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犬山桃太郞伝説の誕生

山の神と子供社そして桃太郎神社の成立

古くから犬山栗栖地区には山神信仰がありました。山の神を祀るヤマノコ行事が行われてきた。ヤマノコとは「山の講」「山の子」などと記されている。「山神様」として信仰の対象となっていた。

桃山の麓にある山神様

犬山市史・別巻(文化財・民俗)には栗栖の山の神についての記述がある。
『山神は子供の神様として崇敬されている。子供が夜泣きすると、山神に参り、治るとセイタケゴヘイ(竹を子供の身長の長さに切って、それに御幣をさしたものをたずさえて、お礼参りにいく。そのとき、オヤス(わらで丸く小さい輪を作ったもの)に油揚げ、鰯、ご飯を供える。』

昭和4年(1929)栗栖を探訪した報知新聞記で童話研究家の者田中千畝は、新聞記事「桃太郎発祥伝説地を探る」の中で桃山の祠を次のように紹介している。
『大安寺山のすぐそばに、桃の形に似た円い山があります。栗栖の人達は桃の山とか桃太郎山とか呼んでいます。その山下に子供神という小さな祠がありますが、これこそ桃太郎を祭ったもので桃太郎さんとして里人の信仰を集めています。とても小さな木の祠で、もう風雨に朽ちています。前にはごく粗雑な原始的なお安というワラ製の食器、幣などが供えられています。毎年十一月七日の夜子供達はこの祠前に徹夜し赤小豆飯を炊いて桃太郎を祀るのだといいます。子供の病気の時等身大の幣をあげればきっと癒るというのですが、桃太郎さんが子供等を護って呉れるのだそうです。』

こうしたことから栗栖地区の山神信仰は子供神(子供社、または子守社)と同一と考えられる。

桃山の麓にあった子供神社(絵葉書)

犬山桃太郎伝説の発見

桃太郎伝説地犬山は、犬山の小川眞潔が桃太郎話にまつわる地名が日本ライン周辺に残っていることに着想を得て、大正14年に「桃太郎誕生地」の標柱を立てたことに始まります。

昭和16年(1941)に稲垣満一郎が執筆した「日本ラインの桃太郎」には次のように書かれている。
『栗栖に伝わる桃太郎の説話を最初に発見したる人は犬山町の小川眞潔氏なり。同氏は栗栖を中心とする地名がことごとく童話桃太郎物語に符合していることに興味を抱き、これを栗栖出身の考古研究者斉藤富三郎氏(在名古屋)に質したところ、同氏も大いに共鳴し、同郷出身の安西氏(在名古屋)等と相謀って桃の山近くに日本ライン河畔に「桃太郎誕生地」の標柱を打ち込んだ。時に大正十四年六月廿三日のことです。』
『此の標柱に異常の関心を持ち、熱心に乗出したのは現桃太郎社主にして当時栗栖区長だった川治宗一氏です。
同時に研究的態度を以て乗出したのは当時程近き河畔に画室を営んでいた近世鳥瞰図の大家吉田初三郎画伯並に其の門生として観光社編集長を務めていた筆者(稲垣満一郎)の二人です。
因みに其の宣揚に当り最も力大きは吉田初三郎氏をはじめ、巨資を投じて土地建物を提供された名古屋の後藤利兵衛氏(大須ういろ社長)、名古屋特者の誘引につとめられた紀藤芳雄氏、松山玉三郎氏、小川博平氏、山田蘇川氏等の諸氏にして、一方終始一貫して其の宣揚と経営に当り、遂に今日となるに至ったのは現社主川治宗一氏が懸命の努力によるものだ。』


桃山の麓にあったころから子守社は桃太郎神社と呼ばれていた(絵葉書)

犬山の桃太郞伝説は、山神信仰→子供神社→桃太郎神社(桃山の麓にあった)の存在と、桃太郎話にまつわる地名が残されている点にあると思われる。
吉田初三郎の著書「桃太郎発祥伝説地の一考察」によれば、全国を取材してきて桃太郞の『爺は山へ柴刈りに、婆は川へ洗濯に』に最もふさわしい景色は、日本ライン周辺であるという。