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10年後、やりたいことはまだあるかな

やりたいことが多過ぎて時間が足りない。Googleカレンダーの予定はとっくにパンパンだが、これの3倍ぐらいやりたいことがある。21歳の自分は今何がやりたいのか、できる限りここに残しておこうと思う。10年後、腹のたるみを気にするようになってきた僕はこれを楽しく読めるだろうか。


文章を書きたい。解像度が高くて美しい文学的な文章も書きたいし、くだらなすぎて笑えてくる文章も書きたい。本を読み出したのはいつだったか。中学校の夏休み、肌寒いほど冷房の効いた本屋で村上春樹の「海辺のカフカ」を買い、わくわくしながら帰ったことをよく覚えている。話の内容は、僕はかーちゃんとセックスする運命にあるんだとかで全くわからなかったが、その文体に強く惹きつけられた。村上春樹を読むと数日間、頭の中が村上春樹になるからいけない。貼ったシールを剥がすとき、いくつかのかけらがそこにしぶとく残るように。やれやれ。

高校時代は森見登美彦をよく読んだ。「夜は短し歩けよ乙女」に現れる鴨川と京都の街並みに魅せられ、僕を京大を目指すことになったのだが、今は石橋商店街の街並みに魅せられているからこれもよしとしよう。最近は芥川賞を取った川上未映子の「乳と卵」がめちゃくちゃ面白かった。というわけで僕も芥川賞を取りたい。調べてみると、「文學界」というほらあなに住むじじいに小説を送りつけて、そこで「ほおこれはなんかよくわからんがいい感じだぞ」と言われると晴れて芥川賞の候補になるのである。この前、人間は一人で生きていくのに他人を求めてしまうのは圧倒的な孤独であるというテーマの小説を書いたが、これはなかなか気に入っている。カンピロバクターで死の淵にある時に書いたので、なんか切迫感があっておもしろい。これをほらあなのじじいに送りつけよう。

いい小説を書くためには、いい小説を読まなくてはいけない。日本の名作と呼ばれているものはあんまり読んだことがない、または読んでもよく分からんからやめちゃうのが多い。「こころ」「金閣寺」「海と毒薬」とかは面白く読めたが、志賀直哉と太宰治はなんかよく分からん。名作と呼ばれているものがよく分からんのは自分のせいな気がするので、もっと古典に触れたい。外国の古典はもっとよく分からん。中学生のころ、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」が面白くなさすぎて、なぜこの本はこんなに面白くないのかというテーマで読書感想文を書こうとしたことがある。ディケンズの「二都物語」を買ったが50ページで飽きてふんどしダンスをしてしまった。いい作品をいい作品として受け取る能力を身につけたいと思う。もっと日常を丁寧に見つめて、もっと作品をインプットしなければならない。


音楽をやりたい。自分の感じたことが曲になって、誰かがそれを聞いて楽しくなれば最高だと思う。ここ最近人と話すのがどんどん苦手になってきて、友達と話しているとだんだん顔の筋肉がこわばってきて上手く笑えない。自分がしている笑顔のほとんどが愛想笑いなんじゃないかとか思ってきて、友達との飲み会を一人だけ早く抜けてしまった。音楽はこんなに美しくて純粋なのに、それを作る人間はなぜこんなに汚れているんだろうと帰り道に松任谷由実の「DOWNTOWN BOY」を聴きながら思った。自分を心から笑わせてくれた音楽を自分も作りたい。

「曲は人生のしおりみたいなもので、感じたことや思ったことが作品として一つにまとまる」星野源がオールナイトニッポンでそう言っていて、なるほど作りてえと思った。さっそくキーボードを買ってきてパソコンで作った曲は友達にフリー素材と言われてしまった。その時は殴ろうかと思ったが、確かに音が全体的に安っぽい感じがしてしまう。次に、公園でギターを弾きながら作曲してみた。なんか普通の歌詞を作るのは恥ずかしかったので、膝を怪我した坂本のための曲を作った。坂本は喜んでくれたが、曲の出来栄えはやはりフリー素材に毛が生えたみたいである。もっといい曲を作るため、今はメロディに合ったコード進行を自分でつけられるように勉強をしている。トイレでブリブリしているときは、相対音感を鍛えるアプリをすると決めたのだが、たまにうんこの音で音が聞こえなくなるのが難点である。

