「フクキタル」試し読みnote版
こちらは、電子書籍「フクキタル」の試し読み、その横書き版です。
BOOK☆WALKER様にてお読みいただける試し読み版と、さほどの違いはございません。
また、試し読み部分に挿絵が含まれていないのは仕様になりますので、ご了承いただけますようお願い申し上げます。
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最初は、まるで「どう」と言う事もなかった。
簡単で、嬉しくて、楽しいだけで幸せだった。
けれどそれが私にとって、難しい事になって、辛い事になって、悲しい事になったのが「いつ」だったのか。
覚えてはいるけれど、思い出したくは、ない。
思い出は、楽しい方が良いなんて当たり前。
辛い思い出は、思い出したくない。なんて事も、同じくらい当たり前。
けれど、楽しかったことも、辛かったことも「忘れる」なんて事ができる筈もない。
当たり前の事だった。
辛かった事だけを、全部きれいに忘れる事ができれば苦しくないのに、難しいものだなぁ。
なんて、自分でも全然飲み下せていないのに、もう過ぎた事を考えるようなふりをして、自分の都合の良い所だけを懸命に思い出しながら、ぼんやり幸せと思える毎日を過ごす。
次々と増えていく思い出が、明るかったのか、暗かったのか。
良かったのか、悪かったのか。
綺麗な部分と汚い部分が滅茶苦茶に混ざった思い出は、あえて言うなら、なんとも言えないドブの色。
嫌な色だけれど、それが、私という人間の色なのだった。
小学三年生にあがってすぐ、田舎の小学校に転校する事になった。
転校初日。
私は、大人にしては随分と背の低い先生に連れられて、これからは毎日のように通う教室に招き入れられた。
先生はそのまま『それ』に上って、教壇の前まで進んだけれど、私は教壇の手前からある、黒板の上の方まで手を届かせるための、名前も知らない『それ』のせいで、先生について行くことができなかった。
自己紹介をする様に、と先生に促されて初めて、教室の入口近くで立ったまま、これからクラスメイトになる、今は他人たちの顔を見渡そうとした。
ちらと見て、やめた。
ほんの少し覗き見ただけで、他人の視線が、私の頭から足先までをざくざくと射抜いているのが分かって、その痛さに心が震えあがってしまって、膝だけが芯から笑った。
私は、舞台が怖かった。
人よりも高い所に立って、知りもしない誰かから見られる。
そういう場所が、そこに居る人たちが怖い。
俯いて一歩も動けず、自己紹介もできず、教室内の空気から先生が困り始めた事に気が付いた私は、両手を握って、顔を上げて、覚悟を決めて、自己紹介をした。
藍川紫苑(あいかわしおん)です。仲良くしてくれると嬉しいです。
きっと、そんな風に私は言った。
もしかしたら、ちょっと力み過ぎで、音が変だったかもしれないし、台詞を噛んだかもしれないし、途中で息が詰まったかも知れないけれど、先生の言う通りに、自己紹介をした。
できた。
と内心で安心していたら、小さな笑い声が、どこかからか聞こえた。
くすくすくすくす。
どんな思いが含まれているのか、隠すような意図を感じる忍び笑いは、すぐに教室という狭い空間を満たして、私を刺した。
ああ、私は自己紹介すら、全然上手にできていなかったんだ。と、すぐにわかった。
恥ずかしくって、情けなくって、悲しくって、泣きそうになる。
先生が何かを言っているけれど、私の耳は、くすくす笑いを拾うのでいっぱいいっぱい。
うるさい。と大声をあげれば良いのだろうか?
上手に自己紹介ができなくてごめんなさい。と謝れば良いのだろうか?
私が次に口にすべき台詞は、台本はどこにある?
