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随筆(2025/2/21):「真理から演繹した真なる体系を作ろう」というのが、もうカントの示唆する理念の罠そのものなのではないか_3


7.現実世界の説明に役立つ便利な道具と、真理論とは、どうにも相性が悪い

「常に真である事柄」「真理」を、現実世界の説明に役立つ便利な道具である論理学(やそれと折り重なって密接な関係にある数学)と連携させて、「真なる体系」を作ろう、という動機が、世の中にはあります。
これがあれば、不確かな現実世界の、様々な分野においても、確実に必然的に正解が得られる。それが全能とは言い難くとも、少なくともある種の問題については常に失敗しないで済む。

真理とは、状況がどうであろうが常に真である事柄です。
なので、それを扱う真理論は、事柄の真偽とその体系を扱う論理学部分体系、何なら出発点となりそうに思えてきます。

しかし、実際にはそうなってはいません。

  • 論理学における真理、トートロジーは、確かにジャンルを問わないで通用するが、ジャンル固有の問題を通常解決しないので、頼りにならないし、

  • 論理学数学の方は、真理を必要としていないし、

  • 真理特定の文と組み合わせると矛盾するし、

  • 重要な数学的対象の性質において、真理が幾重にも役立たずになる状況があるし、

  • 確率論では真理だろうが何だろうが、個々の事象が必然性や確実性を持てないことを受け容れざるを得ないし、

  • 自然科学のジャンルの中でも基礎的な量子力学では、量子の性質の組み合わせ確実性を持ちえないし、

  • 統計学では概ねの真と概ねの偽で満足せざるをえないし、

  • 自然科学は量子力学や統計学に基づくので、どんなに必然的に見える知見であっても、それはあくまで近似的に確からしいということにすぎない

ということを、前回の記事では示したのでした。

真理に基づいて、論理学等で真なる体系を作ったとしても、それが現実世界を部分的に説明できる程度には現実世界と相性がいいかというと、現実世界を割とよく説明している論理学数学確率論量子力学統計学自然科学も、真理とは相性はかなり悪いのです。

  • 「論理的な真理は頼りにならない」

  • 「論理学や数学では真理は要らない」

  • 「真理から論理的に得られる体系は例外条件下で矛盾するので真なる体系は無矛盾性は持ち得ない」

  • 「論理学や数学では真理は役立たずである」

  • 「確率論では個々の事象は必然性も確実性も持てない」

  • 「現実世界は確実性を持ちえない」

  • 「現実世界では概ねの真と概ねの偽で満足せざるを得ない」

  • 「現実世界においては必然的に見える話は実は単に近似的に確からしいだけである」

こんな中で、真理に基づいて真なる体系を作り、現実世界の一部と整合させるのは、尊い努力かもしれませんが、率直に言えば
「山師が示唆している鉱脈、ですか。こんな駄目そうな風土なのに、ある、と信じ込む気にはちょっとなれないですね。何であると思えるんですか? 山師が言ったから? そうにしか見えないから? そういう話なら、俺は乗れませんね」
といったところです。

8.真理論と数学等の突き合わせが無駄だったとはまるで思わない。「駄目である検証」は重要である

とはいえ、論理学や数学などが真理と相性がよいかどうかの検証は、もちろん真理について真剣に問われてきたからこそ分かって来たことです。
それを「そんな検証をするまでもなく、駄目だったのだ」とは言いません。
駄目である検証というのは、上手く行く検証と同じくらい重要です。
「少なくともこの手順は再現しない方がいい」というのが分かっている、ということの有難味は、失敗したことのある多くの人たちにとってには、よく知られているところでしょう。

***

そして、何かしら上手く行くという検証が得られたら、これは逆に大きな成果です。
得られるといいですね。

私はそういうことを自らやりたくないし巻き込まれたくない(理由は今まで膨大に書いて来た)し、成果をかすめ取るだけの者です。
しかし、彼ら努力する人の努力を、止める立場にはない。せめて、応援し、見送るしかない、とは思っているのです。

