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日記

4/23(火)

僕の失態ランキングで毎回上位に食い込んでくるのは、財布を家に忘れることである。改札の前でかばんをかき回し、底に沈殿したティッシュのゴミだけが僕の所持品だとわかって絶望した日が何回あっただろう。今日、僕はこの問題に終止符を打つ方法をやっと思いついた。それは国道171号線を自転車でシャリシャリと漕いでいるときに突如天啓のように僕の頭にやってきたのだった。神は告げられた、「かばんの小さいとこに1000円札ずっと忍ばせといたらええやん」僕は神のお告げに感動し、打ち震えた(自転車はそのまま漕ぎ続けた)。財布を入れ忘れるのであれば、かばんを財布にしてしまえばいいではないかという逆転の発想。というわけで家に帰ってみて早速お金を入れようと思ったが、千円札を財布から抜き出したとき、なんだか損しているような気がしてしまって僕のかばんは今もかばんのままである。


4/24(水)

スタジオで、こんな張り紙をみた。「ベース貸し出し、Yamaha BB コシのある低音」なんやねん、コシって。僕は嬉しくなった。毎日通っている通学路に、たまたま新しい抜け道を発見したときのような気持ち。僕たちは、わからないことばっかりのこの世界で、ぼやけた輪郭をなぞろうと必死にもがいている。それは自分だけではなく誰でもそうなのだ。小学生の僕は、絵を描いて、えんぴつを削って、傘をぶんぶんふり回しながら家に帰る。目の前の田舎道には白線だけがまっすぐに続いている。今日の昼ごはんはカレー。


4/25(木)

夜になると変な思い出が蘇ってきてうわああああってなるのでなかなか起きているのが辛い。なのでポケモンスリープを始めてさっさと寝ることにした。毎朝起きて、僕のスマホの中ですやすや寝ているポケモンたちを確認するのはたのしい。タマザラシをタッチすると口を大きく開けてニコニコ笑うので、何回もタッチしてしまう、それでも、何回やっても変わらずに笑ってくれるので、それが今の自分にとって過剰な優しさに思える。今の僕はそういうことを必要としているのだよ、とか思ったりして、自分は疲れているんだなあとふと気づいたりしてふとんをかぶる。自分は繊細な心を持っているからこんなに夜が迫ってくるのだと思っていたが、どうやらそんなことはない。自分は自分が大好きなだけで、誰にも嫌われたくないだけである。誰にでもいい顔をする自分は、一度誰かに徹底的に嫌われた方がいい気がする、多分そうしないと前に進めないところまでもうきている。本当は悲しいのに、誰かと喋るたびにピエロの動きが洗練されている、身振りも話し方も宙の見つめ方までも自分ではなく「その人」を意識した動きだ。赤い鼻を指でパチンとはじいて、「今までのは全部うそでした、だまされたかバカめ」と言って大股で歩いて帰りたい。


4/26(木)

この日記を通して、というか自分が何かを作る上で目指していることについて書く。それは純粋と芸術と大衆を共立させること、言い換えれば「かっこつけない」「美しい」「おもろい」ものを作ることである。このうち僕はすぐに「かっこつける」。熊谷守一という画家の絵に「陽の死んだ日」という絵があり、その絵についての後日談の中で彼はこう語っている。「 次男の陽が4歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないと思って、陽の死に顔を描き始めましたが、描いているうちに"絵"を描いている自分に気がつき、嫌になってやめました」。まさしく自分もこうであり、日常の中に現れた美しいもの、純粋なものをありのまま文章に起こそうとすると、文章をきれいにしたいというある意味で邪な欲望が働き、どうしても文章を「改善」してしまうのだ。それは人生を描写しているのではなく、そこから切り離されて手の加えられた"文章"を書いている。この点において「かっこつけない」ことと「美しい」ことは僕の中では相反する。今の小説とか、音楽とか、絵とか、かっこつけてて美しくないものばっかりだ。要するにそれはわかりやすいということである。しかし、わかりやすさも一種の善であり、それが自分でいう「おもろい」ということにつながる。かっこつけていない美しいものを一つ挙げろと言われると、僕は寺田寅彦という人の書いた団栗という短編を選ぶ、美しくておもろいものを一つ挙げろと言われると、僕は星野源のSUNという曲を選ぶ。なんか複雑そうなことを後ろで隠れてさりげなくやっており、その複雑さとか純粋性が総体として「ポップ」に立ち現れてくるという表現を、今のところやりたい。


