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主婦はネギだけを買わない

買い物帰りのおばさんが颯爽と自転車で駆けていく。
電動自転車にまたがり、待つ子供のために家路を急ぐ。
取り付けられた2つのチャイルドシートは城の如し、その自転車の大きさが母親の偉大さである。

見ると、前カゴにははみ出した2つの長ネギ。俺はまだ生えているんだと言わんばかりに、買い物袋から夕暮れの景色へと顔を覗かせている。私たちが見えるのは、この2本のネギだけである。落ちかけた太陽の光を、今日最後に浴びるのはこの2本のネギだけである。同じ買い物袋の中には、2割引きの豚こま肉、ちょうど昨日切れて買い足した料理酒、卵、納豆が入っている。しかし、私たちはそれを見ることができない。このようにして、私たちは、ネギはよく買われているんだなと錯覚する。視界に入るのがネギだけだからである。



信号機の話。君は予定の時間に間に合わせるために走っている。あと10分早く家を出ればよかったという考えも及ばず、目の前の信号機は無情にも点滅を告げる。また赤だ、俺がこの道路を渡ろうとするときは、いっつも赤だ。この世は非情にできている、と思った日の帰り、君がスマホをみながら渡る信号機は青。


赤色の信号機に引っかかる確率と、緑色の信号機に渡らせてもらえる確率は同確率なはずである。しかし、私たちは、赤色の信号機の方が多いような、世界が自分にだけ厳しいような、パンが床に落ちる時、必ずバターの面を下にして落ちるような気がする。本当は信号機も分け隔てなく赤であるし、主婦はネギだけを買わない。


このような錯覚のことをネギ理論と名づけた。信号機理論と名づけてもよかったが、買い物袋から顔を出すネギの泰然とした態度に敬意を表して、ネギ理論と名づける。



理論を作ったからには、それがどう役立つのか考えなくてはならない。具体的な事象を、ネギの束のようにひとまとまりにしただけでは、その理論はチャーハンの具材となって終わる。

ネギ理論。君はそこから、人間は自分に都合の良い現実を選び取るようにできているということを読み取るかもしれない。都合の良い現実を選び取ったに過ぎない私たちの思考、哲学、信念は揺るぎ得ないものなのだろうか。考えるということは、ネギが袋から出ているというそれだけの理由でネギが多く買われているなどと思うことと大した違いはないのではないだろうか。

ネギ理論。君はそこから、周りに存在する奇跡や幸福や喜びのようなものを見逃して生きているということに気づくかもしれない。買い物袋の下には、無数の食料品が存在するのだ。しかし、私たちはネギだけを見て判断する。目に見えないことを考える想像力を、持つことができないでいる。満たされない私たちは、ネギだけを見てこの世を嘆いているのかもしれない。




なにをゆーてるんかわからんくなったのでこの文章を終える。
しかし、買い物袋に突き刺さるネギだけを見て、ここまで想像を膨らますことができるのは確かだ。ネギ理論は、人間の精神の豊かさを私たちに伝えたかったのかもしれない。あるいは子供を育てるということの母親の気高さを、ネギに投影しただけなのかもしれない。


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