緩やかなほろびの中で
この note 記事を私と同じ世代の方々に連帯を呼びかけるために書いています。あらゆる若い世代の人たちの若さが、最も発揮できる場所に配置されますように。
緩やかなほろびと若さ
今日が人々が緩やかにほろびを体験している時代であるということは、私たちの世代において比較的共有されているアイデアであるかもしれません。少なくとも、この2024年が終わるにあたって私はとてもとても強くそう感じています。
そしてそういった緩やかなほろびの中に、これから芽生えていこうとする自分の若さの諸相を置く、あるいは向かわせる場を定めていかなければならないという要請を時代は若い私たちに課しています。
緩やかなほろびの中にあって、その時代的な流れとともに肉体的な衰えと滅びを経験する世代については、時代の持つ緩やかなほろび性について特に煩わしく思う必要はなでしょう。むしろ時代の波と自分の年齢の波が重ね合わされてとても穏やかな気持ちであるかもしれません。とはいえ、私たちの世代は緩やかなほろびの中にあって、それでもなお成長することが要請される年代にあたります。
したがって、そういった世代は、その力を決して持て余すことなく、すなわち、ほろびゆく時代性を象徴するような cul-de-sac へと突き進むことを避けながら、慎重に進む先を見極める必要があり、そういった作業は自身が今しなければならないと要請されていることの何よりも優先されるべきものであることをよく理解しています。
今日z世代と呼ばれている世代は、以上の緩やかなほろびに逆流するかのように成長を歩んできた世代であり、その世代が織りなしている / 織りなしてゆく精神性はおそらくそれ以前の世代に比べてより複雑であるといえるでしょう。その複雑性(complexity)は、ほろび性という時代の在り方と自己の状態との相反によって強化されたものであるかもしれません。
そして、z世代がそのような複雑性(complexity)を伴った若さを、複雑性(complexity)のまま放置せずに、説明可能な形でどう表していくのかといった問題の検討は、今後100年の人類社会のあり方を検討することとほぼ等しいのです。これらの複雑な(complex)問題意識への応答が、おそらく私たちが作る未来を規定するだろうからです。
ですから、今存在しているあらゆる議論と責務に先行して、すなわち自身が今しなければならないと上の世代から要請されていることに先行して、今私たちの力を、ほろびゆく時代性を象徴するような cul-de-sac へと突き進むことには決して使わずに、人類社会の平和のために最も効果的な方向性へと使うにはどうすればいいのかについて私たちの世代は考える必要があるのです。
「失われた」あなたがたのもの
どのような時代であってもそれはほろびであり、若い世代はそれゆえに時代からそもそも疎外されている、z世代の若さの持て余しのみを特別視するのは問題があるという語りは不正確です。1990年代以降の日本とそして世界が歩んできた道を思えば、z世代の感じる時代へのほろび性は、少なくとも1970年代に生まれた世代のそれとは趣をことにすることは理解できるはずです。
いつしか「失われた30年」と呼ばれ始めた「失われた10年」というとても抒情的な言葉は、それを初めて記憶した小学4年生であった私を強く惹きつけました。社会を漠然と取り巻く喪失の感覚、それは小さいながらに理解できるものでしたが、私はそれを表すのにぴったりな言葉を見つけたのです。
東日本大震災を経て「失われた20年」が終わろうとする2012年11月14日、党首討論で国会解散について言及した野田総理とかつての安倍総裁との討論が一気に話題になった後かつての安倍首相と自民党が掲げたスローガンが「日本を取り戻す」であったことは、そこから12年経た今において再び思い起こされるべきでしょう。私はかつての安倍首相のこのスローガンのモノマネが一時期小学校で流行していたのを思い出します。
「日本を取り戻す」といった場合、「取り戻」される対象がなければなりません。参照される輝かしい過去があった、そしてそれは今喪失されている、そういった認識が伝わってきます。そのような選挙スローガンが使われたとき、21世紀初頭が緩やかなほろびを帯びたものとなろうことを暗示していたようでもあるのです。