4/27(土)

謎の発疹出現中。理由は明白だ。昨日研究室でBBQがあり、20epmを優に超えてしまったからだ。epmとはebi per minuteのことで一分間で体内に取り込まれるえびの数である。僕の研究室には新入生にえびを大量に食わせるという謎の文化が存在していると考えてまず間違いないだろう。今考えてみれば、確かに研究室配属初日からおかしなことは多々あった。まず教授の名前が2文字でなんだかそれはえびに似ているし、研究室の机がU字型、つまりえび型に配置されていたのである。そして極めつけは、僕に割り当てられたCPUの電源をつけると2テラバイトのマシンがグオオオオと深い唸りをあげて起動し、その後部に取り付けられたファンのようなものから甲殻類の匂いが漂ってきたのである。パソコンとデスクだけが立ち並ぶ殺伐とした研究室に突如やってきた海の匂いは、僕の鼻を通り抜け、助教授の鼻を通り抜け、少し塩味の増したかたちで別のCPUのファンに吸い込まれていった。これは紛れもなくえび研究室である。僕はえび研究室に入ってしまった。えび研であれば肉ではなくえびを大量に食わされるというのもうなづける。50epmを超えなくて幸いだったというべきだろうか、僕は胸を撫で下ろした。すると安心してbpmの下がった僕の胸からえびが一匹また一匹とずるずるとこぼれ落ちてきて、僕の机の上でぴちぴち跳ねた。まとめて鍋に入れて、茹でること10分。えびはしょっぱかった、もう見たくない。


4/28(日)

最近ハマっている曲に、ユーミンの「魔法のくすり」という曲がある。この曲はリズム隊の裏打ちとシンコペーションが超気持ちよく、それでいてメロディがめちゃくちゃ4度の音をうまく使っており、暗さから明るさへのカタルシスを何度も味わうことができるめちゃくちゃ気持ちいい曲なのだ。この曲の音楽的良さはさておき、この曲に「欲しいものは欲しいと云った方が勝ち」という歌詞があり、それを聴いたとき腑に落ちすぎてなんというかもう笑ってしまった。自分は特に恋愛に関して、好きかどうかわからない気持ちは曖昧に伝えるしかないという斜に構えたスタンスでやらしてもろてたのだが、そんな謎の理論をこねくり回したところで「欲しいものは欲しいと云った方が勝ち」なのである。なんかもう腑に落ちすぎて笑ってしまった。自分は特に恋愛に関して、自分はちょっと冷めた態度をとり、余裕があるところを見せた方が長期的な視点で見るとうまくいくというスタンスでやらしてもろてたのだが、もうなんかもうアレですね。この曲の歌詞は最後、「さめたふりをして 逃げごしはだめよ 欲しいものは欲しいと云った方が勝ち」と続くのだが、なんというか全くもうその通りなのである。とか今までの自分の行動についてゴニョゴニョ考えていると、僕が移動支援で関わらせてもらっている車椅子のおっちゃんがラブレターを書くと言い出す。それで中村くんにぜひ代筆して欲しいということで、「歩くヒエログリフ」と呼ばれるほど字の汚い僕が見事抜擢されたのだが、おっちゃんはなんの躊躇いもなく「好き」という。好きのほかにも言葉はどんどん続く。そしてその言葉はなんの屈折もなく、ただその人に届くために真っ直ぐに伸びているのである。このおっちゃんは平安時代に生まれていれば立派な歌人にはなれなかっただろうが、月とか草とか風とか、美しさの上にあぐらを掻いて、高いところからごちゃごちゃいってるやつらを引きずり下ろすほどの力をその手紙は持っていた。おっちゃんは自分の気持ちをストレートに伝えたのだから振られたら傷つくだろう、平安時代の歌人は、振られたら「いや、なんか歌詠んだだけだし」っていうだろう。僕はこのおっちゃんの目が好きだ。それはこの人が、人生のある部分に対して言い逃れせずに真剣に向き合ってるからなのかもしれない。僕とおっちゃんは手紙を書き終わって、タバコの吸える喫茶店から出た。「男二人でラブレター書くってなんか変な感じだなあ」おっちゃんは言った。おっちゃんは笑うとき、左の口角だけを上げて文字通り「ニヤッ」と笑う。僕はその笑い方も、とても好きだとおもう。


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