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木漏れ日、午睡、夢を見ていた

◆3月20日~24日◆
東京高円寺の自由帳ギャラリーにて 11作家による企画展
リカシツトショシツズコウシツ 4
にて、書籍版を販売します。
こちらは全文無料の試読ページです。

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 どんな人間にも、すこしは輝ける場面があるという。ぼくはいまだにそんな場を得たことはないが。ぼくはずっと、ただの端役だった。主役たちのことは知っている。しかし彼らがどんな人間だったのか、語るのは難しい。ただぼくはある一瞬、彼らといて、そのやり方や、思考に少しだけ触れただけだ。今、彼らが何をしているのかすら知らない。ぼくはまだ廊下にいて、光がさすほうをただ見ている。
 あの鮮やかな四月に、なんという名をつけよう。青春と言うにはあまりに憂いのない日々だった。葉を透かして差し込む陽の光、緑から金色へのグラデーション。水の分子の一つ一つに差し込んだそれは、吸収と反射を繰り返し、小さな粒になって目に飛び込んでくるのだ。吹き込む風は木々の鮮烈な香りと、遠くの海から寄せてくる潮の匂いをかすかにまとっている。知らずに吸っていたもっとも美しい空気のこと。
 学校の裏の、そのまま山へつながっていく小さな広場に植えられていた庭漆の古木、ぼくはその木の下から空を見上げるのが好きだった。葉の色がやわらかく透けて輝くのを飽きずに眺めていたことを覚えている。そこにはよくカドも来ていた。彼はそのころまだ背も小さくて、学校にもなじめていなかったので、夕方の鐘が鳴ってもよくそのままそこにいて、眠っていることが多かった。陽が翳る前に大体迎えに来るのは氷柱で、彼はいつも同じような、信じられないという軽蔑の表情を浮かべながら、眠っているその白いシャツで覆われた腹を固い革靴で軽く蹴る。すると大げさに痛がりながらカドが起きる。帰ってこないほうが悪いと言うのもいつものことで、少しやりすぎではあるとは思うが、氷柱の苛立ちをかすかに含んだ声を聴くのが、ぼくは案外好きだった。世界に拒まれているということを自覚している人間の特有の口調。
 カドが氷柱と、そして彼ととくに仲の良かった文緒に、薄く憧れのような感情を持っていることはぼくにでも分かった。傍目には露骨なほど明らかで、向けられた者たち、そしてその気持ちを持っている本人だけが気が付いていない、ありがちな物。ぼくはそれについて、つまらないことだと思っていた。こんなに素晴らしい空間に、ありふれた何かが混じっているということは、残念なことだ。
 生徒たちの暮らしはたしかに素敵なものだった。年齢すら大きな問題ではなく、得意な者が、希望する人間に教える。緩やかな統率の中で、彼らは学びを得た。身体と心の扱い方、芸術やこの世の理に関係する物事について。
 その中でもやはり氷柱と文緒は特別だった。氷柱はどんなことでもよくできたが、その中でも数学と理科、とくに物理のことなど大変よく知っていて、いかにもみなのリーダーといった感じだった。年齢もぼくたちのなかでは上のほうで、横顔など、たまに見るとぎょっとするほど大人びているのだ。文緒のほうは読んでいる本の数でいえば頭一つ飛びぬけていただろう。どこか遠い国の警句や詩もよく知っていて、言葉の学びが必要になるとほとんどみな、彼を頼っていた。彼は元来、体が弱くてよく熱を出して倒れるようなところがあり、そのせいで他の少年たちの流行が外でのスポーツや散策になったとしても、一人、本を読んでいることが多かった。
 二人は年も二歳ほど離れていたし、仲がいいのはすこし不思議なことに思えたが、文緒は事あるごとに氷柱の話がとても好きだと言っていた。物理や、遠くの星の話や、花弁のように巡る数の列や、春になると自然に芽生える植物の仕組みのことなど、少し聞いてみただけでは自分には関係のない遠い世界のこととしか思えないが、氷柱がゆっくりとそれを自分に向けて話してくれた時、たくさんの詩がその中で歌われていることに気が付いたと言う。ぼく自身は、結局氷柱の言葉の中にある詩や歌のことは理解できなかったけれど。
