誹謗中傷との向き合い方
新型コロナウイルスの流行下で行われた東京オリンピックで
感染拡大状況や選手たちの活躍が報道される一方で話題になった
SNSなどを通じての誹謗中傷。
2020/05/23、22歳の若さで亡くなられた木村花さんの話題は記憶に新しく
この数年、誹謗中傷の話題はより大きな注目を集めています。
自発的な情報発信だけでなく、その発信へのコメントなど、
SNSの普及で誰もが自らの意見を発信できるようになったこの世の中で、
誹謗中傷とどのように向き合うべきなのか、個人的な所感を綴ります。
誹謗中傷とアンチ
さて、はじめに「誹謗中傷とはなにか?」を考えてみます。
参考までに、よく混同しそうな「アンチ」も含め
辞典にはどう書いてあるか調べましょう。
☆それぞれWikipediaより冒頭抜粋
【誹謗中傷】
誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)は、根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つける行為である
【アンチ】
特定の個人・団体・企業・製品などを嫌う者、反発する者を指す和製英語
一般的にどちらも良いイメージはない言葉ですが、大きな違いは
対極にあるあるものを指しているか否かであったり、
全くの無根拠なのか否かというものが挙げられるでしょう。
野球好きとしては「アンチ巨人」などという言葉をよく耳にしますが、
スター選手を他球団から引き抜いていく傾向が強かったことなどから
年俸を払う余裕がありお金で勝つ球団という見方ができてしまうところに
曲がりなりにも根拠があります。
(個人的には最近はそうでもないと思ってたけど、
丸の移籍のときはさすがにまたかよって思った。)
対して、誹謗中傷は対極にあるものか否かを問わず、
内容も全く根拠のないものになってきます。
比較的無作為に矛先が向くというのも誹謗中傷の特徴です。
個人的にも以前運営していたYouTubeのチャンネルで
誹謗中傷を受けたことがあります。
すでにその方のアカウントは削除されているようですので
詳しい内容は覚えていませんが、使われていたワードを切り取ると
「低能」「低学歴」そんなやつは「YouTubeやめちまえ」です。
誹謗中傷という意識はないのか、解っててやってるのか
どちらにせよ低能低学歴のライン引きもなく根拠もいわないあたり、
論理的な議論には長けない印象でしたが、それは別の話。
コメントするときに気をつけたいこと
ではどういう基準を持ってコメントすると良いのかを考えてみます。
よく言われるのは「コメントを受けた人やそれを見る人が不快にならぬ」
・・・という指標だと思います。
当たり前といえば当たり前のことなんですけど、この指標の示し方は
個人的にはあまり賛同しません。
根本的に誰から見ても善で誰から見ても悪というものは
そんなにたくさんあるものではないと思っているので、
もし本当に実現してしまえば「表現の自由」など皆無だと思うからです。
個人的に重要だと考えるのは「そのコメントが自分の考えである」と
明記しておくことです。
無論、客観的な事実についてはそのまま伝えるのが良いと思いますが、
その場合も、根拠となる文献などを添えてあげることです。
根拠がないものになってくると、わかりやすい傾向としては
コメントを受ける側の人格否定につながるということがあると思います。
ちょっとわかりにくいなと感じるようでしたら、人格否定をしないことを
目安にしてみてもいいでしょう。
それだけで少なくとも「死ね」とか言わなくなるでしょう。
(そもそも死ねとまで言い始めると、はたから見れば
ただの小学生の喧嘩にしか見えなくて恥ずかしいと思うのですが。)
コメントを受ける側の心構え
こちらはいろいろな対処方法があると思います。
そもそもコメントを受け付けないなどの設定をするのも方法です。
誹謗中傷を受ける前にブロックするという意味では一番有効です。
(外部で誹謗中傷を受ける可能性はあるので絶対ではないですが。)
対策と呼べる対策はコメントを受け付けないことくらいのもので、
それ以上の対策と言えるのは、来たときにどう受け止めるかと
心構えをしておくことです。
まず、何かを自発的に発信するコンテンツを作りたいという方は
「自分のコンテンツは完璧で思いやりがあって非難されることなどない」と
絶対に思い込まないことです。
前述の通り、誹謗中傷というものは根拠もなく攻撃するものです。
たとえどのような素晴らしいコンテンツを作っても
誹謗中傷は少なからず絶対にきます。
そのコンテンツに触れる方が多ければ多いほど
