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ザリガニをまき散らす

突然だが、あなたはザリガニを食べたことがあるだろうか。あのまずさといったらない。どこを食べてもドロの味がするし、醤油をかけてもポン酢をかけてもソースをかけてもドロの味がする。ドブ川のドロというドロをかき集めて5時間ぐらい煮込んだ上、隠し味に砂利と錆びた鉄を入れたものがザリガニという食べ物のレシピである。カレー味のうんことうんこ味のカレーどちらを食べるかという議論があるが、僕は第三候補にザリガニを追加したい。追加したとしても食べない。ザリガニを食べてみようぜと言い出したのは、あほづらをした小学5年生のまさやである。こいつはアホなのでザリガニの他にフナまで食った。フナもドロの味がしたという。小学生の頃はほとんどまさやと遊んでいた。家の庭に落とし穴を掘りまくっておじいちゃんの捕獲に成功したり、崖に作った秘密基地から石を投げて、畑を耕している知らないおばちゃんのケツに石をぶつけたりした。嵐の日に濁流の川に入って自転車を漕いで通報されたときもまさやとだし、うんこが流れると噂の水路をウォータースライダーにして遊んだのもまさやとである。

まさやと僕は、夏になると魚のいそうな川を探して駆け回った。学校が終われば、ご飯の時間になるまでひたすら魚をとった。僕たちは、ザリガニとフナに魅せられてどこまでも走っていった。タニシは水路の壁にピンクの卵をうみつけ、田んぼには植えられたばかりの苗たちが等間隔に顔をだしていた。田んぼにはカブトガニという変な虫がいることも発見したし、そいつらは家に持って帰るとすぐ死ぬことにも気づいた。顔を近づけて覗いた水の中の世界には、無限ともいえるほど広い世界が広がっていた。僕たちは飽きることなく水に足をつけ、網を潜り込ませた。

冬は朽ちた木の枝を振り回し、張り詰めた空気を切って進んでいく。木を踏むと乾いた音が夏よりもよく響いた。あんなに緑色だった樫の木は、葉を茶色に染めて道端に散らしている。冬の空気には、木々たちが何か大事なものを隠しているような、デリケートで純粋なものが含まれていた。僕たちは大きく息を吸い込む。枯れ葉の匂いと、暮れゆく街の景色が混じって体に溶けた。また、年末がやってくる。今年は鍋だろうか。

大阪に来てコンクリートと信号に囲まれることになった今でも、自然の中で過ごした身体感覚というのは、僕にとって重要な役割を果たしている。それは僕にとって、一つのセンサーのようなものとして機能している。これは、箱をただ右から左に移動させているだけのことなんじゃないか?乾いた木の枝を握った手の感触は、僕にそう警告を与える。世の中には、複雑そうに見えて、重要そうに見えて、実は意味がないことで溢れている。僕たちはこの社会で、あいつは箱を二十センチも移動させたのに、俺は十センチしか移動できていないとか、俺の方があいつよりも早く箱を移動させたとかわけのわからないことばっかり言っている。社会の一員として何の疑いもなく生きるということは、この箱移動ゲームみたいなことを極めて効率よくやっているに過ぎない。そして我々が移動させてきた数えきれないほどの箱をふと見渡してみると、大きな幾何学模様が形成されていることに気づく。連綿と続くその模様は「大きな力」となり、箱をさらに運ばせることを無言のうちに強制するのである。私たちは疲れ切った体で、箱をもう一度手にする。その上では、ヘリコプターに乗った脂ぎった醜い男が、その一連の様子をまるで学園祭の小芝居でも見るかのように、ふやけた薄笑いをときどき浮かべながら、眺めている。社会はそんな光景によく似ている。

私たちは本当に生きているのだろうか?私たちの生は、どこかのタイミングで、全く別のものに捻じ曲げられてしまったような気がしてならない。私たちは、いつから芝生で寝転んで空を眺めることから、ただ箱を移動させるだけの動物になってしまったのだろうか。このような疑問が浮かんできたのは、松屋で牛丼を頼み、三秒で出てきた牛丼をスマホを見ながら一分でかきこみ、ごちそうさまも言わずに無言で店を出ていく人を見たときだ。彼はしわ一つないスーツでこの店に入り、同じくしわを一つもつけることなく、あっという間に店から出て行った。牛丼を食べていることに、自分自身気づいていないのではと思うほどだった。彼はおそらく仕事ができるのだろう。彼の口座には毎月まとまった大きな額が振り込まれるのだろう。まるで美しい白い鳥が音も立てずに水の上から飛び立つように、彼が店の中に残した波紋は、円く小さく広がって、すぐに水面は静かになった。机の上にぽつんと取り残された、ごはんつぶの残ったお茶碗を見ながら、移動させられたいくつかの箱のことと、それによって出来上がる不可思議な模様のことを考えずにはいられなかった。




