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【発明家 Ricky】COVID-19と家族の死。環境的制限からの脱却が求められている。

世界一の発明家(定義:21世紀のダ・ヴィンチ)を目指しております、発明家 Ricky こと滝本力斗と申します!今回は開発中のスマートマスク "Circuvisor" について、なぜ開発しようとしているのか説明させて頂きたいと思います。

1. Circuvisor のおさらい

今までの開発状況はこちらに記載されております。

Circuvisor(以下C-vi)は「①口元の投影 ②音響サポート」の2つの機能を有したコミュニケーションを豊かにするスマートマスクです。既存のマスクに搭載することで、マスク着用時のコミュニケーションに関わる課題を解決し、「つけたくなるようなマスク」を目指しております。

マスク着用時のコミュニケーション課題としては「感情が伝わりにくい」「声が通らない」が主に挙げられていました。それらを上記の機能によって解決したいと思っております。

このマスクが目指すものは「環境的制限からの脱却」です。

COVID-19は我々がいまだに環境に囚われ続けていることを証明するものとなりました。インターネットの普及により、最悪の事態を避けることはできましたが、私たちはいまだに自由(多様な選択肢)を獲得するに至っておりません。求められているのはどんな状況下においても、望む選択肢を手に入れること。例えば感染症が恐れられる中でも、それを乗り越えて自由に人と会える状況を作り出すことや宇宙・海底などの極限環境を乗り越え、そのような環境で生活ができるようにするなど様々なスケールで考えられます。

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そのような「環境的制限からの脱却」の一歩がこのスマートマスクだと考えています。人類は常に道具を発明し環境に順応してきました。石器から始まり、産業革命、そして情報革命へと道具は進化し続けてきました。Society 1.0 から Society 5.0 までの流れをみればわかると思いますが、私たちは常に発明とともにあったのです。

私は発明家として、新たな発明により社会を次の次元へと変革させたいと思っています。これは内閣府が定めるムーンショット目標1にも合致すると思います。

つまり私が個人的に望む世界観というわけではなく、世界的にも求められている世界観の一つだと考えております。

COVID-19によって起きてしまった悲観的な世界の原因の1つに「環境か道具か」という問題があったと考えております。つまり従来は環境に対して道具を創り出すことで、人間は順応してきました。しかし人間が物質的な活動領域を広げると、道具ではなく環境を人間に合わせて再開発するようになりました。これが大きな問題でした。

環境を人間用に変えたことにより、自然は大きな牙を向けました。地球温暖化や自然環境の破壊、感染症など予期できなかった環境の変化に対応しきれなかったのです。我々は環境という大きく複雑なシステムを変えられるほどの技術を持っていると過信していたのです。技術がまだそのレベルまで到達していない現在、まずは環境に対応できる道具を発明することが重要になってきます。人間中心設計が求められる現代ですが、包括的に捉えるのではなく個々の人間で捉えるということが重要になってきます。つまり人間単位で見た時に人間の能力を拡張し、どんな環境にも対応できるようにアップデートさせるということです。その延長線上に感染症、そして極限環境があるのです。C-vi はそのような取り組みの先陣を切ると私は考えております。

2. なぜ私が作るのか?家族の死。事実と意味。

そもそもなぜ C-vi を作ることに至ったの説明させて頂きます。その原因には2人の家族の不幸がありました。

一人目は母方の祖父である高木正信が亡くなったことです。

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祖父は岐阜県関ヶ原町にて「関ヶ原歴史を語る会」の会長として天下分け目の戦いとも言われる関ヶ原の戦いを研究し、多くの人にその魅力を伝えてきました。その取り組みのひとつに「岐阜関ヶ原古戦場記念館」のリニューアルオープンに立ち上げから携わってきたことが挙げられます。世界三大古戦場の話や最新の技術を取り込んで関ヶ原の魅力が伝わるようになることなどいつも語ってくれた祖父を思い出します。そしてその努力もあり2020年10月21日に開館することになりました。