考えた途端、そんな物はとっくに捨てたと思い出して、愕然とする。
そうなってしまうと、もう、どうしたら良いのか全然わからなくて、この場から今すぐ消えてしまいたいと、強く願った。
「かわいい」
不意に、そんな声を聞いた気がした。
「やば、かわいい。え、うそ、可愛すぎる」
がたん。と何かが倒れた音がして、教室の空気が固まった。
くすくす笑いは全部まとめてどこかに行って、視線という視線は、急に立ち上がったせいで椅子を後ろに飛ばしたらしい女の子が、全て攫っていったらしかった。
私も、その女の子を見つけて、見た。
教室の一番後ろ、窓側の席。今の私の位置から、最も遠い席。癖毛のショートカットが似合う、なんだかキラキラした目の女の子。
「紅葉ちゃん。どうしたの?落ち着いて」
と先生が言ったけれど、その女の子には聞こえていないようだった。
だって、視線が、少しもブレない。
もみじと呼ばれた女の子は、真っすぐ私の目を見ていて、なぜか私も、真っすぐ見れた。
「しおんちゃん!私と友達になってくれますか!」
とても真剣な表情でいる女の子からの視線は、ある筈のない熱を感じさせるほどだった。
なぜか、不思議と。向けられた視線はちっとも怖くなくて、全然目を逸らせなくて。
どうして声をかけてくれたのか、私には理由が分からないけれど。
ただ何となく。
ぼんやりと、私はこの女の子の事が好きになるんだろうなと、予感した。
その女の子の言葉は、私の目に湧いた涙すら、知らない間に、どこかに持ち去ってしまったようだった。
紫藤紅葉(しどうもみじ)という女の子は、おしゃべり好きな女の子だった。
休み時間は誰よりも先に私の席に駆けてきて、たくさんお話をしてくれた。
家が染物屋をしている事、兄がいる事。学校の事とか、この町の事とか、いろんな事を教えてくれた。
それが済んだと思ったら、今度は、たくさんの事を私に尋ねた。
好きな色とか、好きな食べ物とか、私の事をたくさん尋ねてくれて、学校で心細い思いをしなくて済んだ。
授業が終わって「道を覚えるまでは」と迎えに来てくれた私のお母さんと、私と紅葉ちゃんとで、家族で借りているアパートに向う帰り道を歩いた。
紅葉ちゃんは教室と同じように、たくさん話しかけてくれた。
転校してから毎日、いつでも、たくさん、紅葉ちゃんとお話をした。
紅葉ちゃんはお別れの時、いつも何かを我慢している様な、悔しそうな顔をする。
「家に遊びにきて?」
という言葉を堪えていたんだ。と知ったのは、出会ってから数日が過ぎた時の事。
それは私にとっては初めての経験だったけれど。私は予想通り紅葉ちゃんの事が好きになっていたから、とても嬉しいお誘いだった。
次の日、紅葉ちゃんのお家が、私の家族と住むアパートとは反対方向にあると知って、驚いた。
紅葉ちゃんのお家は、とても大きな日本家屋で、テレビでしか見ないようなお屋敷だった。
染物屋『紫』は、この町で一番歴史の古い染物屋だと、紅葉ちゃんは何でもない風に言った。
お店側ではなく、裏玄関に案内されて、お屋敷にお邪魔をする。
私は、挨拶もせずにお邪魔するのが気が引けて、お家の人は居ないのか聞いたけれど、紅葉ちゃんは「みんな仕事中だから大丈夫」と言って、私の手を引いた。
初めてつないだ紅葉ちゃんの指先の感触には、すこし硬い部分があって、自分とは違う手が、なんだか不思議だった。
手を引かれて案内された先。紅葉ちゃんの部屋は、散らかっていた。
清潔でないと言う意味ではなくて。
何に使うのか分からない不思議な形をした紙切れ、布切れが大量に散らかっていて、白い機械が乗った変な形の机と学習机の周りに、何人かが座れそうな空間はあるけれど、お世辞にも片付いた部屋ではなかった。