いずれにせよ、1990年代初頭を一つのピークとして、そこから何度も浮き沈みを、とはいえ、全体としては緩やかなほろびを日本とそして世界は多くの場面で体験してきました。そしてそういった喪失の語りに埋め尽くされた環境で育ってきた私たちは、明らかに緩やかなほろびというしるしを強く世界観に組み込んでいます。
軽やかな責任論
1998年のかつての民主党の選挙スローガン「私は変えたい」は、1980年代を標準としてそこから没落していった日本への危機感を強く反映しています。1998年の選挙公約において、民主党は、「日本経済は、沈没への道を一歩一歩突き進んでいます。大きな横波の中、舵も切らずに破滅に向かう日本丸。自民党政権の支離滅裂な舵とりが、日本の進路を誤らせているのです」と述べています。
1998年の民主党の公約は、いささか感傷的であるにせよ、今日、自民党を非難する際の典型的なフレーズを示しています。さらにそれは、私が生まれて以来繰り返されているような紋切り型のフレーズにも思われます。
1998年の有権者は、1980年代から1990年代初頭の経済的な状況を体験しています。そういった世代への訴えかけとなったときには、1990年代以降の誤った「舵とり」を非難することが有効であるかもしれません。
とはいえ、そういった「失われた」もの、そしてその喪失を特定の誰かに帰属させるような語りの不毛さを、すでに私たちの世代は認識しています。
私たちは、すでに「失われた」世界に生を受けたのであり、それがデフォルトだったのです。そしてそこに存在する課題も十分に把握しており、様々に内的に折り合いをつけてきたか、あるいは自然に適応してきたのです。
すでに「失われた」世界への新参者は、したがって、その上の世代と同じような喪失の感覚もありませんし、その喪失を自分が作り出してしまったのだといった罪悪感とも無縁にいられます。ただそれらの個々の喪失は、私たちにとって悠久の歴史の中の緩やかなほろびの一側面でしかありません。そういった軽やかさが私たちの中にはあります。
そういった軽やかさにあって、すでに生じた問題を誰に帰属させるのかという問題意識はさして重要ではないのです。むしろ、この現状について私たちがどう応答できるのか(responsibility)に関わる問題意識の方が強いといえるでしょう。
私たちの軽やかな現状への応答可能性(responsibility)は、そういったすでに喪失から出発し、そして幼少期にリーマンショック、コロナウイルスなどといった繰り返された喪失を経験してきたことに端を発しています。私たちの共有する世界観は、世界は緩やかにほろびているということなのです。
ただほろびの中にいるだけです。だから、私たちは何も失っていません。
軽やかな責任論の別の側面
2024年は Generative AI の年でした。あらゆる社会のテクストデータを扱う領域において、AI の活用可能性が検討されてきました。AI に対する原理的な理解も乏しいまま、しかし、それが当然の出来事として私たちの日常を覆っています。
ここでは、AI の原理的な理解というよりも、AI が今私たちにもたらしていることをどう評価するのかという視点から、新しい責任論を述べたいと思います。それは先に述べた「軽やかな責任論」とほとんど同じ内容の、しかし別の側面からの説明となるでしょう。
かつての責任論の問題は、ほとんど誰がこの件に関わっているのか(Who is in charge)という問題に関わっています。法的な意味での責任論は、責任阻却事由といった文脈で、あるいは法的責任の諸相やその要件といった文脈で論じられるかも知れません。いずれにせよ、法的責任であれ、あるいは道義的な問題であれ、結局のところ、責任の問題が議論されるとき、それはほとんど誰がこの件を背負うことができるのかという問題に関わっています。
とはいえ、このような責任概念は今後意味をなさなくなるでしょう。AI が行うであろう不法的な行いは、このような責任概念のもと解決できるものとはならないでしょう。あるいは、法学的に可能になったとしても、その判断と私たちの直感との距離は離れていくものとなるでしょう。
例えば、福島原発の問題にあって、東電に責めを負わせた判断は適切ですが、その賠償は結局東電利用者のお金から出ているのです。法的な世界の虚構性は今日の責任論において守られますが、それは決して私たちの世界を豊かにはしていません。
