不満日記5 親ガチャなる言葉について考える編

今月は特に不満なく順風満帆だが、当たり障りのない事を書いていく

親ガチャという言葉が流行っているとかでニュースにも取り上げられたらしい。日本が貧しくなった証拠だという論調も見られたけど、むしろ豊かになった証拠だろう

貧しい人、マイノリティに属する人、教養の無い人、前時代に議論の場に立ちづらかった人にもインターネットが普及してきた証拠と捉えると結構な事じゃないか

今まで賛美されていた貧困からの脱出の物語も今後は変わってくるかもしれない(もう変わってるのかな?)

僕を含めて老害世代の人間がけしからんと思う気持ちももちろん分かる。恩知らずで根性の無い若者が増えたと嘆く人もいるだろう。

それは否定できなが、喜ぶべき事実だと捉えてもいいかもしれない。経済的・肉体的な競争力が低い種も生き残りやすくなるというのは文明の発展の一つの指標だ。そこから生まれる多様性による恩恵は恐らく遠い未来の人々が享受できるはずだ

感情の面から見ると「親ガチャ」を連呼する若者は嫌いだ。なるべく距離を取りたいし少なくとも一緒に仕事をしたくない。自分の境遇と折り合いをつけて納得するプロセスは社会に出る前に踏んでおくのが望ましいとは思う

生まれ持った環境の不遇さ、理不尽と折り合いをつけるには何が必要なのだろう。少なくともSNSは格差を浮き彫りにするのでそこに救いは無い気がする。(救いがないから慰めの言葉としては攻撃的で反論を受け付けないワードが生まれるのだろう)

一昔前は文学と宗教、広義の意味での教養に救いがあったと思う。少なくとも僕はそこに救われた覚えがある。今の時代でも多少は通用するのではとも思う。

盲目になる事が幸せに繋がる可能性もある。労働と勤勉に励んでいる間は他者との格差を忘れていられる

情報を掴む事が重要な社会から不毛な情報を遮断できる事が重要な社会にあっというまに変わってしまった

ちなみに10年前ぐらいから韓国では「スプーン階級論」なるミームがあった。親の年収を金の匙、銀の匙、銅の匙・・・と格付けしていくのだ。

日本の親ガチャは年収だけでなく親の教育者としての素養を問う意味も含んでいると思う。

(精神的な意味での)親殺しには大きな精神的労力が必要になる。そこは少なくとも他者が干渉できる内容ではないだろう。

どんな恵まれたように見える家庭でも子ども側の精神の成熟を経て親離れ(または親殺し)からの関係の再構築(絶縁も含む)はあって然るべきプロセスだ

やはり教養、文学の救いがあるのでは・・・!と思うがあくまで自分という1つのサンプルなので断定もできないし歯がゆい。

今の自分にできる事は親ガチャを嘆くクソガキ共が少しでもハツラツと人生を謳歌できる社会への歯車を回す事ぐらいだろう

つまりはいっぱい働いて税金納めて選挙に足を運び・・・気が遠くなるが積み上げていくしかないだろうと思う

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