 彼らが二人でいるところは本当によく見かけて、図書室で一つの机に向き合って、とても難しそうな本などを読んでいることなどが多かった。分厚いそれは、あまり触る人間もいないからか開いたところなど驚くほど白く見えて、置かれたその形のまま羽ばたいていきそうな、いつも教室で開かれていた本たちとはなにか根本的に違っている。そこに、氷柱の節の目立つ指が滑り、その部分を文緒が読み上げ、なにか気になる語句があったのか、青色のペンでノートに引き写していた。ペンが紙をひっかく音すら聞こえそうな、密な空気。どちらともなく上げるひそやかな笑い声。そうしているところに、誰が入り込めるだろうかというほどだった。実際は彼らに質問のある者などがよく訪ねてきていたが。
 夏の午後の光がかれらの影を逆光のなかに浮き立たせている。聞こえてきた耳慣れない言葉は、知らない土地の、見知らぬ花の名であるかもしれないし、ここからは見えない星の名前かもしれない。それとも、彼ら、二人のなかにだけある言葉か。
 校庭から誰かのはしゃぐ声。足音。開かれたガラス窓から吹き込む、色などないのに暖かく草木の匂いがする、いのちの気配でいっぱいの風で、生成りのカーテンが揺れている。開かれていたままの本の、ページがめくれてぱらぱらと進んでしまう。鳥が、羽ばたいている。整えられた爪のある指先がそれをおさえる。ほっそりとしているが柔らかな、優しい形の文緒の手。ぐっと力を入れたところだけがかすかに赤くて、爪などはちいさな野草の花弁のように見えた。
 ぼくはそれを想像した。見たのは逆光の中にいる彼らだけだったから。

 学校にはいくつか、特別教室と呼ばれている部屋があって、理科室や図工室、くだんの図書室などがそう呼ばれていた。もちろん普通の教室も三つほどあり、私室や食堂などがある住居棟も備わっている。全体に古く小さな建物で、ざっと六十年か七十年前からあるらしいという話だった。途中で大規模な修繕が数回行われているということだったが、やはりいろいろなところに無理が生じていて、住居棟は隙間風が吹くし、雨漏りなども数回あった。簡素な備え付けの書き物机に雨の染みがついている部屋などもいくらかあり、好きな色のペンキを取り寄せて塗ることも許されていた。椅子まで揃いの色にしたり、天板を水色に、脚だけを黄色にしたりなど、工夫を凝らしている部屋も多かった。特に文緒の部屋は、何代か前の人間が、椅子やベッドも含めて黒く塗っていて、それが独特の艶のない美しい墨色で、うらやむ人間も多かった。彼が卒業した後は、きっと部屋の取り合いになっただろう。
 学校の教室たちはどこの部屋も木の床に油の染みこんだような匂いがして、住居棟とはまた違う空間だった。理科室はすこし薬っぽい香りが混じっていて、苦手とする生徒も何人かいたが氷柱がよく希望者を集めて講義をしていたので、なんだかんだでみな、それなりに使っている部屋だった。さらに図工室は独特で、画材のせいだとカドは言っていたが、その油の名前はもう忘れてしまった。彼は、絵を描く少年だった。だが初めは彼自身がカンバスに向かっていたわけではない。美術部の誰かに頼まれて、その題の絵画のモデルになっていたのだった。今でも彼のことを考えようとすると、放課後の図工室で、筆を持って何か思案するような顔をして静止しているその姿や、そうして描かれた絵のことを思い出す。小柄なその背をきれいに伸ばして、その割にすこし大きな、骨ばった手に筆を持っているかたちが美しかった。絵はしばらく図工室に飾られていたが、どこかのコンクールに出展され、なにか賞を取ったらしく、それきり戻ってこなかった。
 絵を描くわけではないカドがなぜ図工室に入り浸っていたかというと、そのモデルの件もあるのだが、もともとは彼が器用で、ちょっとした道具なら自分で簡単に作ることのできる少年だったからだ。