目覚ましが鳴る。止めて伸びをして、窓から入る朝日を見ながら、今日一日のことを少し考える。顔を洗う、歯を磨く、トイレに行く。パジャマをまとめて洗濯機に放り込み、洗剤と柔軟剤を入れ、昨日の服と共に「自動」のボタンを押す。水が流れ、次第に服が回り出す。自動。今から百年前、宇宙人が来たら使い方がわからないであろうランキング一位のこの変な機械は、アルバ・ジョン・フィッシャーという男によって作られた。人類の歴史は洗濯の歴史である。人間は、いかにしてこの重労働から逃れるかという一点にのみ力を向けて、文明を作り、学問を発展させ、アポロ十一号を月まで飛ばした。その間、アレクサンドロスがメソポタミアを平定し、足利義満は金閣を作り、ベトナム戦争の最中ケネディが暗殺された。多くの血が流され、多くの建物が破壊された。また同時に、多くの人が喜びのために抱き合い、多くの歴史的建造物や芸術作品が今に形を残している。神は一九〇八年、ついに洗濯機を地上へと向かわせた。ゴルゴダの丘に洗濯機は降り立ち、司祭たちは喜びの声をあげ、それは福音書とともに世界中へと広められた。洗濯機は多くの人々の生活を楽にし、洗濯という苦役から人々を解放することになった。結果、今朝の僕のように、「自動」というボタンを押すだけで数日分の服が選択される機械が出来上がったのである。そして柔軟剤の香りでいい匂いになった服とともに、「余剰時間」が生み出されることになった。

しかし、その時間は私たちのものではなく、資本家のものとなった。川で洗濯物をごしごししていた一時間は、私たちではなく資本家の懐に収まるようになり、資本家はその時間で給湯器を生み出す。薪割りをしていた一時間は、私たちではなく資本家の懐に収まるようになり、資本家はその時間で車を生み出す。生活が便利になればなるほど、私たちの生活のなかで、労働の占める割合が大きくなっていく。私たちは自然の中で生きることをやめてしまった。私たちは、労働する事によって、先のとんがった革靴を履いた小汚いおっさん達によって作り出された「社会」で生きることを選択した。その社会の原動力となっている資本主義の歯車は、ドラム式洗濯機の「スピード乾燥」を上回る速度で回転し続け、土地が競売にかけられ、木はなぎ倒され、洗濯物は柔軟剤の香りでほかほかになり、私たちはその服を着て明日も仕事へ向かう。そこにはどんぐりもフナもザリガニも、星空もない。ただ無機質なコンクリートがどこまでも広がっているだけである。コンクリートはどこまでも続く。宝塚線を抜け、御堂筋を抜け、トンネルを抜ける。



国境の長いトンネルを抜けると、そこは松屋だった。食べ残されたお茶碗にはご飯粒と、赤いべにしょうがが残っていた。店の中で唯一のその赤は、不吉な警告のようにも見える。最も厄介なのは意識の変化だ。スーツを着た彼はお金を目の前の機械に投入すれば、何らかの化学現象により牛丼が目の前に出現するという世界線に生きている。そこには玉ねぎの収穫も、牛の飼育も、稲を刈り終わった畑から香る、十一月の切ない空気も存在しない。そこにはただ、お金が等号となって成立する、どこまでも平面的で計算的な世界があるのみである。彼はお金さえあれば、その等号をどこまでも押し進めることができる。家を買い、車を買い、服を買い、娯楽までもが交換対象になるその世界では、彼は全てを手に入れることができる。彼は自然を忘れて傲慢になる。自然を忘れることさえできれば、彼は大木を見上げて圧倒されるちっぽけな存在から解放され、社会的に有能な存在として自分というものの存在感をどこまでも大きくすることができる。新規の営業を十件獲得して部長になり、休日は車を駆ってキャンプ場へ行く。そしてお金を払って、牛丼を食べる。そして、彼は生きていると思う。生きることはお金を稼ぎ、果てしなく続く交換の流れの中に身を委ねることだと思っている。しかし、これは大きな「生」という糸の端だけを見てそう勘違いしているのであって、「生」というのは等価交換だけで成立するものではない。牛丼は突如降って沸いたようなものではなく、牛丼にも初めがあり、終わりがあり、そしてそれは循環している。その循環は「社会」が提供しているものではなく、「自然」が文字通り自然に提供しているものである。わたしたちがお金を媒介にした結果手中に収めたと思っている社会的な立場や物質はほんのちっぽけなものに過ぎず、「社会」という緩やかな流れの下には、苔の蒸した岩の間をすばやく流れゆく「自然」という急流が存在しているのである。その流れのもとでは、私たちは無力だ。今私たちは「生きている」のではない、「社会的に生きている」のである。