9.そもそも、「真理と真なる体系があってほしい」という動機自体に対し、カント哲学の観点から踏みとどまってみる

さて、
「真理と真なる体系があってほしい」
「不確かな現実世界かその一部を必ず確実に説明できていて欲しい」
「成功と失敗のある選択を前にして、必ず正解して成功したいし、絶対に誤って失敗しないようにしたい」

という動機が、世の中にはある、ということについては、既に何度も述べて来たとおりです。

ここで少し考えてみます。
少なくとも上の話では
「見たところどうにも駄目そう」
ではある。
なのに、
「それでもひょっとしたら実は上手く行くかもしれない。上手く行って欲しい」
と思う人がある程度いる。
そうであるからには、彼らにとって、強い思考のバイアスとなりうる、何らかの動因が、そこにあるはずだ。

何もそれは、山師のペテンである訳ではない。
むしろ、山師はペテンで言っているのではなく、山師自身が、単にそのバイアスに引っかかっていて、本心からバイアスのままの話を口にしているだけ、という可能性も大いにある。

***

じゃあ、どういうバイアスがあるのか。

ここで、カント『純粋理性批判』の発想を援用してみる。
要するに、「理性が要請してはいるが、現実世界にはある訳がないもの」「理念」の罠が、ここでもはたらいているのではないか、という話だ。
極めて平たく言うと、真理とは、
「現実での経験や論理的な思考から抽出されて出来ることが期待されるが、出来ない、そういう理念」
でしかないのではないか、ということだ。

***

現実での体験や論理的な思考から、真であることを抽出することは、もちろんできる。
雑多なそれに、何か共通点があるのではないか、と探ることもできる。
それは何らかの、証明された定理や、検証された自然法則として、大いに役立つであろう。
では、そうした膨大な定理や自然法則に、何か共通点はあるのか?
例えば、真理論のニーズに即すると、「全ての定理や自然法則において共通する、真であることの条件」というものはないのだろうか?
あれば、それは「全てに通用する真の条件」なのだから、正に真理としてはうってつけであろう。

***

ここまでで気を付けるべき話が二つある。

まず、このレベルで求められる真理は、真なる事柄から定理や自然法則を構成するプロセスを反映して、定理や自然法則から何かを抽出すると、手に入るのではないか、という期待を抱かれがちである。
そして、そこからこのレベルで真なる体系を作れば、現実世界のうち、確かなものについては、構成できそうなのだ、とも期待されがちである。

次に、定理や自然法則以上の真理は、実際には得られていない。
共通する条件は得られており、それはどんどんトートロジーZFC真理文に近付くが、それらは真理論が求める「ジャンル縦断的に役に立つ必ず確実な真理」とは別のものである。という話も既に何度もしてきた。

***

なぜそのようなことが起きるのか?
ここで、真理は理念だから、実際にそれが定理や自然法則から得られることは、何ら保証されない、という話がしたい。
あるのは「真なるものの究極の共通点を抽出したい、という何らかの心のはたらき」であって、「真なるものの究極の共通点」そのものは「あってほしい」が、その「あってほしさ」は別に「ある」ことを保証しない。
というより、願望されたものが、一貫して現実に存在してしかるべきだ、という話自体がおかしい。
前者は精神機能の都合で、後者は現実の都合だからだ。
真理は、必然的かつ確実であって欲しいが、実在していない。

***

ジャンル固有の問題を解くなら、ふつう役に立つのは正に定理や自然法則そのものでしょう。
頼るべきはそれらであって、ジャンル固有の問題を解決しないトートロジーでも、ありもしない真理などでもない。
仮定されたZFCは役に立つかも知れないが、それよりもそこから構成された定理や、それを反映した自然法則の方が、ずっと使い勝手がいいでしょうね。何せ、ジャンルに絞られている分、目の前の問題に即しているのだから。

10.真理が理念の虚構だったとして、じゃあそこからどうするのか

10.1.実在しない理念を前提にして、別の精神的な産物をもたらすことはできるし、それが精神を持つ者同士で役立つことはある

10.1.1.別の例。「自由」理念と責任感と信頼と社会生活

それに、理念そのものは、現実世界の側自然科学においては真に受けない方がよいものですが、人間世界の側では何ら無駄ではありません。

***

別の理念の話をします。カントも論じた、「自由」という理念についてです。

今では、「自由意志が実践をもたらす」と考えられていたカントの時より厳しい結果が出ていて、「自由意志が実践をもたらしたりはしない」ということが分かっています。
具体的には、ベンジャミン・リベットによる実験により、
「自由であるという主観と、行為は、同じ脳の発火からもたらされた、それぞれ別の結果である」
という結論が得られています。