 特に、生徒たちの間ではたまに妙な遊びがはやることがあって、ぼくが知る限りでもいろいろな流行があり、仲間内だけで伝わるちょっとした動作や合言葉の手合い、カードや駒を使うゲーム、地球独楽、ディアボロのようなどこから持ち込まれたかも分からない玩具などがぱっとはやって、そして生活に溶け込むなり、みな飽きてしまうなり、一部の趣味として生き残るなりしていたのだが、その中でも道具を使うような場合は模造品をカドが図工室で簡単に作って、他の人間が持っている食券だとかガラス玉だとか、絵のきれいな葉書だとか、そういったなんらかの価値のありそうな物品と引き換えて渡したり、頼まれて設計から引き受けたりといったことをしていたのだった。それだけには留まらず、端材を使って発条仕掛けで小さな脚を回しながら走る不思議な生き物のような模型を作ってみせたり、手洗い場の石鹸を彫って一本の鎖にしてしまったこともあった。最初はあまり居場所が無さそうな顔をしていた彼も、そんなことを続けるうちに結構な人気者になっていた。
 おおむねその創作熱は称賛を浴びていたが、石鹸の件では氷柱は無駄遣いだと怒って、そんなにいろいろ何かを作りたいのなら美術部になれと言っていた。しかしカド自身は、美術部などになったら意味のある物を作らなければいけない気がするから嫌だと言って聞かず、ぼくは、カドがきちんと学んで作る意味のある物とやらががどんなものになるのか正直気になったが、本人がやりたくないことを無理にさせることはできないだろうと様子を見ていた。
 その冬からはやっていた簡易版のウィジャボードの流行は度を越していて、一時はほとんどすべての生徒たちがあやしい交霊術に手を出していた。ウィジャボードというのは、普通は少し大きめの紙切れとなにか固くて小さい物のセットで、紙のほうには文字や数字が書かれており、ルールさえ守ればノートの切れ端でもいいということだったが、絵のうまい連中が固い紙に美しく清書をしたり、板に小刀で彫りつけたりと、必要以上に趣向を凝らした物が多くあり、もう一つのほうも河原で拾ってきた平たく美しい石、異国のコイン、小さなガラスのタイルなどが使われていた。〝oui〟というのと〝ja〟というのが、どこかの言葉で「はい」と「いいえ」を指すのだというが、一際大きく妖しげな書体で恭しく書かれているそれはいかにも魔術的な雰囲気があり、それを囲んでいるところは確かに何かが起こりそうに思えた。
 扱い方は簡単で、二人以上、大体は三人か四人で机を取り囲み、その上に紙を広げ小石だかタイルだかを決まったところに置く、その上に全員の指を揃えて載せ、まず簡単な質問をする。大体決まってこう。
「誰かそこにいますか?」
 そうすると決まって、ouiのほうに勝手に小石が進んでいく。それから本当に尋ねたい事を聞くのが作法だ。周辺にいる幽霊や精霊が石を動かしているのだというが、氷柱などは筋肉の収縮の震えで少しでも動けば、あとは思い込みだと言って、自分でやろうとはしなかった。正直、ぼくもそう思っていた。本当に幽霊が小石を動かせるなら、全員で指を載せたりしなくても勝手に動いてもいいだろうと。
 子供だましの呪術はちょうど寒くなりだしたくらいからどこからともなく始まり、雪が降ってもなおはやっていた。ある日、カドが目を引くような美しい彫刻と、簡単な象嵌まで施したボードを図工室でこしらえてきて、それを使って術に興じるさまをよく目にしたし、その中に文緒がいることもままあることだった。理知的な氷柱は子供っぽい怪しい術の流行を苦く思っているらしかったが、文緒のほうはむしろ率先してそういったものに手を出すようなところがあった。
 氷柱は何か思うところがあったのか、ある日みなが教室にいる時を見計らって、資料まで携えてそのまじないの非を説き、そういったものはほどほどにするべきで、今のようにみだりに行うべきではないという説明をした。みなそこまで氷柱が嫌がっているとは知らなかったので、それほどまでに言うならということにはなったのだが、何のことはない、彼の目につかないところでやればいいというだけの話で、相変わらず校舎の隅や、私室のドアの内でたびたび儀式は行われていた。