楽器を始めたのは、家の2階に電子ドラムがあったからだ。父親は昔からの友達と「おやじバンド」を組んでいて、年に1, 2回集まって演奏する。みんな全然上手くなかったが、俯いてばかりいる父親が、ベースを弾きながら僕を見て笑ったのをよく覚えている。2階に一通り楽器は揃っていたので、いろんな楽器を触ることができた。ゲスの極み乙女。の「ミラーボール」がカッコよくてドラムを練習した。「カントリーロード」が弾きたくてギターを練習し、チャットモンチーの「シャングリラ」がカッコよくてベースを練習し、久石譲の「Summer」が弾きたくてピアノを練習した。音感を持つ友達を見て、小さい頃なぜピアノを習わせてくれなかったのかと両親に不満を持ったこともあったが、2階で朽ち果てていたおやじバンドの遺産は僕に楽器の楽しさを教えてくれた。というわけでギターもベースもドラムもピアノも全部やりたい。死ぬまでにこれらの楽器をちょっとずつ練習していけば、どれもできるようになるだろう。音楽の世界は広すぎて、どんどんやりたい楽器と演奏したい曲が出てくる。最近20万ぐらいのベースを買って、よし俺はベースで行くぞと決めたのだが、オスカーピーターソンのピアノトリオがカッコ良すぎて、今は早くジャズピアノをやりたい。どの楽器も中途半端でバンドだと全然役に立たないのだが、こんな音楽の楽しみ方もありかなと思って今はギターを弾いたりベースを弾いたりしている。


絵を描きたい。小さい頃はずっと絵を描いていて、一番最初の夢は画家だったと思う。通っていた絵画教室は、くねくねとした山道を車で登っていくと突然現れる。池のほとりにひっそりと佇む教室は、築80年ほどはあるだろうか、とにかくボロボロであった。そこでは80歳のおばあちゃんによる専制君主制が敷かれており、生徒たちの描いた作品は大方手直しを加えられることになる。一度先生の手が加えられると、それは「手直し」の範囲を優に超え、別の作品へと生まれ変わった。生徒たちの作品はそのおばあちゃん先生により圧倒的な力を手に入れ、伝説の絵画教室として香川県に君臨することになったのだがそれはまた別の話である。

そんな山奥の絵画教室で絵を描いていた頃の気持ちがこのごろ沸々と蘇ってきて、梅田の画材店で水彩画セットを買って帰った。山や海を描いてみたがどうにも上手くいかない。自分の下手さに悩んでいるとき、「絵は表現だから見たものをそのまま描かなくてもいい」という言葉を聞いた。現実にどれほど似ているかという再現度を気にせずに爪や筆の先で削りながら描いた岩肌は、今までよりも迫力があるように見えて、何より描くのが楽しかった。この時に絵画とは技術ではなくて表現であるとやっとわかった。美術館に行って見たいくつかの絵は確かに何を写しているというわけでもないが表現に成功していた。好きなもの描いていいんだと思った僕はカニやらヤギやらを描いて、最終的に「ながいねこ」という謎の絵本を描いた。絵本では文字と絵で自分の思っていることを表現したが、次は自分でもそれが何なのか分かっていないほど見えないものを描いてみたい。自分の頭の中にあるものを全て言語化するのではなく、いい感じのところで言葉から芸術へと表現のバトンタッチを行いたい。そうして描いた絵は曲のように、人生のしおりになり、日記になるだろう。しかし、飽き性でめんどくさがり屋の自分は放っておくと絶対に何も描かない。なんとか月に数回ほどは筆を握りたいと思い、今は絵画教室を探している。


今は文字を書いて、音楽を作り、絵を描く時間が欲しい。そのほか、僕の中には無数の「やりたい」が渦巻いている。大学でおもしろいことしたい。キャンパス内で鍋パーティもできたし、桜の木も6本植えたのでなんでもありだと思っている。まずはゲリラこたつ。寒い冬、全学共通棟のピロティにこたつを置いてみかんを食べる。人間はこたつの魔力には抗うことができないので、おもしろいやつがいっぱい入ってくると確信している。ゲリラししまいも欠かせない。ししまいとジャズのリズムは似ている部分があるので、爆音でジャズを流しながらししまいをやりたい。今謎にししまいへのモチベーションがすごいやつを見つけたので、これは実現できそうだ。大学の連絡バスには、交通誘導をする2人のおっちゃんがいる。このおっちゃんは交通誘導をしながらみかんを食べたりせんべいを食べたりしてゲラゲラ笑っているので絶対にノリがいい。こいつらとも何かをやりたい。