私は、この緩やかにほろびにあって、あらゆる不徳とそれに伴う不利益をこのほろび性のしるしとして受け止めます。その不徳は、緩やかなほろび性の触手の内の一つに過ぎず、それをこの世界に現した人物、組織を責任者と呼び、彼に対して責めを追わせることが、適切なほろび性との関わり方とは思えません。この問題に AI が関わるとなったとき、さらに誰に責めを負わせるのかという問題は複雑になるでしょう。
ですから、私はほとんど、どのような条件が満たされたとき、誰に責めを負わせるのかといった類の責任論に意味を見出しません。近年、囁かれるようになったアジャイルガバナンスといった方向性はより責任を軽やかにしようとしています。そして、そういった協働的に責任を持つ仕方、人々を不幸であれ、幸であれ、しかし巻き込んでしまう仕方に希望を見出します。
今日の全球化は、ある一つの国の問題を一つの国責任として処理するには耐えるものではありません。ALPS処理水の問題もある国は日本を非難しますが、本来は特定の国の問題としてではなく、人類共通の海洋資源の問題として、そして、人類が抱える共通する緩やかなほろびのしるしとして、共に責任を持つ必要があります。そして、日本はあらゆる国と共通の利害を共有する世界の一部として、議論を開いていく必要があります。
すでに生じた問題はそれはそれです。それはあくまで緩やかなほろびを象徴するに過ぎません。それがどのような条件において、誰が背負うべきかという人類社会内の公平さの文脈における責任論はほとんど意味をなしません。特定の誰かに責めを負わせても、すでにその責めはその人が負うに大きすぎるものです。それが今日の規模なのです。
私たちは、人類社会とその外の生態系全てに対して、私たちが応答できることを探す形で、責任-応答可能性をとらなければなりません。密接に人々が関わり、人々の影響が全球的にある今日にあって、全ての人が全ての課題に手を染めており、それゆえ、何らかの形でその課題に応答する必要があるのです。
私たちはすでに手を染めている
2019年7月29日にグレータ・トゥーンベリさんが行ったツイートは様々な仕方で受け止められました。特に日本においては否定的な反応が多かった印象を受けます。
グレータ・トゥーンベリさんは、2003年生まれで私と同じ年に生まれたことになるのですが、彼女の語りを見るところ、世代間の対立を煽っているように見えます。親世代の不徳を名指してそれを攻撃し、その責任を明らかにしていくという仕方なのです。
こういったグレータ・トゥーンベリさんの姿勢に従う形での大きな連帯は、そもそも2018年の時点で日本では生じませんでした。そして、かつてセンセーショナルであった彼女の運動が今日において依然影響を及ぼしているとは思えません。大西洋航海といった散発的な情報がニュースになるのみで、それが時間的に持続した運動に結びついているわけではないのです。
語弊を恐れずに言うならば、グレータ・トゥーンベリさんの運動への「支持」は、自身の世代の問題を指摘する彼女を認めることで、自身の世代の罪悪感を軽減するために、上の世代において生じたものに過ぎません。私たちの世代の多く、特に日本に住んでいるものたちの多くはあくまでも最初から「不支持」だったのです。
グレータ・トゥーンベリさんの語りの問題点は、大人と子供という権力構造を自明視していることにあります。そして、彼女の戦略の巧みさは、その構造の中において子供の言説をどう定位するのかというところに見られます。
グレータ・トゥーンベリさんの語りがかつてほど同年代にも支持されない理由は、今私たちの世代が大人へとなっているということにあります。私たちは全く文脈を共有していない、全世代の不徳によって傾きかけた世界に投げ込まれたものの、その責任を引き受けなければならない時点まで来てしまっているのです。蓋しそれが大人になるという言葉が意味することだからです。
グレータ・トゥーンベリさんはあくまでも「罪なき」「無垢な」「子供」として自分を定位しようとしています。彼女がガザ問題に対する一連の抗議活動において、警察によって拘束されていることはその悲劇性をさらに演出しています。
彼女の問題意識は非常に深いものであり、自身の人生を賭してこの問題に立ち向かおうとしていることが見て取れます。そういった意味合いでの「無垢さ」について私は敬意を表します。とはいえ、その意志がそのように実現されるべきかについては、もう少し慎重な検討を要したはずなのです。
