平和を願う本質とは。長崎で被曝した森田冨美子さんに話を聞きました。
長崎の原爆でご家族を亡くされた森田冨美子さん(93)に取材致しました。
簡単に取材しましたと書きましたが、「自分の家族がとても辛い形で亡くなった話」を初対面の人に話すことはとてもとてもしんどいことだと思います。
私がそれをしろと言われたらできるだろうか……。何度話しても辛いはずです。
それでも冨美子さんが語ってくれるのは、それをご自身の務めだからだと。じゃあ、受け取る戦争を知らない私たちも知ることが務めだと思います。人の痛みに耳をすませること。じゃないと個人の悲しみはなかったことになってしまうから。個人の悲しみがなかったことになったら、また同じことを繰り返してしまうから。
原爆で家族を亡くすということは、整えられた環境で個人を偲んだり、遺品を整理したりなんてできないんですね。
「火葬が終わって手を見たら、血やゴミで真っ黒だったのですが、私に残されたものはこれだけしかないと思って、手や足に一生懸命その汚れをすり込みました」
と冨美子さんは仰っていました。残されたものは「家族の血とゴミ」なのです。16歳の少女がそれを手足にすり込むのです。
具体的な話は取材した記事を読んでいただければと思います。
この凄まじい体験と一緒に、冨美子さんがハワイに行って真珠湾で手を合わせた話を合わせて聞くと「平和を願う」本質に触れられると思います。
「だけど理不尽に亡くなった人たちを前に、敵も味方も関係ありません。」という言葉は重いです。私は同じ状況でそう言えるだろうか。憎くて憎くてたまらなくて復讐心に覆われるんじゃないだろうか。でも、冨美子さんは分け隔てなく、全ての人の平和を願うのです。冨美子さんのような人たちばかりだったら、戦争は起きないのだろうと思います。
取材が終わった後も冨美子さんはたくさん語ってくれました。焼け野原を歩く中、一人の少女に「鹿児島に帰るにはどうしたら良いか」と声をかけられたこと。家族のこと、自分のことで精一杯だった冨美子さんは「駅に行けばなんとかなるのではないか」と返事をされたそうですが、その後、ずっと彼女のことが気がかりだったそうです。そして、記憶を頼りに娘さんと一緒に資料などを調べる中「無事帰れたのではないか」と思えるに至り、70年以上経ってやっと少し折り合いをつけられたそうです。
誰かの無事を祈り続ける方なんだと思います。それが一瞬会っただけの人でも、当時の敵国の人でも、全く関係のない人でも。
どんな人になりたいか、とこれまで聞かれることがありましたが、今は「分け隔てなく誰かの無事を祈れる人になりたい」と私は思います。
どうかたくさんの人に、そんな森田さんのお話を読んで欲しい。読み、そしてシェアしていただけるととても嬉しいです。