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随筆(2020/4/11):「侍の本懐とはナメられたら殺す」を規範としてやるために、「好きなようにナメるし、自分は殺されない」をやってはならない

「侍の本懐とはナメられたら殺す」
という(『バンデット』の足利貞氏が)。

だが、少し立ち止まって考えて欲しい。
この時代の人、かなりスナック感覚で人をナメるし、ナメた相手が隙を見せたと判断したら、そのうちスナック感覚で殺すんですよ。
だからこそ足利貞氏も将来的な自衛のためにこういうことを言っているんだ。「ナメながら殺す」人に対しては、「ナメられたら殺す」と思い知らせて、二度と手出し出来ないようにしなければならない。そういう理屈だ。

***

で、ここからが問題なんですね。
じゃあ、そういう人が「人をナメる」の、筋が通らないこと甚だしい。
それ、自分が殺されそうになるの、かなり当たり前じゃないんですか。

「それでもいい。殺されようがナメてよい。好きなようにナメるし、自分は殺されない」?

バカなこと言ってんじゃねーぞ。
みんな好きにナメて、ナメられて、好きに殺し、殺されるの、何一つ抑止力として成立していない。素通しじゃねーか。そんなもんお話にならねーんだよ。

***

これのバリエーションとして、強いやつが仕切った上で、「好きなようにナメる」し、「自分は殺されない」と言い出したら、どうなるか。

一見、誰も手出し出来ないと思うじゃないですか。
だが、そうじゃないんですよ。

「そいつの仕切りなんか、どんな正当性やメリットがあろうとも、到底受け入れがたい」
と思って、暗殺して本懐を果たして死ぬ人、当然避けがたく出て来る。これを防ぎきれるか? 本当に?
というか、暗殺未遂が明るみに出たら、その時点でもう下剋上好きな人たちはメチャクチャ破壊工作して来るぞ?
強者が今まで大事に構築してきた仕切りの支配体制、こんなことで破壊工作を食らってしまう。
言うことを聞く人、ものすごく減っていく。うまみ、まるでなくなる。
じゃあ、そもそも暗殺未遂すらされない方がいい。
そのためには、そもそもイキった真似をするな。という話になってしまう。

「自分は殺されない」と言い出して「好きなようにナメる」強いやつ、抑止力を自ら破壊している。
そんな風にリスクを弄ぶ強者が、抑止力をどうこう語るの、筋が通らない。実際には、そんな抑止力、どうだっていいから、自分の自由のために他人をナメたいのだろう。そこはそういうもんだ。
だが、そんな強者、何ら抑止力ではない。少なくとも、この手の強者の、この件についての信頼は、ゼロで考えるべきだ。
何を言っても信じるな。言ってる本人からして、自分の言っていることを、何一つ信じてはいないのだから。下手したら自分の言っていることを理解すらしていないだろう。威勢のいいことを並べているだけなら、その責任なんか負わなくていいもんな。
そんなのを、他人が信じるの、愚の骨頂だ。
そんなのと付き合わない方がいいし、そんなのを真に受けない方がいいよ。

***

そんな訳で、
「ナメられたら殺す」
が何ら抑止力ではないのだとしたら、そんなものに規範としての重みは無きに等しい。ただの寝言だろう。
そうではなく、規範として
「ナメられたら殺す」
をやるというのなら、
「それでもいい。殺されようがナメてよい。好きなようにナメるし、自分は殺されない」
はやってはならん道理だ。自分が強かろうが、そうでなかろうが。

他人をついついスナック感覚でナメないようにしましょう。

「それをやめると自由ではなくなるような気がする」?
そういう感覚、出来るだけ早くやめた方がいいですよ。
他人を不自由にさせることで成り立つ自由の感覚、ある。
だが、そんなものを、百人の強者たちは歓迎したとしても、万人が何で歓迎すると思っているんだ?
「弱者の言うことなどどうでもいい」と思うかも知れないが、じゃあ「お天道様に愧じない、大手振って歩ける立場」とか、そういうのはどんどん遠くなる。
それは世間に通用する正義ではない。お天道様ではない。
「大手を振って歩けない自由」に、いつか猛烈に腹が立ってしょうがなくなる日が来る。というか、人によっては、既に、腹が立っているでしょう。そういうことです。


ここは本当に大事な話です。頑張りましょう。

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