紅葉ちゃんは、私を招き入れてから、初めて自分の部屋の惨状に気が付いたからしく、てきぱきと片付けを始める。
何が、どこにあるのか。完全に理解しているような、無駄のない動き。
ほんの数分、あれをそちらに、これをあちらにして、紅葉のちゃんの部屋は、いくらかすっきりとした様子になった。
二人してランドセルを下ろして、私は、それは何?と白い機械を指さして聞いた。
「ミシン。布を縫うのに使う機械、見た事無い?」
使った事もないし、持ってもいない。アパートにも、たぶん無いもの。
見た事くらいはあったかも知れないけれど、紅葉ちゃんに、これがミシンだ。と言われて初めて気が付くほど、見覚えがなかった。
布を縫って、服とかを作る機械だということは知っていた。
その物々しい大きさ、動くらしい部分には頑丈そうな太い針があって、とても自分には扱えない代物に見えた。
だから思わず紅葉ちゃんに、使えるの?と尋ねた。
「当たり前やん?染物屋の娘なんですけど」
紅葉ちゃんは、自分の技量を見くびられたと思ったのか、少し拗ねたような表情をして言った。
私は、染物屋の娘がミシンを使えて当然、という理屈がわからなかったけれど、当たり前とまで言うのだから、そういうものなのだろうと上辺だけで納得した。
紅葉ちゃんには、私が本心からは理解していない事が分かってしまったようだった。
「ほら、こういうのが作れる。綿入り」
そう言った紅葉ちゃんは、学習机の椅子に掛けてあった服を両手で持って、私に見せた。
紅葉ちゃんが着るには、少し大きすぎる気がするサイズ感。
縫物をする機械が、服を作れると言うのは、分かる。
そのための機械なのだから、服が作れるのは当たり前。
私が聞きたかったのは、紅葉ちゃんがミシンを駆使して、何かを作るのか。という事だった。
「これ、私が作ったん」
紅葉ちゃんは自信ありげに、そう言った。
胸を張って、鼻息をフンスと吹いて、自慢げ。かわいい。
驚いて表情が固まった私を見て、満足げな表情になった紅葉ちゃんは、この綿入り半纏が、どれほど上等に仕上がったか。厳しい冬には、どれほど室内防寒着としてよく働くか。そして、この綿入り半纏の出来が、自分の裁縫の先生でもあるお母さんから、花丸をもらった物であることを、楽し気に私に聞かせた。
それは間違いなく自慢話だった。
私は、その自慢話を、半分ほどしか聞いていなかった。
だって、その綿入り半纏は。私は綿入り半纏という物自体を初めて見たのだけれど。それにしても、とても良くできた服に見えた。
まるで売り物みたい。
鮮やかな紫色の生地には、いかにも高級そうな雰囲気があって、襟元から伸びる合わせ部分の黒に近い群青との対比は、合うのかな?という疑問を抱かずにはいられないのに、どこか家庭的な、あったかさを感じさせる。
中に詰められているらしい綿だって、これでもかと詰め込まれている事が一目で分かる。充分に詰められた綿のお陰か、半纏の外形は美しく広がっていて、升目状の綿の膨らみには、贅沢さすら感じられた。そして縫い目には、乱れも、ほつれもない。
そのまま服屋に並んでいても、おかしくない。そういう服に見えた。
私の家では、裁縫を目にする機会なんて、それこそボタン留めくらい。
お父さんもお母さんも役者だから、服は買うもの借りるもの。作るものじゃない。
私は、服と言う物は、その道のプロの手によって作られる物だと、信じて疑わなかった。
そんな風に思っていたから、まさか、自分の家で服を作る人が居るとは、思いもしなかった。
それも、私と同い年の、小学生三年生が出来るなんて、するなんて、夢にも思わない。
紅葉ちゃんの自慢話は止まらない。
話が止まらな過ぎて、お母さんの稽古が厳しいだとか、小学生がやる事じゃないだとか、どうせ染物屋はお兄ちゃんが継ぐのにだとか、知らない間に自慢話は愚痴寄りの苦労話になっているのだけれど。