少なくとも世代間格差、ある特定の集団を名指ししてそれを非難し、そこに働きかけて世界を変えるという活動スタイルは、「無垢な」子供である時分には擁護されはしても、すでに成人を経た私たちの世代は上の世代が行った過ちの一部に手を染めており「無垢」ではない以上、擁護されるものとはいえません。さらには先に私が提唱した「軽やかな責任論」の文脈からも非難されます。
同様のことは、2024年にアメリカのコロンビア大学に端を発した一連のガザで行われているイスラエルなどによる殺戮に反対する学生デモ運動に関しても言うことができます。
このデモ活動に、今日私たちの多くは直接的に参加をしませんでした。もちろんそういった活動は重要ですし、社会的な影響を持っています。とはいえ、私たちの多くはそれに参加しませんでした。
しかし、そのことは私たちのこの現状に対する無関心さを直ちに帰結しません。私たち、少なくとも私は現在ガザやウクライナをはじめとする殺戮の現場について、強く関心を持ち、失われるべきでなかった命が失われないようにされるようなあらゆる手筈が用意されるべきであると強く考えています。それどころか、ある行動が有効であるとき、それに強く従事しようと考えてすらいます。
今日行われている「デモ」あるいは政治的「集会」というものは、自身が参与観察のために複数回参加した経験からして、そのエネルギーをあるいは私たちの若さを、過去を否定する方向へと向かわせています。そして、そこには「無垢」である若い私たち、歴史とはおよそ関わりのない私たちがあり、そして漠然と歴史性に塗れた「世界」と対峙しているのです。
とはいえ、いくら若い私たちといっても0歳児ではありません。私たちには10年あるいは20年という地球で過ごした年月があります。それが望まれたものであったにせよ、あるいは望まれたものでなかったにせよ、私たちは歴史性の上で行動してきた年月があります。私たちは自身がすでに行ってしまった血まみれた歴史性に基づく行動、手を染めてしまった数々の不徳を認識する、しかし軽やかに認識する必要があります。
そのような謙虚な認識に基づくとき、私たちは歴史性をある意味では自分のこととして引き受けなければならないことを理解できます。そこにおいて、私たちはその自分自身のいわば dark side をどう解消するかと問うことになり、今日の人類社会の課題は極めて個人的な課題となるのです。
極めて個人的な課題として人類社会の課題が立ち現れたとき、私たちは、その課題に向けて自分の人生を賭けるという、人類社会の課題への応答を要請されます。さらに、そういった課題が個人的な課題である以上、私たちはデモに参加することに原理的に意味を見出せなくなるはずです。
今日、デモは人類社会の課題を公共的なものにしています。その運動自体は内省から生じたにせよ、運動の指向は、政府へ、一般の人へといった形で公共性そのものです。そのような非個人的な領域への訴えは、個人的な問題意識を他者に強要する点において暴力的であり、さらに、個人的な問題意識を他者に背負わせる点において責任逃れでさえあり得ます。
公共へと開いていくことは、課題が個人に与える影響を相対的に小さくし、単なる時代的な運動、流行として課題を矮小化しています。課題が個人において背負われたときにはじめて、個人の人生においてその人類的課題にどう向き合うかという問いが生じるのです。個人的な課題の重荷は個人が背負い、そしてその上で力強く未来を見据える必要があります。そして私たちは、個人の責任において、それを行動として達成する必要があります。
今日のデモを見て感じるのは、その行動力のなさです。デモなどの運動はおよそ行動力がありません。ガザやウクライナの現状について私たちができることは、デモに参加することではなく、自身の関心と時間を当該の地域を理解することに割き、その地域において必要とされていることが何であるかを考えることです。そして、その地域で必要とされるようななにがしかを将来用意できるような人生を歩むことなのです。このような決断こそが行動力といえるでしょう。
デモの参加者は行動の主体ではありません。彼らはナイーブに行動の主体を国家であると想定しています。彼らは自分達の懸念が日本国政府に伝わり、それが国際社会において意味をなせばよいと考えています。日本政府が動くだろうとと想定しているのです。それではデモはまったく現状に対して直接的な影響を与えることができないことを認めるのに等しいのです。
私は行動を呼びかけます!
