【事前メモ】連続講座「面とはどんなアトリエか?」第4回
2023年10月15日(日)に、映画監督の七里圭さんと、いぬのせなか座第一期メンバーの鈴木一平、そして私(山本浩貴)の3人で、連続講座「面とはどんなアトリエか?」第4回を開催します。
今回の主たるテーマは、AIと面。
第1〜3回までについては、前回の予告記事を御覧ください。
当日の流れ
今回の大まかな流れは以下のようなかたちになるかと思います。
①七里圭による8月の上演「シネマの再創造・リブート」を、記録映像や舞台図などとともに振り返りつつ、七里作品と人工知能の関係性について議論
②鈴木一平による、人工知能とポスト・メディウムをめぐる問題提起
③山本浩貴による問題提起
また、①と絡めて、今回新たに制作した「先取りと抵抗、デジタルシネマと映画――七里圭 all works diagram ver.2023」(A4/4ページ デザイン・執筆:山本浩貴)を、来場者のみなさま全員に配布します。
七里さんの活動全体を網羅するダイアグラムに、描き下ろし原稿4つがついたものです。全活動を見渡す図の制作は今回が初となります。今まで七里さんの作品に触れてこなかった人にもその核がわかりやすくつかめるものになっているかと思います。ご期待ください。
鈴木一平による問題提起
鈴木一平からは、人工知能とポスト・メディウムをめぐる問題提起が行なわれる予定です。以下、打ち合わせで上がった論点を列挙します。
・実はこの画像がAIでした、で失われるものはやっぱりばかにできない。七里さんが第三回で提示した概念である「版」は、表現を裏で支える権威性であるとともに物質の加担したかたちで成立する複製可能性でもあったが、そこでAIによるディープフェイク的なものは(ありふれた話ではあるがしかし)ばかにできない。表現の真実性をめぐる認知そのものが変容してしまう。 そんななかで、デジタルシネマの隆盛に抵抗し「映画とはなにか」と問い、上演と映画制作(記録とフィクション)を多重的に仕掛けてきた七里さんが、最新作でAIを半ば露骨に用いたというのは、「版」をめぐる問いという点で非常にわかりやすい筋道だろう。 (そこでのAIの使用方法は、モーションキャプチャー的なもの。そこで肉体はある種の版として機能してもいる。いわば、版をもういちど作る、みたいな感じ。(そのような、もととなる肉体自体ない、とすると、どうか……?))
・AIイラストが「すごいもの」になりうるかどうかというのも、案外でかい問題。情報量のめちゃくちゃ多い(物量による崇高さに基づく)作品は今でも容易にできるがそれってどうなの、と言いつつ、人間の肉体の構造的にそのような崇高に逆らえなさそうでもある。
・西川アサキさんが数年前展開していた「中枢」をめぐる議論。どうやっても中枢が生じてしまうということをどう考えるか。ただ現在のAI周辺はそことは別の方角に行っている感はある。
・円城塔さんの「AIを精神分析したほうがいい」問題。
・AIの書いた文章に何が織り込まれていて、人間の書いた文章に何が織り込まれているのか。文章が写真のように書けてしまえる時代に、言語表現という形式はどういうメディウムを備えるのか。
……
山本浩貴による問題提起
鈴木が総じて、表現とAIをめぐる変容についての議論を提示するのに対し、山本は、近年取り組んできた、ホラー論や大林論や荒川ギンズや「無断と土」などで示してきた、上演における戯曲=法への抵抗――悲劇、法、自由意志をめぐる問い――と、AIの関係性について考えます。
・近年のAIと「(意志の)先取り」をめぐる話
・東浩紀『訂正可能性の哲学』の話(人工知能民主主義)
・第一回で触れた東のサイバースペース論での図を再考する話(=面の奥のリテラリズムから、面の表層、手前側の生、そして喩のリテラリズムへ……という第一回で示した認識を、あらためて検討する)
・1980年代吉本隆明と宮沢賢治・柳田國男の話(ハイ・イメージと科学信仰、自然法とそれへの抵抗、上演とテクストにおける幽体離脱的経験など)
・上演について考えることとAIについて考えることがなぜ重なるか、の話(七里圭の作品群に一貫してある先取りと抵抗、および近年の山本の実践との関連性)
個人的には、いったん社会的な大きな話として展開しつつ、あらためてぐっと表現における身体感覚や質の問題へとそれを落とし込んでいくような話し方ができるといいな、と思っています。
第4回は10/15(日)開催!
連続講座「面とはどんなアトリエか?」第4回は、10月15日(日)開催です。
第1回、第2回、第3回に参加していないという方でもまったく問題ありません。気軽にお越しください。
16:00より、三鷹SCOOLにてお会いしましょう。
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