しかし2020年7月下旬、急遽容態が悪くなりICUに入ることになります。意識はあったようですが、4月の緊急事態宣言を経て自粛要請が日本中に求められていることもあり会いに行くことができませんでした。そして2020年9月6日、尽力してきた記念館の開館を見る間もなく亡くなりました。(下記が岐阜関ヶ原古戦場記念館のサイトです。機会がありましたらぜひ行ってみてください。)

2020年の最初、私は大学に合格し電話で祖父に報告、祖父はそれを誰よりも喜んでおりました。母や祖母の話ではいつも町の人たちに自慢をしていたと聞きます。大学合格後、すぐにCOVID-19が世界中で広まりパンデミックとなりました。春に会いに行く予定でしたが、祖父からも「自粛するように」と言われたこともあり中々会いに行くことができませんでした。そしてそのまま、緊急事態宣言からの自粛要請、祖父の死へと私は大学生になった自分の姿を見せることもなくお別れとなってしまいました。誰よりも大学入学を喜んでいた祖父に自分の大学生の姿を見せたかった。

大学入学後は関ヶ原の町おこしをすることが私のプロジェクトの一つでした。科学者であり発明家である私はテクノロジーによりもっと関ヶ原の魅力を引き出そうと計画していました。高校生の時から研究していたプロジェクションマッピング含む投影技術を活用し、実際の戦場を再現することが私の目標でした。そんなプロジェクトを関ヶ原の専門家であり関ヶ原町に深く関わりのある祖父とともに始動させたかったと常々思います。

二人目は父方の祖父である滝本直樹の容態の悪化です。

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実家のとなりに住んでいた祖父とはよく食事会もしていました。大学合格後、報告することができたとともに顔を見せることができました。そして大学入学前の2020年3月の上旬、突然の脳梗塞で倒れそのまま1ヶ月間入院することになりました。COVID-19によりお見舞いに行きたくても行けない状況が続きます。病院が移りリハビリ入院するようになってからようやく会いに行くことができました。私が下宿先に移動する前の5月くらいになります。今まで見慣れていた元気な祖父の姿はなく、痩せ細り身体に強くダメージが残っていました。脳へのダメージにより体も動かせず、しゃべることもできません。認知機能にもその影響が見られました。

お見舞いに行った当初、祖父は私を認識することができませんでした。今まで笑顔で歴史の魅力を語りかけていたり、絵を描いていた祖父を思い出します。その時はもうそのような活動ができない状況でした。話したり歩いたりして別れ際になった時、不意に祖父が泣き出しました。私のことを思い出したのか、それとも思い出せないことを嘆いたのか定かではありませんが、常に生命力に溢れ力強かった祖父が泣いた姿をはじめて見た時でした。そしてかすかな力を振り絞って私の手を精一杯握りました。この時、私は脳の可塑性を考慮すればお見舞いを重ねることで完全に思い出すことができるのではと考えていました。帰り際は、懸命に力を振りぼしって歩き出しエレベーターホールまで見送ってくれました。スタッフの方曰く、こんなに長い距離を自ら歩くのは初めてとのことです。握手をして、手を振り私は下宿先に向かうことになりました。

その後祖父は11月くらいまでリハビリを続けます。その後また別の場所で入院することになりますが、社会情勢から面会時間や面会人数は限られ、1週間に1回となり私はなかなか会うことができませんでした。そのような親族との出会いが少ない中で、祖父は少し気力がなくなっていると聞きました。少しでも早く、会えるような世界になったらなと思うばかりです。

