【雑記】解釈学の前に文献学を。
いくつかの論考で人文社と数理工の学問融合を図る上で、解釈学的な理解ということを述べてきた。これはソシュールの記号論に端を発し、エーコなどのラディカルな記号論も経つつ、大きな潮流としては文化記号論というものがその可能性を暗示していた。最も暗示していたというくらいだから、現在となってはメインストリームになった感覚を持たない。ポスト構造主義が大きく台頭し、記号で語るというのはあまり重要視されていないように思う。それよりも大きな関心ごとはチョムスキーだったり、短期的なテクノロジーの話題だったりする。
一方で解釈学という学問領域はまた現代になって勃興しているように思える。科学的解釈学だとかテクノロジーの解釈学だとか、われわれの理解を超えて日々進化するテクノロジーをどう理解するかという時に一意に考える科学的な決定論は無力に移るらしい(原発や災害などの錯綜する議論もあってだろう)。ゆえに解釈学という、物事の多面性を考慮した認識論が立てられていると理解する。
しかし解釈学ばかり目にいきがちで私たちは重要な段階を踏み忘れていないか。私はそれを文献学(フィロロジー)だと考えている。つまり文献のテクストに忠実で、それがどのようにして書かれたか、何を意図しているかを汲み取る訓練である。解釈学はむしろこれ無くしては成立しえない。ロラン・バルトが「作者の死」と打ち出した世界線に生きている傍ら、随分と後進的なことを言っていると思われるかもしれないが、古典と呼ばれるテキスト群は可能な限りその時代に忠実であることが必要なのだ。それがむしろ非Aへの想像力を増すというものである。何より我々は死んだテキストを探しに行っているのではない。過去だとか現在だとかの時間的隔たりを超えて、今この瞬間にそのテキストを「読む」ことでその生を呼び起こそうとしているのである。そこには無味乾燥な記号ではなく、絢爛豪華なイマージュ群が我々の世界を取り巻く。言葉を越えたコトバの世界に囲まれるのだ。
この考え方は井筒俊彦によるのだが、彼があの創造的誤読を推進して独自の比較哲学を打ち出す前に、忠実な文献学を行っていたことを忘れてはいけない。読むとは、その内側に入り込むことだという直観を得たのは禅や神秘主義、クルアーンの内的言語などによるところが多いと思うが、それはむしろ時空を超えて眼前にそれを呼び起こすことで自由自在に照応させるという一つの方法論なのだろう。
文献学とはある意味考古学でもある。埋もれたコトバを呼び起こす行為は同時に現在の足場を見通すことでもあるのだ。
だから自然言語でも数理言語でもデザイン言語でもプログラミング言語でも、あるいは象徴形式でさえも、その事物の成立と意味を文献学レベルで探求することではじめて解釈学が成立するのである。そこに必要なのはもちろん言語文化力。つまりセム語的な感覚を帯びながらヘブライ語原典を読むように、都市でもテクノロジーでもそこで扱われるプロトコルを習得することから、またコミュニティにおいてはそこでやり取りされているエートスを獲得することから、文献学ははじまるのである。