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なにを食べれば

そんなことを思いつくんだろう。

そう思うことが、よくある。とくに文才において。いまも、深夜の1時に日本酒片手にキーマカレーの鍋を混ぜながら、考えていた。

硬質な言葉遣いの中にウィットが混ぜこまれた文章を書く同期。これまたちょっと難しい言葉遣いの中にその人の感性と人柄、そして物語を感じさせるものを綴る先輩。どちらもこれまでにたくさんの言葉をインプットしてきたんだなと思う。それから、とんでもないことを淡々と書き連ねる友人。雑草の出汁を取ったレポとか。

彼らの文章はどれも読ませる面白さがあって、わたしの文章には、うーん、たぶんそれはない…気がする。
なにを食べればそんなことを書けるんだろう、と、半分尊敬と、半分ジェラシーみたいな感情を抱く。霞でも食ってんのか?

でも、彼らは別に霞とか、木の根っことか、珍しい生き物の脳みそとかは多分食べてない。雑草出汁は飲んでるかもしれないけど。わたしと同じように白米を食べたり味噌汁を飲んだり、学食の小鉢を食べたり、まあ、概ねそんな感じなはずだ。
それに、もしわたしが彼らと同じ本を読んで、同じ人に会って、同じ景色を見ていたとしても、彼らと同じ文章が書いているとは到底思えないのだ。

結局のところ、同じものを経験しても、それを受け取り、消化した末に何が出てくるのかは、その人次第だと思っている。

✂︎‬

先日アルバイト先で新人の子と店長といたときのこと。丁寧に仕事をする新人の子を見た店長に「店でいちばん丁寧かもしれんなあ」と言われ、わたしはニコニコして「そうですね〜」と返事をした。けれど、実はその子に初めてその仕事のやり方を教えたのはわたしで、つまりその店でいちばん丁寧な仕事のやり方は、わたしのやり方でもあるのだ。店長はそれを知らないかもしれないけど、それはわたしがいつもあたりまえにやっていることだ。
でも、そのことを店長にひけらかしたいとも思わなかった。それってわたしのおかげなんですよ、とかは別に言いたくならなかったし、思いもしなかった。それはなんでだろう、と改めて考えてみたのだけれど、結局これも「同じものを食べた人が同じ文章を書けるわけじゃない」ってことと同じだからじゃないかなと思った。

私が新人さんに仕事のやり方を教えたとして、その子がその後どんなふうにやっていくのかは、その子次第だ。同じことを教えられても、めんどくせえな〜と思ってもっと雑に済ませる人もいれば、より丁寧に取り組む人もいる。だから、その新人さんが丁寧に仕事をしていたのは、結局その子自身の影響が大きいんだと思う。わたしの影響がゼロってわけではないけど。

だから、まあとにかく、何かを受け取ったときに、それをどう解釈して消化していくのかが、その人をその人たらしめるんじゃなかろうか……。
などと、当たり前っぽいことを小難しくこねこね考えながらキーマカレーを混ぜ続けていたら、飲んでいた日本酒をキッチンの床とズボンにぶちまけてしまった。
この間は本棚に水をぶちまけてしまった、し、それはそこまで悪いことでもなかったけど(前のnote参照)、今度は日本酒。うわー最悪だ、もったいない、部屋中酒臭くなるし、とか思ったけど、まあこれも考えてみればそんなに悪いことじゃなかった。ベタベタしないし、透明だし、アルコールは蒸発早そう(?)だし、なんか肌とかツルツルになりそう(?)だし。
けどこの感想って、日本酒をぶちまけた人が全員抱くものではない。「日本酒をぶちまけた」という事象を他でもないわたしが受け止めて解釈した末に出てきた感想であって、そしてわたしはこの感想がけっこう好きだ、し、そう思えることってけっこうだいじなことな気がする。

ま、こんなかんじで、いろんな経験を「食べて」、自分なりに「味わって」「消化」し続けてたら、いつかちょっとおもしろくていいかんじの、わたしらしい形のウンコが出るかもしれないですね。……おしまい。

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