私は行動を呼びかけます。それはデモへの参加ではありません。デモは既存の行動主体、グレータ・トゥーンベリさんの表現を借りるならば、「いわゆる主導者(so-called leaders)」に訴えかける行為でしかありません。いわゆる指導的な世代に向かって「あなた方はそのことをそうであるというように伝えるに十分なほど成熟していない(You're not mature enough to tell it like it is.)」と責めることでもありません。それでは今起こっている惨事を和らげるために自分が関わっていることにはなりません。
私は行動を呼びかけます。行動とは、今起こっている惨事を和らげ、そしてそれを止めるために行われる実効的なあらゆる試みです。若い世代の行動といった場合、今起こっている惨事を和らげ、そしてそれを止めることを自分が将来的にするには、今自分は何をするべきなのかを考え、そしてそこで得られた役割を自身のものとして引き受けることなのです。自分の人生をその問題を解くために捧げることなのです。
私たちの複雑(complex)であるような精神性は決してデモというまやかしに使われてはなりません。それは、巧みに用意された cul-de-sac でさえありえます。デモはすでに1960年代的であり、それ自体の暴力性と悲劇性が今日において非難されるべきでさえあります。
デモというまやかしは、私たちがより悲劇の起こっている現場に関わることから遠ざけています。私たちに現場から何千キロメートルも離れたところで、居座り、あるいはメガホンをとり、否定的な言葉を投げている若さとエネルギーがあるならば、代わりに現場に赴き、そこで実効的な資源を用意するべきです。デモはそういった基本的な発想をさえ妨げる点で、まやかしであるのです。
デモに参加する人数がどんなに増えてもガザやウクライナの戦況は変わらないのです。私たちが将来たとえば政治家になるとすれば、戦況を私たちの手で変えることができます。デモに参加する暇があるならば、政治家になるべきキャリアを積み上げるべきなのです。政治家は例示にせよ、私たちのガザへの懸念に基づいて、他の考えうるあらゆる将来の選択肢を私たちは取る必要があります。
同じように、もし、グレータ・トゥーンベリさんが「科学に裏打ちされた連帯(united behind science)」を唱えるならば、その賛同者のいずれかは、少なくとも科学者という道を歩むというのが妥当な方向性だと思われます。グレータ・トゥーンベリさんが気候問題を「正義(justice)」の問題として捉えた上で、同じ「正義」の問題として捉えられるガザ問題への抗議へと同世代の若者を駆り立てたことにはミスリードなるものを感じずにはいられません。私たちはガザの問題を解決するよう誰かに要請することに招かれているのではなく、ガザの問題を自身が解決するように招かれているのです。
私たちの世代は、今起こっているあらゆる惨劇を心に留めて、そこにおける必要を満たす人物像と自分自身の将来像がどこまで一致できるかという観点において、自分自身の将来を設計、評価し、そして、それに対して責任を負うしかたで、行動をする必要があります。私たちの若さはそのような建設的な方向性に使用されなければなりません。
今日の人類社会の惨事の責任の一部は私たちにもあります。罪深い私たちがその負債を棚に上げ、他者を非難する形でデモを行うことは、ふさわしくありません。私たちは、人類社会の惨事の責任を自分自身の dark side の一部が帯びる責任として引き受ける必要があります。
私は、同世代の皆さんに、そのような個人的な引き受けの上に、自身の人生を人類社会の安寧のために捧げるような人生の設計とその実行を求めます。私たちの人生は、常に緩やかなほろびに彩られた、そして人類社会の惨事の現場です。その現場において、その惨事の「軽やかな責任」は自分たちが取るのです。
私は以上のような行動を呼びかけます。私は現場主義者です。
歴史性の尊重