紅葉ちゃんは、自慢をするだけの努力をしてきたんだ。と分かった。
それだけの努力を続けてきた何よりの証拠が、私の目の前にある。
店に並べても違和感のない綿入り半纏。
身振りを交えて話す紅葉ちゃんの、時折見える、その手先。
きっと毎日のように生地を扱って、針を刺し、糸を引いたりする内に硬くなったに違いない、私の手とは違う不思議な手。
私には絶対に作る事ができない服を、この女の子は作ることができる。
それが、すごい。と思った。
「まあ、今は楽しいから、ええんやけど」
と紅葉ちゃんは、そういう風に、話を締めた。私が好きなハッピーエンドの筋書きだ。
苦労もした、嫌だと思った事もあった、けれども楽しい。だから、良かった。
そういう話。
単純に。
素直に。
羨ましいと思った。
だから無意識に、私の口から言葉が漏れたのだと思う。
そういうものが、私も欲しい。
「そう?なら、あげる」
紅葉ちゃんは私に、会心の出来である綿入り半纏を惜しみなく差し出して、とても嬉しそうに、笑った。
こうやって笑える強い紅葉ちゃんに、私は心の底から憧れた。
思いがけず貰ってしまった綿入り半纏を、勧められるままに羽織ってみる。
私にはまだ、少し重くて、少し大きすぎた。
けれど、やっぱり、あったかかった。
紅葉ちゃんも似合うと言ってくれて、私はこの綿入り半纏が大好きになった。
そこから私たちは時間を忘れて、たくさんお喋りをした。話の内容はなんだって面白くって、久々にたくさん笑って、お腹が痛くなることもあった。
夕飯の時間になって初めて、私の存在に気が付いた紅葉ちゃんのお母さんが「こんな遅い時間まで友達をお家に帰さないなんて」と紅葉ちゃんに雷を落としたけれど。
紅葉ちゃんのお母さんが、私のお母さんに電話をしている時も。
日が落ちたとはいえ、そこまで寒くもなかったけれど。
紅葉ちゃんと一緒に、私の住むアパートまで空調の効いた車で送り届けて貰ったのだけれど。
アパートの自分の部屋に帰ってきてもまだ、私は綿入り半纏を羽織ったままでいた。
綿入り半纏はあったかくて、紅葉ちゃんの部屋の匂いがする。ランドセルを背負う時、紅葉ちゃんに脱げば?と言われもしたけれど、これはもう私のものだから、好きな時に羽織って良いはず。
紅葉ちゃんが作った服を着れるのは、世界で私一人だけなのだと思うと、なんだか良く分からないけれど、すごく嬉しかった。
藍川紫苑と、紫藤紅葉。名前に同じ『紫』が入っている事すら嬉しいだなんて、ちょっと自分でもおかしいと思ったけれど、自分の部屋で一人で笑っちゃった。
お互いに「ちゃん付け」をやめたのは、いつだったのだろう。
数えきれないほど紅葉の家に遊びに行く間に?
それとも、どちらかが呼び捨てにしようと言い出して、改めた?
中学生になった頃には、お互いに名前だけで呼び合うのが当たり前になっていた。
私も紅葉も、正確なタイミングとか、あったかも知れないやり取りを全然覚えていなくて、きっと自然とこうなったに違いない事は、お互いに納得していたけれど。
多分私が先だから、私の勝ち。いやいや絶対、私の方が早かった。
なんてルール不明の勝負が始まって、結局二人とも答えを覚えていないから、いっつも勝負は持ち越して、また、思い出すたびに言い争う。
こんなこと、恥ずかしくて口にできないけれど。きっと本当は、私の勝ちだ。
だって、いつまでも名前にちゃん付けだなんて、よそよそしくて、寂しい思いをしたに決まっている。
私の中で紅葉が他人で無くなったのは、ほとんど出会ってすぐだった。だから、この勝負は私の勝ちに決まってた。
私と紅葉は、中学校でもずうっと。放課後も毎日のように一緒に過ごして。
紅葉がお母さんに叱られたことが切っ掛けになって、紫藤家と藍川家にも家族ぐるみの付き合いが生まれて。
