イヌコワについて
犬が怖くて脚立から降りられない人の物語を、7頭の犬をめぐるエピソードと4つの対話で描いた戯曲「イヌコワ」の紹介です。
個人に顕著な弱点があること、それは社会から克服する努力(無茶なチャレンジ)を求められる。仲間に入りたかったら、壁を越えなさい。犬恐怖症は不自由だからと、なんとか克服(マスキング)したら、恐怖という原初的な感覚を克服したら、何か大きなものを失うのではないか。
「成長」とは「自主的洗脳」じゃないのか、脳を社会に都合よく調整すること、構成員として整然としたピースになること、それは実はイキモノとしての本来の力を失うこと(家畜化)ではないのか。
私自身、人より強い恐怖は不自由ですが、アイデンティティだったり、イキモノとしては健全さだったりする…という気がします。それを乗り越える、あるいは乗り越えない、とはどういうことかを自分に準えて考え、架空の時間を構築しました。
もうひとつは、戯曲を書きながら、それの属性を含む一般的イメージから個が立ち上がる瞬間について考えたかったこともあります。女、男、オトナ、子ども、人間、動物、モノ、出自にはイメージがあり、初対面では属性のイメージがまず前面に来ます。親しむと情報が増えてきて、一般的なイメージ以上の印象が形成され、個が立ち上がる、立ち上がった!と思えた時、相手もそうだといいけれど、つながった、感動する、と思ったのです。
犬が怖い私でも、ある犬に対してはそう思う瞬間があった。その経験で犬一般を好きになるほど強化はされませんでしたが、わずかでも、気が合うというか、個としてわかりあえる個体には出会ったことがあった…ことを思い出しました。人でも動物でもモノでも、一般的な属性を逸脱して自分だけの誰か、何かが立ち上がることがある。
よく言われていますが、恐怖や誤解を乗り越える方法として可能性があるのは、個と個が出会い、お互いを認める瞬間があること、そういう関係性が社会に増えることで、争いは少なくなりうるのではないかと思います。
私の生業はライターです。長年文筆業の職人として、紙媒体や電波、WEBサイトなどで書く仕事の経験を積みました。仕事が好きですし、やりがいもあります。ただ、かつて幼い私が百余の物語で、怖い現実から退避できたり、充電できたりしたように、いつか人を別世界に連れていく仕事をしたいと、願っていた。八百万の神に全力で願っていた、願うだけ願って…ようやく書いてみたのが、本作です。
ご縁あって美学校の講座「劇のやめ方」に参加したことで構想をカタチにできました。「劇をやめる」という講座の意味合いでは、恐怖症をマスキングせず物語化(客体化)すること、それは新しい劇を始めることかもしれないけれど、自分というイキモノの立ち位置を自覚すること、に役立ったかなと思います。生きている限り、社会という劇から降りることは難しいけれど、上演中の舞台からちょいと裏にひっこんで、一瞬楽屋で鏡を見て、役を仕切り直す方法はある、という事でしょう。
イヌコワに興味をもってくださってありがとうございます、心の底から感謝です。