世代的な不平等の訴えという見えやすい罠に私たちははまりつつあります。それは気候問題の解決においても、あるいは他の人道的な危機にあっても、何の有効な解決ももたらしません。2021年のグレータ・トゥーンベリさんのスピーチにあるように、上の世代は声を無視しているからです。そしてそのことは驚くほど痛くも痒くもないのです。
フランスの2006年生まれの歌手アンジェリナ・ナヴァ(Angélina Nava)さんが2019年に発表した「お母さんは私に言う(Maman me dit)」は上の世代と自分達の世代との間にある軋轢を示唆しています。そしてその軋轢は、上の世代が子育てに何らかの形で困難を感じていることと無縁ではないとは思います。
以上の抜粋した歌詞はどれほど多くの人に共感されるかは分かりません。とはいえ、この歌詞は、少なくとも世代間対話が成功しているとは言い難い事情を示しており、さらに、それがいくつかの国で受容された(英語訳の歌詞が登場している)ことを思うと今日の精神性を明らかにしているかも知れません。
同時に「お母さんが私に言う(Maman me dit)」という言葉を聞いたとき、18世紀の世代間コミュニケーションの一例を表すフランスの歌を思い出しました。
ここでは、世代間対話が可能になっている様を理解できます。18世紀のこの歌詞は、技術と私たちの生活の体験の変化が緩やかであり、それゆえ世代の間の対話が容易であったような様を示すかもしれません。
とはいえ、以上のような世代間の対話を難しくしている要因がある中で、さらに特定の世代に責任を押し付ける語りは、その対話を阻んでいます。上の世代は声を無視していると同時に、私たちも「老害」という言葉を開発し、それを阻もうとしているからです。とはいえ、そのことは驚くほど痛くも痒くもないのです。
私たちが何もできないわけでもないからです。以上の訴えが虚しいという兆しは、私たちの世代が上の世代に対話し、懇願し、聞き入れてもらうといったフェーズはすでに終了したことを象徴しているだけに過ぎません。私たちの世代が2000年初頭に生をうけた世代が社会に進出しています。私たちがあらゆる上の世代の要請を一度忘却して、あるいは彼らの問題意識を汲みながら協働して、再度歴史を進めることができる立ち位置にいるのです。私たちには力があります。
とはいえ、そういった進出において重要なのは、上の世代の要請の忘却ではあったとしても、決して過去の忘却ではありません。歴史性の問題から距離を取ることではありません。
私は歴史性に関わる幾つかの問題含みな態度についてここで注意を促したいと思います。まず、過去の問題は線引きをして忘れてもいいというような態度です。このような態度は、私たちが同じような過ちを行うことに導きます。それどころか、過去と同じくらいの達成をもって、今日今まで達成されることのなかった偉業がなされたといった類の自惚を容易にし、そのことは人類の緩やかなほろびをそのまま象徴するでしょう。
加えて、上の世代の要請をそのまま自身に体現しようとする考えも問題含みな態度であると言わざるを得ません。あらゆる規定された尺度は、上の世代の要請にどう答えるかによって把握されています。そういった熾烈な競争は、上の世代の要請を無批判に自身に体現することを促しています。私たちは上の世代の要請は然るべきものとして受け取り、とはいえそれを超えていかなければならないということです。
私がここで注意を促したいのは、そのような熾烈な競争から私たちが退いていいという廃頽的な雰囲気をよしとすることです。これは決して私たちの世代が今後の人類社会のためにとってよい道ではありません。私たちはありうる限りの同時代的な競争の中で、より優位に駒を進める必要があります。しかし、それで終わってはならないのです。