私が一人で過ごす事を心配して思うように仕事ができなかった両親は、紅葉のご両親が
『この町で紫苑ちゃんを学校に通わせて、都会で仕事をするのでは大変すぎやしないか』
『家で良ければ、いつでも頼ってくれていいから』
と言ってくれたおかげで、私の両親は、仕事に集中できるようになった。
他所のお家のお世話になる申し訳なさとか、家族と会えない時間が増えて寂しいという思いはあったけれど、両親が大好きな仕事に打ち込めること。私自身が紅葉と居られる時間が長くなること。どちらも私にとっては、とても嬉しい事。
泊めてもらう機会が増えるにつれ、紅葉の部屋の隣にある和室は、いつの間にか『私の部屋』と言う事になっていた。
季節ごとに服を買いに二人で出かけると、決まって紅葉は不機嫌顔になる。
私が気になって手に取った服を睨みつけて
「それなら私にも作れるし」
ぼそり、と漏らす。
その拗ねたような表情が可愛くて、意地悪で、作るのが難しそうな服を手に取ってみたりする。
すると、紅葉は悔しそうな顔をするのだけれど、何も言わない。
別に欲しくて手に取った服でもないから、丁寧に棚に戻して、じゃあ、いつか仕立ててもらおうかな。と私は言うのだ。
「うん」
そうすると紅葉は決まって、嬉しそうに頷いてくれる。可愛い。
私達が服を買いに行っても、結局、服は買わない。
買い物袋を生地で一杯にして帰って来る私達は、紅葉のお母さんの「服は?」という言葉で迎えられるのがお決まりのパターンだった。
だからなのか、私が間借りしている和室の衣装棚の中身が、ほとんど紅葉手製の服で一杯になるのに、そう時間はかからなかった。
だって仕方がない。
紅葉は裁縫が得意で、私は数えきれないくらい服を仕立てて貰った。
部屋着、寝間着、なんでもだけれど。
紅葉は毎日毎晩、ミシンを扱う。私の体の寸法を測って、台紙を作って、生地を裁つ。
たかたかと小気味よい音を響かせて、私に着せるための服を仕立てる。
毎夜隣の部屋から響いてくるミシンの音は、もう私にとって子守歌と変わらない。
そりゃあ、どんどん腕を上げて、作れないような服は減る一方に決まっていた。
中学卒業を目前に控えた時期には、季節の外套、外出着、トップスだろうがボトムスだろうが何だろうが、大抵の服を紅葉は仕立てる事ができるようになった。なってしまった。
果ては私の下着まで仕立てようとする紅葉を、流石にそれは、と阻止した自分自身を褒めてあげても良いでしょう?
甘えすぎの自覚はあったけれど、それ以上に、紅葉に服を仕立てて貰うということが、嬉し過ぎた。
幸せだったから、これで良いと思ってた。
のだけれど、私が革製の手袋に思わず一目ぼれした時。
「革か。革用のミシン新調すればイケると思う、うん。革もおもろそやし、ミシン買うわ」
私が着る衣類を、自分で作ることが当たり前になっている紅葉の言葉を聞いて、流石に私も気が付いた。
衣類は、生地さえ買えば出来上がるものじゃない。
衣類の値段には、生地代と手間賃やら設備費やらが含まれて、全部合わせてお店で見る値段になる。
生地代だけ出して、何を満足していたのか、私は馬鹿か。
急に恐ろしくなった私は、気に入った物は無かったと嘘を吐いて生地の一つも選ばず、私達は帰路についた。
紅葉と一緒に服を見に行って、何も買わずに帰るなんて事は、初めての事だった。
帰り道、私はぐるぐる同じことを何度も何度も考えた。
革用のミシンが、どれくらいの値段がするものなのか私は知らなかったけれど、そんな物が安い筈がないことは、流石に予想できた。
今まで気にもならなかったことが、気になって仕方がない。
生地代は私が出していたから百歩譲って良いとしても、私は一体何着の服を仕立てて貰った?