2021年の3月に入り、肺炎の疑いがあることからまた別の病院で入院することになりました。今まで病気というものに全く縁のなかった祖父だったため非常に驚きました。COVID-19の前は毎朝4:00には起き、4:30から4 - 5kmウォーキングをしていました。三食欠かさずご飯を食べ、水泳や卓球などのスポーツから絵を描くという創作活動までこなし、新聞を読むことから歴史書を研究すること、スポーツ観戦に紀行や歴史研究の執筆までこなしていました。そして皿洗いなどの家事までこなし、夜の8:00には就寝するという健康そのものと言えました。そんな姿ばかり見てきたからこそ、入院生活によって失われた精神的な支えや身体の健康を保つ活動が一気になくなったことに自分も不安を感じていました。そしてとうとうその反動が来たように思えます。COVID-19 によって失われた well-being の機会をどのように取り戻すか考える必要があります。歴史が好きな祖父とまた対話できるようになりたいです。

※2021年4月30日追記

2021年4月28日、祖父が危篤になりそのまま息を引き取りました。最後に立ち会えなかったという状況をまた経験したこと。自分の無力さを痛感し、環境的制限に対応できなかった世界を恨んでしまいます。COVID-19 の感染は止まりません。自分だけは大丈夫だとか関係ないとか考えないでください。私たちは共同体です。全員がつながっています。誰かに任せるのではなく、みんなで考える必要があるんです。

祖父との一番古い記憶は幼稚園の時のお散歩でした。お昼の散歩の帰りにはいつもチョコチップメロンパンを買ってくれます。今でも菓子パンの陳列棚を見るたび思い出します。夜の散歩では懐中電灯と双眼鏡を持って、近くの公園まで散歩します。小さい頃の自分にとって暗闇はとてもドキドキする場所でした。光を照らし公園まで行きブランコをこいで、双眼鏡で他の建物を見渡します。ピントがずれた時にうつるぼんやりとした建物の光は星のようでした。

いつも少し遠い駅にフランスパンを買いに行ってきてくれる祖父。祖父母の家ではそのパンでサンドウィッチを食べるのが昼ごはんの定番でした。コタツに座ってクイズやクロスワードをやる姿は今でも鮮明に思い出します。「ぱんぱかぱんのぱんぱん」といつも有名な曲を口ずさんでいました。

歴史が大好きな祖父。トロフィーがたくさん置かれた本棚にはたくさんの歴史書が並んでいます。TVを見ている時に、歴史関係のことが流れ始めるとすぐに語ってくれます。知らないことをたくさん知ってる祖父はいつも輝いていました。

絵を描くのが得意な祖父。祖父のたくさんの絵が家の額縁に飾られています。小さい頃に鏡を見ながら、自分そっくりの絵を描いた時の様子を今でも鮮明に覚えています。そんな祖父が身近にいたからこそ、創作活動が好きなのかもしれません。

祖父は四国から上京し、明治大学を卒業したことをいつも話していました。印象的なお話は大阪出張のお話です。1985年8月12日に日本航空123便に乗り、大阪に出張する予定でした。しかし搭乗直前に先に乗らせてくれと言った他のお客様に席を譲り、新幹線で大阪に向かうことに。その後、日本航空123便墜落事故が発生。祖父が生きていたことに父方の家族がびっくりしていたと話しを聞きます。

重度の聴覚障がいを患っていた祖父。その様子を見て高校生の時には、千葉大学で脳科学を応用した補聴器の研究をしていました。いつか祖父と障がいの隔たりなく対話するために。

その夢も叶わず、祖父と別れることになりました。自分も精一杯祖父と交流したので後悔はありません。ただ今じゃないだろという気持ちは強くあります。COVID-19 で失った2人の祖父。彼らの意思をつぎ、私と同じ思いをしている人の苦しみをなくすためにも実現に取り組んでいきます。

どちらの祖父も私の憧れです。勉強熱心で、常に世界を探求し続けてきました。私は科学が好きで、祖父は歴史が探求の糸口でしたが今自分が好奇心旺盛で探究心が深いのも祖父の影響が少なからずあったと思います。