同時代的な競争の虚構性を理解した上で、すなわち前の世代が設定した評価軸におけるものにすぎないことを理解した上で、私たちはその虚構性を一部では引き受ける必要があります。さもなければ、私たちが来るべき私たちの世代において持ちうる力が弱くなるからです。加えて、すでにある軸の意味を十分に評価することができなくなるからです。しかし、将来的に、その虚構性を解体していき、その上でしっかりと立ち現れてくる場を掴み取る必要があります。それがおそらく私たちが「再び集うことになる場」だからです。
今日にみる中世的後退
今日の社会システムが、数年ももたないのではないのかという危惧が共有されています。地球温暖化、国連総会決議が言葉だけの浮遊になっている事態、国連安保理の最もクリティカルな場面での不機能、コロナウイルスなどといったウイルスとの距離、局地的に散発する戦争、地域的な搾取などといったあらゆる課題が時のしるしとなっています。
このような危惧の中である一部の人たちは、地域的な引きこもり、自然と近距離にあるコミューンを建設しようとしているようです。そういった地域的、コミューン的な運動は、しかし、今日曲がりなりにも連帯にある世界に反抗しているようでもあります。
私たちの人類史の流れは連帯へと動いてきました。そこに現れるさまざまな困難、摩擦や暴力といったものを乗り越えてきました。それはある意味では、固有性といった問題を軽やかに乗り越えて行こうとする、一種の不誠実な行動であったのかもしれません。とはいえ、今日の人類史の意味はこのような連帯に現れています。
地域的な引きこもりといった中世的な後退、地域コミューンの方向性は1950年代にも世界各地に見られました。それは二度の世界大戦を経た人々の心の傷に還元して語ることができるかもしれません。あるいは共産主義的な共同体観に支えられたものであったかもしれません。
国際社会の大きさ、それは人間じみたスケールを大きく上向きに逸脱したもので、その大きさに立ち向かったときに、私たちは無力を感じるのも事実です。無力さが戦争といった危機に大きく感じられるのもまた事実です。そしてそのことが handmade な自分の背丈にあった共同体へと人々を向かわせること、地域的コミューンの方向性へと人々を向かわせるものであるかもしれません。
とはいえ、私たちはそういった大きな世界を作った以上、再びそれを自分自身の手元で操作することができる見立てを持つことは、自作以外のものについてそのような見立てを持つことよりもより容易であるはずです。
私たちは人類が歩んできた歴史の諸相のうち、より連帯に向かいつつあるという歴史性を特別に把握する必要があります。今日の世界がそれによって成り立っているところのものだからです。今日の世界における課題は、そういった歴史性の認識を抜いては意味をなさないものとなるでしょう。
私たちは、あらゆる地域的なコミューン形成の運動、中世的な後退を乗り越えて、別の言い方をするならば、相互の理解を妨げるような地域的な分断を乗り越えて、連帯の歴史への歩みをより強くしていかなければなりません。
相対主義のまやかしによって、あらゆる価値観をそれをそれとして尊重し、そして価値観同士の対立を避けるために地域的に分離し、孤立していくという仕方で、未来を構成することは、より人類社会を混迷に陥れるでしょう。
私たちは、傷つけ合いながらも、しかし着実に連帯の道を歩んできました。相対主義のまやかしに陥らずに、私たちは真実を選びとってきたのです。この方向性に誤りがなかったことを時は明らかにするでしょう。
今日の全球化的様相は、そして人類の全球的に影響をもってしまう力のありようは、私たちにある種の連帯を要請しています。もし私が連帯することなく、複数の相反する力が存在するとき、その不一致はかつてないほどに物理的に地球環境に負の影響を与えることになるでしょう。それは人類にとっても好ましくないばかりか、あらゆる生命にとっても好ましくありません。
地域的な引きこもり、中世的な後退という今後混迷を極める社会で現れるに違いない動きから、私たちは距離を取る必要があります。常に私たちは連帯へと、身の丈よりも大きな国際社会へと、それがいかに仮象であるにせよ、そこへと働きかけていく必要があります。
再び集う場
