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ナナメの夕暮れをつくろう


オードリー若林「ナナメの夕暮れ」を読んだ。
半年前に一回読んだことがあるが、もう一回読んでもやっぱりいい本だった。


この本が面白い理由は2つあると思う。1つめ、自分の弱点を開示し、それが自分の弱みであると認めている点。2つめ、好き、嫌いという自分の感情を大切にしている点。


思えば自分に足りないのはその2つかもしれない。

「お前、誰かに言われたことをそのまま流されてやってて、自分の好き嫌いの感情わかってないで。ほんでそれで周りに迷惑かけてるで」

自分のケツに3mぐらいの画鋲が突き刺さったような痛みが走った。その痛みは自分の中でどう扱っていいのかわからないほど致命的なものだった。それは相手への批判・自己否定・社会への嘲笑などにぐるぐると目まぐるしく形を変え、やっと「自分の弱み」という暗くて汚くて、しかしなんだか誇らしいラベルを貼り付けることができた。

自分への批判を受け入れることは難しい。それは今までの生き方の自己否定につながるからだ。僕の父親に、立ってしょんべんするメリットは1mmもないということを小一時間説き伏せたのだが、彼は今も地上1mの高さから真っ逆さまにアンモニアを放出している。彼にとってしょんべんを座ってすることは、60年間立ってしょんべんをしてきた自分の自己否定につながるからだ。飛び散った彼のアンモニアが、床に簡単に消すことのできない黄色いシミをつくる。彼もメリットがないことは重々承知しているのだが、変わることができない。人間はそれほど弱くて脆い。いや、論理という荒野がいかに荒れ果てた砂地になっても、依然として屹立するコンプレックスは、何よりも強いと言い換えてもいいかもしれない。

というわけで、これからは自分の弱みに向き合って文章を書いてみようと思う。今まで自分の書いたnoteを読み返してみたが、反吐の出る綺麗事しか書いていない。これは自分をよく見せようとするための文章だ。もっと等身大の文章を書きたい。もっと等身大の文章を書きたい。


もう一つ、好きと嫌いという感情を大事にしたい。自分はそれらに蓋をしている。生じた「嫌い」を扱うのがめんどくさいので無理やり「好き」の落とし蓋をしている。嫌いは不調和のもとである。その感情を抱え続けると、誰かと対立することになるし、自分のやってることが楽しくなくなるかもしれない。周りの人が全員、クロックスにあんこを詰める作業をしている。みんなでワイワイ楽しくやってて、詰めたら詰めた分だけ感謝されるからなんとなくやってる。しかし、本当に、自分は、クロックスにあんこを詰めて楽しいのか??嫌いを好きで蓋をすると、本当に好きなことは何かがわからなくなる。


立ってしょんべんをし、クロックスにあんこを詰める。それはそれで楽しいと思うが、どうせなら便座をフル活用してあんこはあんこのあるべき位置に収めたい。というわけで心機一転文章を書いてみます。

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