【論文書きながら"エビデンス厨"について語りたい】
現在、必死で学位論文(基礎研究)の執筆中だ。
で、飽きたからXを閲覧したところ『エビデンス厨』なるワードを目にした。
『エビデンス厨』というワードで検索してみると医療者への批判によく使われている様子。
我々医療者はエビデンスを大切にしており、そのような医療をEBMと呼んでいる。以下はWikipediaからの引用だ。
根拠に基づく医療(こんきょにもとづくいりょう、Evidence-based medicine: EBM)とは、「個々の患者のケアに関する意思決定において、現在の最良のエビデンスを意識的、明示的かつ思慮深く用いること (conscientious, explicit, and judicious use of current best evidence)」である。
前提として私ももちろんこれを大切にしている。科学的根拠に基づかない議論なんてクソ食らえだ。
ここで言う『エビデンス』とは試験管内(実験室)で行った研究を元にマウス、そして何千何万の生体(患者)から得た『結果』なのだ。
YouTubeで『エビデンスより結果が大事』という○ソみたいなコメントを見かけたことがあるが
何万個もの結果の集まりが『エビデンス』なんだよ!とツッコミたくなる
(↓こちらの記事でも終わりの方で述べている)
https://note.com/inuinorin/n/n84a0a97521d0
で、専門外ではあるものの自分自身が大学院生(研究者)でもあるため、〇〇するとパフォーマンスが上がる、系の話は基本的に一次資料(引用論文)を確認するのだが、
n数(被験者数)がためして○ッテン並に少なかったり、被験者の条件が現在の私の条件とかけ離れているものが多くを占めるように思う。そしてレビューではなく単体の研究を取り上げていることが多い。
COIがある(企業から支援してもらってる研究→同じ結果でも解釈が企業に都合の良いものとなりやすい)のも多い印象だ。
つまり何が言いたいのかというと、
この分野って、安易に基づける最良のエビデンスが"まだ"あまり無い気がする。
(※まだしっかり読み込めてないけどダニエルズに載ってる内容はその中では根拠がしっかりしてるんだろうと思う、レビュー的な。)
エビデンスとかの話抜きにして冷静に考えたらそりゃそうだ。そんな「全員が同様に強くなれる練習のガイドライン」なんてものがあればスポーツの面白みも半減するだろう。
例えばキプチョゲ選手に効果があった練習をそのまま小太り短足腰痛歯科医師の私が実践して強くなる訳がない。だって骨格や筋肉量も見るからに違うし可動域も違う。何もかも違う。
『エビデンス』の意義を理解していない人からの批判は論外だが『エビデンス厨』といわれてしまう人々の主張をよくよく見てみるとここの観点が抜けていることが多い。
何千何万人とかの単位で介入研究した医療とは訳が違う。 (そんな医療でも日に日に情報は更新されている)
偉そうに言わせてもらうが、論文というのは述べられてることをそのまま鵜呑みにしてはだめだ。これは断言する。
今私が執筆中の論文は「〇〇が癌を抑制する」というものだが、これはin vitro(試験管内)での話である。
もちろん結果に嘘はないのだが「じゃあ癌になったら〇〇を飲めばいいんですね!」と読んだ人に言われたならば、私は「ちょっと待てぃ」と言うだろう。
ちなみに専門家の意見というのはEBMではかなり下のランクにあたる。自分自身の感覚なんてもっての外だ。
しかしながらランニングに関しては我々情報を得る側の心構えとしては『複合的な知識を持った運動生理学の専門家と実際にいろいろ今まで実践してみたことある経験者の意見を聞き、現時点での自分(選手)の状態と照らし合わせながら判断する』→『専門家の意見を聞きつつ自分の感覚を大切にする』が案外理にかなってるのかもしれないと思い始めた。
一周回ってすごく当たり前な感じもするが、自分なりに腑に落ちた。
と、考察するうちに、例え医療の場であってもガイドライン(エビデンス)に基づきつつも、目の前の症例の条件がそれに合致してるのかは常に気にしなくてはならないと改めて気づいた。
エビデンス厨とは、エビデンスを『適切に』用いることのできない人のことだ。
※運動生理学は私にとって全くの専門外ですので何か見当違いな点あったらすみません。分野の発展に寄与して下さってる研究者の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。