先ほど私は、すでに用意された人類社会の大切な営みが持つ虚構性を解体していき、その上でしっかりと立ち現れてくる場を掴み取る必要があるということを述べました。そして、その場こそがおそらく私たちが再び集うことになる場と予言的に述べました。このことについては説明を要するでしょう。
1990年代は今日の国際社会を今日たらしめた重要な決断がありました。EUの発足やポストモダニズムの名を冠するいくつかの運動はその代表的なものです。とはいえ、それから30年が経ち、現在そういったシステムはかつてほど現状と一致しておらず、言葉のみの世界になりつつあります。しかし、同時にそういった世界の培ってきた評価軸は、今日において依然重要な意味をもっています。
私たちは以前の評価軸を十全に受け継ぎ、その虚構の評価において卓越しなければなりません。そうでなければその評価軸について評価することができないからです。そしてその過程で、私たちは専門に分化していくことになります。
とはいえ、その上で、来る私たちの時代に、その虚構性を問い直し、解体し、その上で現れてくる場を掴み取る段階が必ず来ます。そのとき、私たちは再び自分の言葉で語ることのできる場を得るのです。私たちはあらゆる専門知というまやかしを超えて、共有する使命のもとで言葉を純粋に発するのです。
人生の前半を全く異なる分野を突き進んだ人たちが、人生の後半になって再び専門性を身につける前のように集い、以前の学知の虚構性を明らかにし、そして解体していきます。そこから現れる場を掴み取るのです。その場はさらに虚構性を再生産しますが、その虚構性がより平和と慈悲で満たされたものであれば素晴らしいのです。
私たちの世代は複雑な(complex)様相を見せています。そして、一種の個別化の道を辿っています。カスタマイズされた経験をあらゆる商業は保障しようと必死です。とはいえ、そういった経験の差異は、私たちの問題意識を分散させるとは限りません。
歴史的に、全く分野が異なり、全く別違な経験をしている、同じような世代が集う場が存在してきました。それは時代が私たちに持たせる共通の問題意識を反映する場です。それはウッドストックの3日間であったかもしれないし、オリンピックであったかもしれません。いずれにせよ、私たちの強い共有された問題意識を立ち現すことのできる場あるいは設定が突如現れることがあるのです。
私たちは社会のさまざまな部分でそれぞれの役割を担うでしょう。その舞台は先の世代が用意したものです。そしてその舞台の上で、舞うことになるでしょう。その舞台は分化されていて、異なる舞台の人同士の対話が困難であるかもしれません。異なる舞台というだけで、役割に伴う対立が生じるかもしれません。
しかし、その舞台装置をほとんど知り得る立場に自分がなったとき、その虚構性を先の世代では指摘することのできなかったほどの鋭さで指摘し、舞台装置をより大きな舞台へと引き摺り出すのです。そしてその広い広い舞台の上で、全く違う舞台で踊っていたと思われるかつての友人たちの顔を見ることになります。
私たちの世代はこのようにして最後に自分自身の舞台を用意し、そしてそれをホストしていくことになります。その舞台、あるいは場の上で、私たちは私たちの言葉を紡いでいきます。そして、それが私たちの再び集う場であるのです。そこでは以前の敵対的でもあったような同志たちとの対話が促されるでしょう。そして心穏やかな気持ちで、共にそこに未来を置くことができるのです。
その再び集う場は、私たちの生が見せるあらゆる複雑さ(complexity)のそれぞれをきちんと定位することを可能にします。私たちは、その場を定めた上で、自分のそれぞれの成してきた / 成し遂げるであろうそれぞれの仕事を置くのです。そして、死ぬときに、その豊かな、そして慈しみに溢れている場を見て、自分が世界になしたことを理解することになるでしょう。
緩やかにほろびを向ける時代の中にあって、依然輝いているその場で希望を叫びます。
2024年12月30日。
乾 将崇。