと見つめています。王子様は彼女を踊りに誘いました。とても優雅なダンスに周りの人も見惚れてしまうほどでした。ダンスが終わると、シンデレラの周りに人が集まってきました。これほど幸せだったことはなかったでしょう。
※※※
わたしは読んでいた「シンデレラ」の本を床に置いた。本を読みながら寝てしまっていたらしい。ふとむかしの夢を見ていた。「シンデレラが幸せになれたのも、自由になれたのも、結局生まれが高貴できれいだったからだ。」溜息をつきながら、りんごを口にした。母が呼ぶ声がする。髪をおろしに行かなければ。
今もわたしは白い大きな塔の中にいる。ふと階下に降り、リビングの机の上を見ると、ショートケーキが置いてあった。いつのものか分からないショートケーキは崩れている。外ではニワトコの木々の合間から星がきらめいていた。ニワトコの木の下には赤いポピーが咲いている。塔に絡んだツタは枯れ落ち、窓にかかっていた赤い布は庭のニワトコの木の方へひらひらと落ちていった。
Fin...
⭐︎参考に
サミュエル・コールリッジ 『老水夫の歌』(The Rime of the Ancient Mariner, 1797)
E. M フォースター 『ハワーズエンド』(Howards End, 1910)