母の日に寄せて

桜が散って、次はゴールデンウィークを迎える。今メールには、ゴールデンウィーク明けの、母の日のギフトの案内が、多くなっている頃だ。
私と母とは、卒業大学が一緒だ。そしてその事が、母の自慢でもあった。しかし私の10代は、母の苦労の上に、成り立ってきたような気がする。

本当に私は出来が悪かった。成績は、後ろから数えた方が早かったようだ。しかし母は成績優秀な学生であったらしい。その事は、母の後輩であった国語の先生から、聞かされていた。でも私は母と比べられることがその頃すごく嫌で、なにもしなかったことは事実だった。
今でも忘れられないのは、高校3年生の夏の三者面談で、担任の母の後輩の先生から「この成績では、お宅のお嬢さんはうちの大学には上がれませんよ」と言われた。母は呆然とし、私には寄るところがあるからと、1人で家に帰るように言った。その日の母は、ずいぶん遅い帰宅であったが、ものすごく機嫌が良かった。どうしてそんなに機嫌が良いのか聞くと、占いをしてもらってきて、その占い師に「娘さんは大学にいけますよ」と言われたらしい。母は無神論者で、とても占いなど信じる人ではないと思っていた。しかし娘の不出来は、それをも崩してしまったようだ。そうして入学した大学の卒業式には、両親が嬉しそうに出席していたのを、今でも覚えている。

大学を卒業して、3年で、母は他界した。これは私の予想より早かった出来事だった。母との思い出は、これからいろいろな文章で披露していきたいと思っているが、今回は私の反省をここに書き残したいと思う。
大学を卒業してからも、母は厳しかった。それを強く感じたのは、就職して間もない頃、残業して遅くなることを連絡しなかったら、改札口に何時間待っていたのか、すごい形相で母は待っていた。そして家に帰ったら、2時間のお説教を食らった。
母は亡くなる半年前、以前からの希望で、私と一緒にヨーロッパ旅行に行った。その時気になったのが、母のいびき。それからわがままをいったことのない、母のわがまま。ローマのバチカンで、もう歩きたくないと、だだをこねた。それだけでなく、疲れたと言っては、タクシーに乗った。私は呆れただけで、それが脳腫瘍の兆候だとは、気がつかなかった。

母は旅行の写真が気に入って、いつも人に見せられるよう、わかるところに置いていた。父は「行かせた、行かせた」と言い、母は「行った、行った」と言った。しかし帰国してわずか1週間後、母の言動がおかしいと家族が言いだした。まずわかるところに置いてあったはずの写真がないと、泣きながら探す。また弟の顔がわからず「あなた、誰?」と聞いたらしい。さすがに変だと思い、乳ガンで世話になった病院に救急車で連れていったら「脳腫瘍でもう助かりません」と言われた。その事を会社で連絡を受けた私は、電話口で言葉を失った。翌日、病室の空いていなかった大学病院に替わった母は、私の顔を見るなり「淳子が来てくれて安心した」と泣き出した。
しかし、緊急入院をした病院では、私の保証人で母の兄である伯父に「淳子を頼む」と言ったらしい。その伯父は亡くなるまで、財団に協力してくれた。
医者の説明では、母の脳腫瘍は「松果体部腫瘍」という珍しいものであった。その腫瘍は脳の真ん中にあり、脳水に影響を与えていて、既にこの1週間が峠だという。私は、そんな急な事はあるのかと、耳を疑った。

それからは、会社に事情を話して、出来るだけ母に付き添った。その時、私はすごいことを耳にしてしまった。それは見舞いに来た人に「うちの娘はできた娘なので、安心なの」という母の笑顔での言葉であった。私はその言葉を聞いて、涙した。あれほど苦労させらてきた娘のことを…その母の言葉を実現したくて、犬山城と共に生きることを人生に選んだのかもしれない。

それから半年、母は生きた。父は効かないかもしれない高額の丸山ワクチンを投与した。私の誕生日近く、母に「私の事、誰だかわかる?」と聞くと、かすれた声で「淳子でしょ?」とはっきり言ってくれたことを、私は今でも、覚えている。その言葉は、母の話した最後の言葉になった。

母が亡くなった時、菩提寺の大和尚に、私はひとり別室に呼び出された。大和尚は、立派な数珠をくださり「これからの成瀬家の法事はあなたが仕切るのですよ」と言われた。今思えば、これが旧家のしきたりなのだと、思った瞬間だったのかもしれない。

1年のうちで、この時期だけは、母のことを強く思い出すために、母の日はあるのかもしれないと私は思う。しかし私は母に、白いカーネーションを送ったことがない。それより、日頃お世話になっている方に、感謝の気持ちを込めて、赤いカーネーションを送っている。

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