紅葉に服を仕立ててもらうのは、綿入り半纏を貰った小学三年生以降ずっとの事だ、十や二十じゃ絶対に済まない。もしかすると百を超えているかもしれない。
裁縫道具の事は詳しくは知らないけれど、私の服を仕立てるのに、針の一本もダメになったりしなかっただろうか、縫糸一巻きの値段くらいは知っているけれど、全部で一体どれだけ使わせた?
採寸したり、台紙を作ったり、生地を切ったり縫ったりする、紅葉の仕事料は、いくらになる?
私は今までどれだけ、紅葉にタダ働きをさせてきたのか?
自分だけ、ズルをしている様な気がして、ぞっとした。
紅葉が、ズルい事をしている私を、どう思っているのか。怖くて聞けそうにない。
「紫苑?難しそな顔して、どしたん」
だから、お金を払いたかった。
服を仕立ててもらう度、お礼は必ず口にしたはずだけれど、それが何の足しになるのだろう。仕事には、対価があるのが当たり前。
そして、当たり前の事ができない人は、嫌われたって仕方がない。
気付かなかった事は仕方がない事なのかもしれないけれど、気付いてなお改めないのなら、泥棒と同じだ。
紅葉に嫌われるのは嫌だった。
「お金、払う」
と、それだけ絞り出した。
「は?何の?」
「今までの服代」
私は紅葉の仕事に見合うお金をきちんと払って、安心したかった。
「いらんて」
「じゃあ、ミシン代の足しにして。今までの服の代金まとめたら、結構な額になるでしょ」
「急になに?プロでもないのに、代金なんて取れんよ」
紅葉は困ったような苦笑いをした。
困っているのは私の方だ。
「糸とか、ボタンとか、タダじゃ服は作れないじゃない?」
「生地代出してもろてるやん?余りの布切れも貰てるし、私の部屋着なんか、紫苑の買うた生地の継ぎ接ぎやで?」
「あのみょうちきりんな前衛的柄シャツはそういう理由!?紅葉の趣味かと思った!どおりで、見覚えのある柄だなと」
「別にあのカオスな柄も嫌いやないけど、趣味でもないわな」
「いや、そういう話ではなく。私が着る服なんだから生地代出すのは当たり前でしょ。って話」
「なら、服の仕立ては私が好きでやってることなんやし、私が持つのは当たり前やんな?」
私は、そういうことを言っているんじゃない。
貰ってばかり、と言うのが嫌なんだ。
「代金言うても、道具はもともと家にあったもんやし、糸代やらボタン代やら?値段なんて、たかが知れてるやろ?」
「革用のミシンは、いくらするの?」
「それは、あー。いくらするんやろ?ちゃんと動けば中古で良いし、安いのもあるやろ」
それは新品が高価な事を知っている人の言葉だ。
問題は私が納得できるか、できないか。と言う所にある。
今まで気付きもしなかった癖にと自分でも思うけれど、気付いてしまえば、もう無視なんてできない。
「払うから」
「要らんし」
「払うから!」
「だから、要らんて。本当なんなん急に?水臭い。何でそんなにお金払いたいねん!」
初めて聞いた少し怒ったような、呆れたような紅葉の声を聞いて、頭に血が上ったのを感じた。
この頑固者は、なんで分かってくれないの?
「分かるでしょ」
言える訳ないでしょ、こんなみっともないこと。
「そんなん分かるかい。紫苑の阿呆」
「アホ!?私が!?」
「だってそうやろ!何考えて言い出したのか知らんけど!紫苑が何を考えてるのか、なんて私に分かる訳ないやん!?」
「紅葉の方がアホでしょ!分かってよ!」
だって、私にとっては当たり前の事だ。
欲しい欲しい言うだけの人が、人に好かれるわけがない。
私が今まで『欲しい』ばかりだったことに気が付いてしまえば、不安にもなる。
まして、綿入り半纏を貰ってからずっと、私は本当に貰ってばかりで、紅葉に何にもお返しができていない。
私が紅葉に嫌われたくないなんて当たり前の事、今更口にするのは照れ臭い。
だからせめて代金を、なんて浅ましくてみっともないと自分自身でも思うけれど、他にお返しできる方法も思いつかない。
そんな事は、誰にでも分かりそうな事でしょう?