ゴルゴダの丘に洗濯機が降り立ち、資本家は時間を手に入れた。その時間は潤滑油となり、資本主義の歯車を推し進めた結果、等価交換のラベルは際限なく無数の物事に貼られていった。見渡す限りのものにラベルがついている光景を見た私たちは、安心して自然を脱することができ、社会的なモノサシを次第に使用するようになった。そこでは地震も嵐も干ばつもない。私たちはただ効率よく四則演算を繰り返していけばモノサシの目盛りを容易に上にすることができ、そこで手に入れた万能感は、自然を忘れさせる。自然を忘れた私たちは、ただ社会的に生きていることを本当に生きていることと勘違いし、牛丼がお金による等価交換により、あたかも何もない空中から生み出されるものとして認識してしまった。というわけで今僕の目の前には、どこかの小さな町で、もう使われなくなり朽ち果ててしまった家屋のような、悲しげなお茶碗が残されているのである。

僕の横に座っている小学五年生のあほづらをしたまさやも、いつの間にか牛丼を食べ終わっている。「86」と大きく印刷されたネイビーのスウェットはところどころ糸がほつれ、首元はよれよれである。彼は手元にあるティッシュを、伝統的な工芸職人のように真剣な顔つきで折ったり丸めたりし、ときどき思い出したようにすっと頭を持ち上げて店内をぐるりと見回す。店には僕とまさやの他に、禿げ上がったおじさんや運動部の学生たちがただ黙々と牛丼を食べていた。目の前に座っているメガネをかけた痩せたサラリーマンの男が、ときどき僕らを珍しそうにちらと見るのだが、目が合うとすぐに視線を逸らし、彼は牛丼を食べることを再開する。僕は彼に水はまだいるかと尋ね、彼は「うん」と答えた。僕はまさやのコップに再び水を注ぐと、彼はそれを勢いよく飲み干し、薄笑いを浮かべながら言った。
「なんかしようよ」
彼の心はすでに松屋から外に解き放たれていて、何かをしたくてうずうずしている様子だった。僕はまさやがそう言うだろうと事前にわかっていたので、足元にある段ボール箱を指差してこう言った。

「ザリガニなら大量にある。
僕たちはザリガニをまき散らさなくてはならない」

僕たちは松屋を出て、スーツの男の後を追った。スーツの男は歩くのが早かったが、幸いローソンでコーヒーを買って出てくるところだった。彼はコーヒーと鞄を持ってまっすぐ進んでいく。僕たちはその男の後を追って、大きな国道の歩道側を早歩きで歩いた。等間隔に植えられた街路樹が、昔まさやと走り回った田んぼの稲を思い出させる。植えられたケヤキたちは、目の前にある冬を感じ取り、一枚また一枚と礼儀正しく葉を落とし始めていた。歩道のすぐ横では無数の車が滑るように国道を走り去り、まるで僕たちが日が暮れるまで魚を取っていたあの川の流れのようにも見える。ただその川は、複雑さではなく圧倒的な合理性から成り立っていると言う点において、僕たちの知っている川と少し違うものだった。男は五分ほど歩き、やがて国道に面した大きなガラス張りのビルの中へと入っていった。そのビルへ入るためには二、三段の黒い階段を登らなくてはならなかった。男が鳴らした靴の音が、秋の空気によく響いた。僕たちは中の人の様子を伺いながら慎重にその階段を登ったが、まさやの靴はクロックスだったのでキュッキュというまぬけな音がして、僕たちは少し笑った。

男はどうやら銀行に勤めているようだった。入って右手にはカウンターがあり、どの窓口でも社員とお客さんは何か真剣に話し込んでいる。電話を取ったりコピーをしたり忙しく動き回る社員と、口を固く結んでじっとスマホを見つめる客たちの間は窓口で直線的に仕切られており、それは仲が悪い国同士の国境線のようにも見えた。国境警備隊のように点々と配置された社員の一人が僕たちをちらと見て、すぐにパソコンの画面へと目を戻した。