2人の祖父の不幸。その原因にこそ「環境的制限の脱却」があると考えております。もしあの時、会いに行けたら。そのような思いがとても強いです。

どちらも容態が悪化する前は意識はありました。そんな時に、少しでも顔を見せてコミュニケーションを取れていたらどれほど良かったでしょうか。お見舞いという家族からの励ましの効用は経験的にも統計的にも示されています。

「感染症に関わらず、祖父に会いに行き励ませたなら」という思いを抽象化し課題としたものが「環境に関わらず、人と対面し豊かなコミュニケーションが取れるようにする」というものになります。その課題のキーワードが「環境的制限の脱却」と「コミュニケーションを豊かにする」ということです。C-vi がマスクである理由は前者にあり、それらを構成する機能は後者にあります。

死は事実でしかないです。しかし我々人間は事実に意味を付けることができます。「祖父の意思が世界により多くの幸せと自由をもたらした」と言えた時、私は返すことができなかった祖父への恩と感謝を意思を引きつぐ形で示すことができると思っています。いつか2人の祖父の意思のおかげで多くの人類が救われたんだと言えるように。

3. COVID-19 がもたらした悲観的な世界。失われた大学生活。

世界が悲観的になっていると仮定するのならばその原因の多くは「環境に関わらず、人と対面し豊かなコミュニケーションが取れるようにする」ことで解決できるのではないでしょうか?

私は大学入学とともにCOVID-19に襲われたため、2021年の2年生になった今までずっとオンライン下で大学生活を送ってきました。その大学生活はとても過酷で、何度大学を辞めたいと思ったことでしょうか。

昔から表現することが大好きでした。ダンスや演劇なんかが好きで、高校の時は色々障害があってやることはできませんでしたたが大学に入ったらサークルに入って究める予定でした。またDJやプロジェクションマッピングをやっていたこともあったので、自分の好きなテクノロジーと掛け合わせて大きなフェスを大学で開きたいと思っていました。そして何よりも楽しみにしていたのは人との出会いです。私の通う慶應SFCは面白い人が集まることで有名な大学です。これからどんな面白い人と出会えるのか、そしてそんな人たちとどんなことを共創できるか、考えただけでもとても楽しみでした。さらに大好きな研究、特にブームであった脳科学において原理とも言えるような方程式を発見し科学技術に応用することを一刻も早く行いたいと思っていました。

しかしそんな願いは叶わず、全て失われます。大学は全てオンラインへ。サークルもオンラインで対応することになりましたが、本当の姿(物質的に会うと雰囲気や仕草が読み取れるのです)が見えず、またサークルの雰囲気もわからず、活動もないという状況で私は結局サークルに所属しませんでした

そして私が求めていた人との出会いも見事に失われます。空間的な制約がなくなったことはとても良いのですが、それ以上にその人の姿が全く見えてこないのです。重要なのは「偶発的な出会い」であることにこの時気づきました。授業前後のわちゃわちゃ感、授業以外でのたむろする時間、それらが失われた中では人との出会いというものは限られてくるものです。

さらに面白い人というのもわからないものになります。授業では限られた時間しか用意されず、話す機会はほとんどないです。キャンパスは Twitter などのソーシャルメディアに移行しますが、エコーチェンバーにより面白い人というのは中々スポットライトが当たらないものです。想定していた面白い人と面白くない人のギャップに苦しみます。ここで大学の意義を見失いました

授業も課題も孤独との戦い。人と話しながら、課題を進めるからこそ苦痛がなくなり楽しみながらできるものだと思いますが、そのようなものがない中では常に精神との戦いでした。そして精神が不安的になると、やりたいこともできなくなってきます。はじめは物事をポジティブに捉えていましたが、長い期間の孤独は思考にも影響してきます。研究も手がつかなくなってくるとともに、やりたいことだけが山積みになってきます。モチベーション管理の重要性を学びました。

そんな失われた大学生活。今は大学を休学し、このC-viに取り組むとともに様々感じた大学の課題を解決するために活動しています。次の世代が自分と同じ思いを抱えないために。