箕面の滝にあと100回ぐらい行きたい。自分の家から電車で10分ぐらいで着くその場所は、駅から数分歩くと視界は緑でいっぱいになる。道の横には山水が通る大きな川が流れている。僕はその場所が大好きなので、毎週通いたい。早朝からその山を登って、途中にある山本珈琲店でモーニングを食べる。京都も好きだ。京都の街をレンタサイクルで駆け巡りたい。夕暮れときの鴨川をすいすい自転車で移動し、疲れたら芝生に寝転びたい。好きな曲を爆音で流してディスコイベントを開きたい。じいちゃんとか学生とかが一緒になって踊れるような場所になればいいと思う。ミニ本屋さんを開きたい。全く売る気のない古本屋。夜にカフェのようなものをやりたい。自分はジャズを聴きながら本読んでいて、来たい人は勝手にどうぞみたいなゆるいカフェをやりたい。レンタカーで夜景を見に行きたい、中華の鉄人のコスプレして中華料理店ごっこしたい、鴨川古本市に行きたい、猪名川の河原に寝転んで星が流れるのを見たい、とにかくやりたいことがたくさんある。やりたいことがあるのにそれをやらないのは、やりたいことがない人よりもなんか損してる気がする。せっかく思いついたんだからやるしかない。自分は良くも悪くも、何かを思いついちゃう人間なのだ。思いついたんだから、やらなしゃあない。


10年後の自分へ。まだ腹はたるんでいないか、まだ本を読んでいるか。石橋にはまだ「ゆうこちゃん」というたこ焼き屋は残っているか。今の僕にはやりたいことがたくさんある。ここに書いていることを、君は実現してくれているだろうか。ギターはもうやめちゃったよというのならそれで構わない。筆なんかもう何年も握っていないというならそれはそれで結構だ。飽き性の僕のことだ、たかが十年ほどでそんなに変わるわけがない。しかし、君のなかに、何かをやりたいという源泉はまだそこに残っているか。歩いているとき、「これやりたい!」と突如思いついて、ニヤニヤしながら足早に家に帰ることはまだあるか。もし君のメモ帳が、やりたいことではなく、やらなければいけないことでいっぱいになっているのならば、僕は悲しい。やりたいことを放棄するテキトーな日々を過ごしていないだろうか?今でさえ「やるべきこと」の領域が僕をどんどん圧迫している。気を抜けばすぐにやりたいことが失われてしまう大きな流れの中でなんとかしがみついている。僕はだらしない性格ですごく周りに流されやすいので、君が知らぬがまま何かに追われ、フラフラして過ごしていないかそれがとても心配なのである。「べらんめえ、何言ってやがる。大丈夫にきまってらぁ」と言ってくれると、なぜ江戸っ子口調なのかは全くわからないが、とにかく安心だ。そして君はいい人になっているか?周りから信頼されているか?今の僕にその兆しは全く見えないが、どうだろう、そこは少し君に期待してしまう。君のことだから、ここ十年でとんでもないやらなしをいくつか経験しただろう。何をした?家を燃やした?道路にでかい穴を掘った?君はどうなっても知ったことではないが、どうにか他の人に迷惑をかけていないことを祈る。でかいやらかしのせいで、何人かの人は君の元を離れ、何人かの人は留まってくれることを選んだだろう。僕も偉そうにこんなことを言っているが、今まさに何人かの人が僕の元を離れようとしていることをひしひしと実感している。どうにか一緒にいい人になることを手伝ってほしい。いい人になれるかなあ、どうですか?まあとにかく僕もがんばるので君もそこそこがんばってほしい。さいごに、僕の家系は絶対にハゲることはないのでそこは心配しなくていい。2年前じいちゃんが亡くなった時も髪の毛だけはふっさふさだっただろう。腹のたるみはお前がなんとかしろ。昨日作ったハンバーグはとても美味しかったので、今度一メートルぐらいのでかいハンバーグ一緒に作ろう。まだ料理続けてるといいね、ほなほな。

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