同じ原因からもたらされた別の結果同士が、因果関係を持っているように見えたとしても、実際には因果関係はない。これを「擬似相関」と呼ぶ。
統計学をやるとそのうち嫌でも見ることになる注意点です。

ここでもそれが起きています。自由意志は結果であり、実践も結果であり、これらの間には因果関係はない。

***

少し別の話をします。

まず、「自由であると言う主観」とか「自由を妨げられていて不快である主観」とかは、あるかないかでいうと、主観のレベルでは断固「あるもの」です。というより、しょっちゅう体験しているはずです。

また、社会生活をする上で、
「誰かのせいにしたいが自分の顔しか思い浮かばない」
というレベルの責任感は極めて重要です。
こちらとしては、これを持たない人にはお近づきになりたくない。そういう人は都合の悪い責任をガンガン周囲にぶん投げていくからです。
自分は自分のやったことに何のかかわりも持たない。メリットだけ吸っていき、デメリットは押し付ける。

このレベルの責任感のない人、他人の車を勝手に運転して人身事故を起こしておいて
「ウヌの車じゃ ワシのせいじゃない」
と言い張る人くらい怖い。
(ちなみに一つ前の言い回しは車の自損事故の件で出た台詞なのでした)
そんなことをしていても、その場はいいかも知れないが、長期的にはそんな人とはお近づきになりたくないから、その人は干されて食い詰めることになる。
逆に、ここでケツをまくらないで拭う人は、信頼できる。約束してもきっと裏切らないだろう。
というか、そこで裏切る人と、約束なんか交わしたくないんだよな。自分は守るが、相手は守らないかもしれない、と思いながらやる約束、そりゃあ嫌ですよ。

何の話かというと、「誰かのせいにしたいが自分の顔しか思い浮かばない」という責任感は、「自由であるという主観」、つまり「自由意志と実践とが、少なくとも合致はしている、という主観」があったり、さらにはある程度持続することが、重要な条件の一つとなります。
というより、ここが妨げられる体験があったり、さらにはある程度持続すると、「もうどうでもいい。知らん知らん」という感覚が生えてきます。こうなると人はあっという間に無責任になります。
「自由であるという主観」が必ず「誰かのせいにしたいが自分の顔しか思い浮かばない」という責任感もたらすとは限らないのですが、不可欠なステップではあります。

実際には「自由」という願望めいた理念のもたらした勘違いに過ぎない「自由であるという主観」が、それでも責任感をもたらし、他人からの信頼感や、他人との間の約束をもたらし、社会生活はとてつもなく円滑になっていくのです。

ということで、「自由」理念を、虚構だの何だのと、特段否定はしません。社会生活の円滑さは、主観にとってはふつう強く求められる話でしょう。

(なお、これを享受するのは、まずは主観である、ということを忘れないで下さい。
主観にメリットがないなら、主観はこれをやる動機がありません。そしてもちろん、メリットがあると主観が思ったからこそ、これが実現されるのです。
社会の側がこのプロセスを要請するのは勝手ですが、
「お前の主観がこのメリットを享受するか、ということなどは、社会の知ったことではない。社会のメリットのためだ。お前の主観のメリットなど二の次に決まっているではないか」
という話をするのはやめましょう。
こんなものは説得でも何でもありません。

それで説得ができる、と思う人のコミュニケーション能力、個人的には到底信頼に足りない)

10.1.2.それでは「真理」理念は何に寄与するのかというと、これもまた信頼に寄与する

現実世界では、「真理」ではなく、「概ねの真偽」に頼らざるを得ない、という話は既にしました。
それでも、
「できるだけ真理に近づけよう、できるだけ常に真として通用するようにしよう」
という姿勢は、これはもちろん事柄が真であることの確かさに大きく効いてきます。