「分からんわ!阿呆か!」
「~~っ紅葉のアホ!馬鹿!赤点常習者!もうテスト勉強見てあげないよ!?」
紅葉の分からない。という言葉が頭にきた。わかって貰えないということが、辛かった。
ただ紅葉が、服の代金が欲しいと言ってくれれば、私はそれで満足できた。
少しは安心できた。
「赤点は今関係ないやろ!」
なのに。
紅葉は私に何も求めてくれない。
そう思うと不安で、怖くて、自分の口が思うように動かなくなるのが分かった。
紅葉も、私の様子に呆れたのか、悪口を言ったから怒らせてしまったのか、続く言葉は無かった。
二人で居るのが気まずいと、初めて思った。
黙ったまま、二人で居るのに一人歩きみたいに俯いて、とぼとぼ帰り道を進む。
すぐ隣で並んで歩く紅葉の顔が、怖くて見れなかった。
黙っていても、どうにもならないとは思うけれど、何をどう言えば良いのかわからなくて、泣きたくなる。
喧嘩みたいになっちゃった。
喧嘩がしたかった訳じゃない。
嫌われたくなくて、どうにかしなきゃと思ったから、どう解決したら良いのか分からないまま急かされたみたいに口を開いて。馬鹿みたいな言葉を吐いて。
紅葉は分かってくれるだろう、なんて甘えた考えを私が持っていたから、こうなった。
私すごい面倒くさい奴じゃん。馬鹿は私だ。
こんな事じゃ紅葉に嫌われてしまうかもしれない、それは嫌なのに。でもどうすれば?
私は、次にどんな台詞を吐けば紅葉と仲直りできる?ハッピーエンドで締める台本は頭の中のどこにある?
そんなものはとっくに、初めから、どこにも、ありはしないのだ馬鹿者め。
だって私と紅葉は、今まで一度も喧嘩なんかしたことがない。
ぐるぐるぐるぐる。
頭の中はめちゃくちゃで、自分の足元だって、ぼやけて満足に見えなかった。
「勉強教えてくれてるやん。いつもありがとう。今度もよろしゅう」
唐突に、紅葉が言った。
「いつものことでしょ」
不思議と、自然に声が出せた。
「いつもて。まあ、いつもやなぁ」
紅葉が、へにゃ、と照れるように笑ったのが、見れた。
興味の無い事には集中できない性分の紅葉は、勉強が苦手。
紅葉の部屋に山ほどある裁縫関係の本は暗記しているのだから、地頭は悪くないはずなのだけれど。
「せやけど、私勉強は本当にダメやから、助かってるし」
「だからそんなの、当たり前でしょ。補習なんかしてたら、私と遊ぶ時間が減るじゃない」
「かまってちゃんか。充分助かってるけど?」
「そうじゃなくて!」
寂しがりの自覚は少しあるけど、そうじゃなくて。
「なんか、こう。紅葉が嬉しい事を私がしたいの!紅葉勉強嫌いでしょ!?」
つまり私は、私自身が紅葉にとって、必要な存在だと思いたいのだ。
紅葉が、紅葉自身のお金や、時間と手間をかけても全く後悔しない。と私が納得するには、私が何かを返さないといけない気がして仕方がない。
私だけが『欲しい』を得るばかりのアンフェアな関係は気分が悪いし、いつか嫌われるかも。なんて思うのは怖い。
「ま、嫌いやけど」
「なんか、無いの?」
私と紅葉は、互いに何かを与え合って、好き同士の対等な関係でありたい。
「なんかて、そやなぁ?私は、紫苑が私の仕立てた服着てくれるのが、一番うれしいやんな?紫苑は可愛いからなぁ。目の保養になる」
「~っ。いつも着てるでしょ。仕立てて貰って着ないとか、どんな恩知らずだ私は。ありえないでしょ。他には?」
この天然たらし。紅葉がさらりと言うたびに、私がどれほど照れ臭い思いをするか教えてやりたい。嬉しいは嬉しいけど。
「急に言われてもなぁ」
へら、と何でもない風に笑ってから、紅葉は悩む素振りを見せた。
「何にもないの!?私にして欲しい事とか!欲しい物とか!何でも良いから」
私にとって紅葉と一緒に居ることは、すでに当たり前の事になっている。
『もしかしたら』でも、何かの切っ掛けで疎遠になるなんて事になったら、それこそ私はどうしたら良いのか分からなくなるに違いなかった。
「なんでもか。ん~?あ」
「何!?」
紅葉が求めてくれるのなら何でも良かった。
「じゃあ、マネキン欲しいわ」
「それ私が買うから!」
飢えた獣がご馳走にかぶりつくように、食い気味に私は言った。
私が先に買うと言ったから、その権利は私の物だ。早い者勝ち!