その可能性はどんどんと上がります。
そしてありとあらゆる人のためになるコンテンツを作ろうと意気込む人ほど
このような誹謗中傷に傷つきやすいかもしれません。 いやぁ、マジ卍。
一番良い心構えとしては「称賛と非難、その合計値が人気度である」と
予め考えておくことだと思います。
どれほど自信があるコンテンツでも、自分の作るコンテンツは
誰かにとって宝であり、他の誰かにとってはゴミである。
むしろそういうものであるべきだと心に留めて
コンテンツを運営してみるとよいのではないかと思います。
ゴミだと思った人からはアンチも誹謗中傷も来るかもしれないですから
まぁ来るべくして来たなぁと考えることもできますし、
完璧なコンテンツ作りにこだわらないという意味では
いろいろなことに挑戦してみることでプラスになるでしょう。
いずれにせよ、スキの反対は無関心です。
アンチも誹謗中傷も形はどうあれ無関心とは違うので、
そういうのも含めて人気ってことなんだと思います。
低評価バッチコイ💪ど~ん
(そういえばnoteにはスキ機能しかないので、嫌いな人もスキしてね)
表現の自由とは何なのか
さて、誹謗中傷関連の事件などが起こると一緒に話題になりやすいのは
「表現の自由」の話題です。
ネット上の書き込みを監視するような動きが加速すれば、
まっとうなコメントをしている人に対しての表現の自由の搾取に
繋がりかねないという意見も多いのです。
では、この表現の自由とは何なのか。
これに立ち返ってみましょう。
☆Wikipediaから抜粋
【表現の自由】
すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利[1]。外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現したり、発表する自由[2]。個人におけるそうした自由だけでなく、報道・出版・放送・映画の(組織による)自由などを含む[2]。 他はこれを侵害する事は許されない。
検閲や規制をされることなく・・・いやぁ、習近平に教えてあげたい。
もともとは思想などを持っていてもそれを表現する場がなければ
その思想を持っている意味をなさないということから唱えられたもので
世界人権宣言などに盛り込まれているものです。
真理と虚偽の理論をこの表現の自由によってぶつけ合うことで
真理を導きだすという側面もあります。
集会の自由や言論の自由という言葉もありますが、
表現の自由はそれら全てをひっくるめての自由だと思っていいでしょう。
さて、自由と言われると「好き勝手に」という意味合いを連想しますが、
実際に意味としては少し違うものであると個人的には考えています。
自由とは「自ら」を「由(よし)とする」と書きます。
この「由」とは「いわれ・由緒」や「手段・方法」を指す言葉です。
自らをいわれ・手段とする。
いわば「自らの決断による表現」と個人的には解釈しています。
意味合いとして大きくは変わらないのかもしれませんが、
その表現は自らの表現にふさわしいものなのか否かを考えてましょう。
ネットでの書き込みは誰が書き込んでいるのかはわからないという
匿名性のあるものです。
匿名性の確保自体はプライバシー保護の観点で守られるべきものではある。
ではその書き込みが、その人と面と向かい自らの言葉として伝えるとしたら
どうなるのか想像してください。
それを意識するだけでも誹謗中傷のコメントを投げかけることは
なくなるのではないかと個人的には思っています。
不適切動画をアップしちゃうような事件も起きなくなるかと。
ただ、いずれにせよ表現の自由は人々が生きる上で重要な要素の一つです。
それを脅かすような規制はするべきではないと個人的に考えます。
まとめ
さて、以上をまとめてみましょう。
①確固たる根拠や文献があるならばそれを示して事実を表現する。
②確固たる根拠や文献がないなら自分の意見や所感として表現する。
③コメントブロックをしない限り誹謗中傷コメントはかならず来る。
その場合は賛否両論込みで自分の人気だと考えて受け止める。
④相手と直接相対して自らの思想として表現できるものか考える。
もっと様々な向き合い方があるのかもしれませんが、これが個人的な
誹謗中傷、ひいてはあらゆるコメントへの接し方ということです。
今回は、正しい答えがあるわけでは無いものをテーマとしています。
よって今回記したものは、ある一個人の人間の思想のようなものです。
もし、違う考えをする方がいればそれも尊重したいと思う立場ですが、
だからといって非難されるものでもないだろう、と思っています。
それが表現の自由というものだと思っています。