するとどうなるか?
これは信頼に大きく寄与してきます。

そもそもなぜ「ある事柄が、いかなるジャンルにおいても常に真であって、必ず確実に正解と成功に導いてほしかった」のか。
それは、そういう事柄は、非常に信頼に足るからです。これさえ守っていれば誤りも失敗もない、というものがあれば、それはこの上なく信頼に足る道具です。

「真理」理念は、人間社会においては、信頼に寄与します。
「自由」理念は、責任感を通じて、行為者や話者の信頼性に寄与するのです。
「真理」理念は、行為や話の内容の信頼性に寄与して来る、という違いはあります。
しかし、共にこれらはそれぞれの側面で信頼に効いてきます。それらがあれば、その人も、やること語られる話も、信頼に足る。約束に足る。社会生活は大いに円滑になる。

10.2.理性の虚構としての真理は、人間世界のために用いることができる

どうも人間世界にとって都合がよすぎる話をしているきらいはあります。
しかし、
「理念は虚構だが、人間世界には大いに寄与する」

という路線は、実はカント本人が後に『実践理性批判』「神」理念について
「善を成して、幸福になる、という天の配剤があると思えると、人間世界はたいへん住みよくなる。
もちろん実際には、そうであるとは全然限らない。
しかし、そう思っている人間世界と、そうは限らないとしか思えない人間世界とでは、住みよさはまるで違ってくる」

という形でやっていることなのでした。
カント的には、この路線は、むしろ大いにOKなのです。

11.真理論からすればカントはいんちきかも知れないが、逆にカント哲学(とあと論理学や数学と統計学と自然科学)から従来の真理論の正当性をこそ問われていると考えるべきではないか

「だから何やねん。カント本人が真理論において、自然科学との繋がりを放棄して、人間中心主義、社会の都合に帰着させた、いんちき野郎だって話にしか聞こえねーじゃねーか」

しかし、実は、カントの身になってみれば、当たり前の話なのです。
個々の事柄で真であることや、ある程度の範囲内の事柄が真であることは、数学でも自然科学でも保証されます。というか保証して来たことです。
ですが、「範囲とか関係なく真である何がしかがあってしかるべきだ」というのは、まずは人間の願望でしかない、ということは認めねばなりません。たかだか、そうだったらいいのにな、という話に尽きます。
なぜそれを現実世界の側に押し付けられると思い込んだ? ライン越えの要求をしてるんじゃあないよ。
要は、たかだか人間の願望による理念に基づく真理論と、そうではなく現実世界を探求する自然科学の繋がりを、放棄しろと言ってるんだよ。
同じ真の方向を向いていようが、領域は理性の架空の中か現実世界の中かで異なる。
そこで日和見して撞着させてるんじゃあないよ。そういのはいんちきなんだよ。
そういうことを、逆に我々の方が問われていると考えるべきではないでしょうか。
自然科学は自然科学でやればいいと思うのです。そこで、真理論が、甘い期待をしないようにしましょう。そういうことです。

ということで、そもそも「真理論自体が人間中心主義である」可能性自体を真剣に考えるべきところなのです。
その上で、真理論が、社会への道をも放棄するなら、じゃあその真理論はどこにも広がらない閉じた道であることを、甘んじて受けるしかないのではないでしょうか。

私は
「概ね真であることを、できるだけ極限まで真理に近づけると、信頼度がとても高まるし、そうした事柄を目指す人は、約束を結ぶに値する」
ということを、何の抵抗もなく肯定的に捉えています。
それを
「役に立ちはするだろうが、真理の追究という観点からは、逃げ」
と言うのは、別段構いませんが、
「いずれにせよ俺はそうするし、そこから得られるメリットはふつうにメチャクチャ大きいし、ガタガタ言われたくないと思うし、逆に俺はガタガタ言わないつもりだが…」
としか回答できないところです。

真理は現実世界のためであるというより、人間世界のためと考えた方が、おそらく実りは大きいのです。

そういうことを論じました。
私はその路線で行こうと思います。
そういうことで、宜しくお願いします。

(この話ここでおしまい)



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