越境16 残雪 その3
眠っているかれのうなじはかすかに茶色がかった髪の毛がきれいにおおっているので見えない。ふわふわとした柔らかそうな髪の毛で、黒くて重たい自分のものとは違うなと残雪は思った。そういえば初めて会ったときは油か何かを塗っていたようでもう少し艶があった気がする。後ろもくしゃっとしたみたいになっていて、だから、日本人じゃないかなと思ったんだ。ここにはそんなものはないから、湯で洗われて乾かしたままぱさぱさとしている。髪を切らなくてもいいのはここの生活の少ない利点のうちの一つだった。伸びたな、目にかかるなと思った翌日には、朝に目を覚ますと整えられている。
残雪は行彦を見ていた、かれは机に突っ伏して眠っている。夜は――、暫定的にでもそれを夜と言うのなら寝ているはずだろうと思って、いや、俺以外の人間が夜に何をしているのかなんて、知らないなと思い直した。何だってそうだ。見えないところで何が行われているのか俺は知らない。介入できるのはお呼びがかかったときだけで。
教室は相変わらず静かで、今日は自分と、この眠っている日本人と、珍しくバキリと、相変わらずおとなしく座っているあいつ。イワンは具合が悪いらしく、数日の間部屋から出てきてはいなかった。随分人が少なくなったなと思う。記憶が確かならこんなに教室に人が居ないのは数年ぶりくらいだろう。シンが失敗して燃やされて、マイケルもそれに巻き込まれたようで。
何をするでもなく残雪は机に頬杖を着き、ぼんやりと考える。このところ失敗続きだ。完全変態したものは「蝶」がラストではないだろうか。ジョルジュも消えてしまった、 シブシソは半分以上進まなくて苦痛を訴えたのでイワンが殺した。炭になるまで焼かれれば再生はないと気がついたのはいつだっただろうか。
イワンが死んだら俺達はどうするのだろうか。あいつもそろそろだろう。あの杖や手袋の下は多分なにかもう異形のものになっているに違いないのだ。俺のこの頭のように。俺達は順番待ちをしていて、はい次どうぞと呼ばれるのを待っている。早くして、と俺は思う。ここから逃がして。どこへなりとも連れて行って。
そう、イワンだ。彼が死んだら俺達を火葬することはできなくなる。ここには火種がないし、燃やすためのものもない。ここのノートもタオルもイワンの火では燃えなかった。何だってそうだ。ここには俺達が心の底から知っているものは何もない。他のやつらだって、もしかしてこの机なんかと同じで人間に見せかけた何かで俺には到底わからない目的のために動いているのかもしれない。
そんなことを考えていると後ろの席に座っていたバキリの手元でなにかしゃらしゃら音が鳴っていることに気がつく。振り返ってみると手元にあるのは針金でできたパズルのようだった。 昔誰かが中国人ならこういうの得意だろう、と持ってきたものだ。すっかり忘れていた。解けたかどうかも思い出せないし、なぜ彼が持っているのかも解らなかった。
「知恵の輪っていうらしいよ、ばかみたい。なにが知恵だかも解ってないんだね」
珍しく俺にも解るテレパスだ。
「頭を使わないと解けないからだろう」
「そんなことを知恵って言うのがね」
バキリは手を伸ばして、こちらに向けた。人種に由来する肌の色に、爪だけがきれいなピンク色をしていて指先にそのパズルが摘まれている。ふと、ぶら下がっていた部分が抜けたように落ちた。さっきまでつながっていたはずのピースは床に微かな、きれいな音を立てて転がる。
「ぼくがやってあげるよ」
「何をだ」
「火葬」
こうやって、やってやるよ。と、こちらに指を揃えて向けられた手のひらは明るい色をしている。人差し指にさっきのパズルの輪が引っかかって光っていた。
「そうか、頼むよ」
どうしてか、怒る気にもなれずに残雪は言った。こいつなら容赦なくやるだろうと思った、それでいいと。そんな話なのになぜか妙に穏やかな感じだった。あいつは相変わらず黙ったまま俯いている。行彦は起きる気配はなかった。その黒と言うには薄い色の髪から、微かに花のにおいがした気がした。
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リレー小説です。次回はこちら。
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