マネキンの値段を私は知らない。なんて事は些細すぎる問題だった。
お金は、働けば得られる。マネキンが買える分だけ働けば済む話。
「阿呆」
「またアホって言った」
やっぱりやめた。とか聞く気はないけどね。
マネキンを買うのは、もう決まったから。紅葉が使いたいマネキンは私が用意する。うん。良い。そうする。
「マネキンなんぞ部屋にあったら邪魔くさいやん」
「でもマネキン欲しいんでしょ?」
「せやな。だから、紫苑がマネキンなってな?」
「私が、マネキンに、なる?」
鬼の首を取った。くらいの気持ちでいた私だけれど、紅葉が何を言っているのか分からなくて、一気に混乱した。
え、どういうこと?
小さい頃に紅葉とかにお人形さんみたいに可愛いなんて言われたことは、あるにはあるけれど、マネキンになるって何?
マネキンって服屋さんとかにある、服を着せるための人形だよね?え、違う?私もしかして、なんか勘違いしてる?
「私天才やん。置き場所に困る思て今までは買わんかったけど、紫苑が付き合うてくれるんなら、マネキンなんか買わんくてええし。紫苑の部屋はもうあるし、置く場所に困る事もないなぁ」
「え、待って紅葉、どういうこと?」
「紫苑に似合うかなー思て、仕立てた服があるんよ、少し?いや、だいぶかな。紫苑の趣味やないかなー思て見せた事も無いんやけど。うん、仕立てた以上は着て貰わんと、服も可哀想やし。私も見たいし」
紅葉の独り言を半分以上理解できず、私は思わず歩くのを止めていた。
「……マネキン、かぁ」
紅葉の言う事を聞く限りでは、マネキンと言うのは、私の考えているマネキンで間違いはないらしかった。
私は中学生にもなって、文字通りの着せ替え人形にされてしまうのか。マジか。
なんか、私が思ってた話の決着と違う。
けど、まあ、ギリギリ、うん。良いか。
「響きが嫌なら、モデルでもええで?」
少し前を歩く紅葉は、立ち止まっている私の方に、くるりと振り向いて言った。
新たな楽しみを見つけたせいか、紅葉はとても嬉しそうな表情をしていて、元は寝ぐせのアホ毛がひょこひょこ笑ってるみたいに跳ねているのが、ちょっとだけ憎たらしい。
紅葉は昔っから、裁縫をしている時はキリっとして格好良くて綺麗なんだけれど。笑うと可愛い。ずるい。好き。
でもまあ、紅葉が喜んでくれているなら、私も『何かを与える』という目的は達したはず。
「よっし!したら、はよ帰ろ!帰ったらファッションショーせな!」
にまにま。ソワソワ。こうと決めたら止まらない紅葉は、嬉しそうな表情のまま私の手を掴んで駆け出した。
モデルという響きには、マネキンよりぞっとするモノがあったけれど、暖かい紅葉の手の平の感触が幸せだったから、私は深く考えない事にした。
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試し読みは以上となります。
お気に召しましたら、ぜひご購入を検討くださいますようお願い申し上げます。
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◆文字だけ版『フクキタル』販売ページ(BOOK☆WALKER様)
◆『フクキタル ミニイラスト集』(※現在準備中です)
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