【symposium】(Part.8)「クバへ/クバから」_第1回座談会(レクチャー1)上演記録「三野新の作歴とプロジェクト全体の基本構想をめぐって」
(Part.7はこちら)
資料としての写真/戯曲:「Prepared for Film」シリーズ
三野 続きまして、「Prepared for Film」シリーズを、2012年から2018年にかけて行ないました。「資料としての戯曲」という考え方に近づいた時期です。
出典:三野新「Prepared for Film」シリーズ (2012−2018)
『Prepared for Film』とは、フィルムのための準備という意味なのですが、そのフィルムというのは、サミュエル・ベケット作の映画の戯曲『Film』を元にしています。
この作品は、登場人物であるバスター・キートン扮する分裂する視点EとOが主軸となって、物語を駆動させています。
いや、物語と言っても、ただ、通りから、階段を通って、部屋に行く、というだけなんですけどね。
ただ、そういう、なんの意味もない行為を、カメラを使って映像にすると、そこには、運動が写り込んでしまっているし、視線や視点、カメラアイや構図、なんかも見えてきて、全然意味なくはない、というか、そういう観点からすると、すっごい意味あるよ、ということが分かってきます。
そして、そのベケットの戯曲or台本には、映像表現に関する重要な役割を持っている、というだけでなく、今回は、片想いという人間の感情に結びつけて考えて演出を行いました。
なにかの準備をする、ということは、それが完結していない、ということです、当たり前ですが。そして、世の中、というか世界には、完結できないもの、の方が、完結したものよりも遥かに大きい比率を持っている、と僕は考えてしまいます。
例えば、恋愛の時。ある一人が、一人の人間に想い焦がれる瞬間を想像してみると、きっと、そこには、完結した感情は存在していなくて、それは、一つの方向に向けて動き出す感情、そして、その感情が、ふたたび、その人に対して返されること、ということがセットになって始めて、それは完結することができるはず。
きっとその瞬間は両想い、ってことになるんだろうけど、でも、そんな両想い、っていうことは厳密には、ある時、ある瞬間、それが一つではなく、二つである、二つの感情がいま確実に向き合っている、という実感がある、っていうことになるわけです。
でも、きっと、そんな奇跡みたいな瞬間なんて、人生であるんですかね?どうなんですかね?
僕はあると思うし、きっとベケットもある、と答えるんじゃないか、という僕なりの前提でこの作品を作ることにします。
くり返しますが、準備をする、というのは、それがまだ完結してない、ということです。そして、準備をする、というのは、きっとそれが完結するはずだ、という希望があるからやることです。
僕たちがやること、それは準備です。準備しかやりません。
でも、そこには、きっと希望があります。きっと。
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