男は左手側のエレベーターへと向かっていった。僕たちもすかさず後を追う。エレベーターが開き、僕たちは三人で中へと入った。彼は「5」のボタンを押した後、段ボールを持った青年と、あほずらをした小学生がいることに気づいた。彼はこちらを一瞥したあと、社員ではないことに気づき、口元に微笑を浮かべてこう言った。
「すみません。ここは社員用エレベーターなんです。窓口は右手のカウンターにありますので、そちらでご用件をお伝えください」
長くもなく短くもなく、迷い込んだお客に要件を伝えるには完璧な長さの発言だった。間違えてエレベーターに乗ろうとする人が今まで何人もいたのだろう。彼は幾度ともなく発言してきたこの言葉を、ラインマーカーでそっと文字をなぞるように何の滞りもなく話した。彼は松屋にいるときよりも随分若々しく、礼儀正しく見えた。

僕は彼の言葉の後にそっと沈黙を添えて、
「ザリガニをまき散らさなくてはならないんです」
と静かに、しかし強い語調で言った。その言葉はエレベーターの中で、異質に響いた。僕は彼の顔から、一瞬怯えに似た表情を読み取ることができたが、それは恐怖から生じたものでないことはよくわかった。彼の右手に持つコーヒーは暖かな湯気をまだ燻らせている。彼は目線を左下に向けて何秒か静止して考えたのち、
「それは本当にやらなくてはならないのですか?」
と尋ねた。彼は極めて冷静に、そして真剣に僕の言葉を待った。彼は僕の発言にある一種の論理性と必然性を読み取ったように見えて、じっと僕の顔を見つめた。その目はまるで数百年前からそこにある石碑のように確固とした意志を持って、するどく僕の顔に注がれた。
「はい。今すぐにやらなくてはいけません」
僕が強い口調でそう言うと、彼はあほずらをしたまさやを少し見て、安心したような微笑を浮かべてからもう何も言わなかった。先ほど彼が僕たちを見て浮かべた、サービスとしての笑みではなく、彼自身の心の内面から自然と湧き起こる純粋で安らかな微笑だった。その微笑は、冬が去り、春が目の前に迫った二月の暖かい日差しに似ていた。それは僕に、小学校の卒業式を思い出させた。まさやと僕はランドセルを揺らし、卒業証書の筒を振り回しながら走ってゆく。川が僕たちの横をゆっくりと流れている。彼は目線を前に戻し、エレベーターはそこで交わされた言葉たちをすっかり壁に受け止めて僕たちを静かに五階へと連れていった。僕は彼を横目でちらりとみた。彼はまるで、僕たちが現れることが随分前からわかっていたみたいだ。

エレベーターの扉が開く。彼は僕たちを先に行かせた。規則正しく並べられた机に向かって、たくさんの人がパソコンを打っている。僕たちに気づいている人は一人もいない。僕は見下ろすようにして、まさやは見上げるようにして顔を合わせ、うなづいた。僕がまさやに段ボール箱を渡すと、まさやはオフィスの中へと勢いよく走っていき、「あほおおおおおおおおお!!!!」と言いながら段ボール箱を勢いよく振り回して箱の中のザリガニたちを全てぶちまけた。その光景は、紛れもなく、満開の桜だった。真っ赤なザリガニたちがふわりと宙に浮かんで、無機質なLEDがそれを照らす。それらはいつまでも浮かんでいるようで、ゆっくりと、ゆっくりと、放物線を描きながらいたるところに飛んでいった。無数のザリガニたちはやがて思い出したようにぼとぼとと机の上に落ち、社員たちは一斉に悲鳴をあげた。ザリガニは床や机を這いずり回り、キーボードや書類の上を歩きまわり、今まで白一色だったそのオフィスの中は一瞬のうちに赤に染められた。男の社員の一人が叫び声に近い怒号をあげた瞬間、僕たちの後ろにいたスーツの彼がこちらへと走ってきて、床に散らばったザリガニをひざまずいて集め出した。彼は泣いていた。涙を流し、大きく嗚咽を漏らしながら、目の前にいるザリガニたちを両手でかき集めた。かき集めてもかき集めても、彼の両手からザリガニは這って抜け出してゆく。社員たちは顔に恐怖を貼り付け、泣いてザリガニを集める彼を見つめる。何人かの人はどこかへ電話をかけ、何人かの人は走って逃げ出した。無秩序状態になって忙しなく動く社員たちを横目に、オフィスの上を、ザリガニは悠々と歩いていく。彼は涙をぽとぽとと床に落としながら、まだザリガニをかき集めていた。真っ赤な真っ赤なザリガニたちは彼の涙のしずくを少しでも受け取ろうと、右手の大きなはさみを空中に持ち上げながら振り回している。

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