これは私が感じたCOVID-19のもたらした悲観的な世界でした。これ以外にも多くのことを皆様は感じたことかと思います。全ては「オンラインに対応しきれていなかったから」となっていますが、修学旅行や体育祭などの学生イベント、家族旅行など物質的な活用が見られるものにおいて全ての原因をITCの利活用不足と言えますでしょうか。

この課題を解決するにはそうした情報空間だけのものの見方ではなく、情報空間と物質空間を活かした世界を実現することだと思います。そのような面で見ると「環境に関わらず、人と対面し豊かなコミュニケーションが取れるようにする」という課題は即していると考えます。

時代はビットからアトムに向かっています。これが実現すれば、どんな環境でも人間は集まるという選択肢を手に入れることができるかもしれません。失われた物質空間の出会いを復活させます。

4. だから私が作る。

以上が私がスマートマスク "Circuvisor" を発明しようと思った経緯になります。祖父の死、失われた大学生活、悲観的な世界、これらが私の課題感です。

2015年、映画『Back to the Future 2』(1985)が舞台にしていた時代がやってきました。以下、映画.com より引用させて頂きます。

大ヒットを記録した「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)の続編で、シリーズ全3部作の第2部。2作目と3作目はまとめて撮影され、半年の間に続けて公開された。無事に1985年へ戻ってきたマーティの前に、2015年からデロリアンに乗ってやってきたドクが現れ、マーティの将来に危機が生じると告げる。その危機を回避するため、2015年の未来にタイムスリップしたマーティは未来世界での事件を解決するが、そこでのささいな出来事が発端となり、戻った先の1985年は全く違う世界に変貌していた。世界を元通りにするため、再び1955年にタイムスリップすることになったマーティだったが……。

映画場では主人公がタイムスリップした未来である2015年にはたくさんの未来の技術が登場していました。空中投影やスマートグラス、ロボットカフェ、空飛ぶ車、ホバーボードなど様々です。そして現実の2015年にはどれくらい実現したのかという調査がされました。

当時中学2年生だった私はあまりに映画上での世界と現実がかけ離れていることに驚きました。発明家歴は今年で15年くらいになりますが、私のその発明の思想を形成していたのは小さい頃から見続けていた Back to the Future シリーズに他ならなかったためです。

危機感を覚えた私はすぐに映画上に登場した技術を実現しようと思いました。注目したのは自動靴ひも結び機「Air MAG」です。

映画では NIKE が未来で開発した足を入れると自動で靴ひもが締まる靴として登場していました。実際2015年に映画と同じようなものが登場したのですが、それ専用であることや数量限定であることなど違和感を多く感じました。

またその時、弟が手を骨折し靴ひも自分で結べない状況を目にしていました。そのような課題感が重なり、私は自分の手でこれらを作ってしまおうと思い実際に開発しました。そして完成したのが自動靴ひも結び機「ガーペント」になります。

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この経験から私は重要なことを2つ学びます。

まずひとつは誰もつくらないなら自分がつくれば良いということです。誰かを待つのではなく、自分が作り手になってしまえば良いということを学びました。

もうひとつは未来の技術は創ろうと思えば創れるということです。つまり未来は自分たちで創るんだということを学びました。

これらの教訓を経て、私は今も課題ドリブンと夢ドリブンでSF技術を次々に創生しようと活動しています。全ては「人間が自由に幸福を追求できる世界」の実現のためです。

私がここで言いたいのは、自分にはその技術を発明するポテンシャルがあるということ、そしてそれを発明する理由があるということです。そしてそれを発明する解像度も持ち合わせることを示しました。このプロジェクトでも自身の発明家精神を活かした活動ができるようにしていきます。(滝本)

※ 現在開発資金が不足しています。ポケットマニー程度の自分の資金からなんとか抽出している状況です。本格的な支援金が受け取れるまでの開発資金について、お気持ちだけで結構ですのでサポートいただけると幸いです。どうぞよろしくお願いします。

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