 ぼくは多少意外だったのだが、文緒はそんなことになってもまだ執心で、おおむね三人でやるのがお約束だったウィジャボードのメンバーに見かけるたびに入っているのだった。何をそんなに尋ねたいことがあるのかと覗き込んでみても、ちょっとした気がかりや、誰が誰を好きだとか、嫌いだとか、失くした何かがどこにあるかとか、そんなことが大半で、しかも文緒自身の疑問ではなく、一緒にやっている他の生徒の謎かけに答えているのがほどんどだった。
 文緒の墨色の部屋ではそのおまじないの儀式が行われていることが増え、以前のように氷柱と共にいるところを見かけることは少し減った。彼はさらにずいぶんと体調を崩していたようで、外に出るのが本当に億劫な様子だったので、仕方がなかったのかもしれないが。
 氷柱はというと薄情にも特に気にするそぶりを見せずに、図書室ではなく理科室にいることが多くなった、彼が好む物理の専門書などはどちらかというとそちらのほうに多くあったし、図書室よりも狭いその部屋に普段からいる人間は少ない。大体放課後は一人でそこで本を読んでいたり、なにかの問題を解いているのを見かけた。もちろん、誰かが来て問題の解き方などを教えていることも多かったが。氷柱はあれでなかなかに面倒見がよく、新しい人間が来た時などは施設や使い方などをひととおり案内する役割は大体彼が引き受けていたし、なにかトラブルが起きたときもみな彼のもとに自然に集まっていた。苛立ちを隠そうとしないところは欠点ではあったが、それでもみな、氷柱のことを憎くは思っていなかったと思う。カドですら、彼に薄く憧れを持っていることはなんとなく分かった。氷柱は自分の目に見えるすべてを、そこから得られる物事しっかりと信じている。川の小石が丸くなることや、風がどうやって吹くのか、不思議に思ったことを調べ、そして誰かから尋ねられた時に答える準備をしているのだ。彼は、すべてを理解できるとは思っていないだろう、自分のことも分かってはいるから。だけど、見える物から目を背けることはしなかった。それが、この世の不思議でも、自分ではない誰かでも。
 そんな彼が居座る理科室は他の教室と違うところがいくつかあり、暗室も兼ねているので黒いカーテンがかかっていて、また大きな戸棚が設えられており、なんとなく圧迫感のある部屋で、好き好んで立ち入る人間は少なかった。さらに、中のドアからしか入れない小さな部屋が付いていて、大きな方の部屋にある物よりも一回り小さいガラス戸のある棚がいくつか並んでいた。たくさんのガラス瓶は淡く色づきながらも透き通った液で満たされており、奇妙に白くなった生物の断片が沈められていた。腹の開かれた蛙や蛇などから、皮を剥かれた鳥。草木。さらには巨大な目玉らしき物の模型、プロペラ。ボールをはぎ合わせたような分子模型はいくつかの形が額に収められている。手のひらもありそうなほどの濁った水晶の横には、ほこりをかぶっているが鮮やかな硫黄の塊。箱に入ったままのみょうばんの結晶。海に繋がる河の地質の模型。図書館のものよりも、古く重たげな物理や生物、宇宙に関する本や、百科事典。
 小部屋の奥にはいつからあるのか分からない皮張りのソファがあって、氷柱はそこで静かに本を読んでいるのがお決まりだった。寒くなりだした頃だったので、魔法瓶に紅茶を入れて用意し、深緑のブランケットをどこからか持ってきて、随分居心地がよさそうだった。小部屋には暖房器具はなかったし、窓もそのソファのところに換気用の細長いものがひとつあるだけだったから、寒いと思うのだが、名前のせいだろうか、彼は平気そうな顔をして、大体の時間をそこで過ごしていた。
 
 生徒たちはいつも自分がしたいように学び、生活していたが、漠然としたルールはもちろんいくつもあって、それはなんとなく決まったり、もともと学校にいた者が新しく入ってきた人間に伝えて、長い時間が経った物などがあった。
 いつから行われているか、ぼくにももう分からないことはたくさんあって、そのうちの一つが毎年、一番寒くなった頃にやる絵当ての試験だった。それは二人一組になって、片側が丸や星などの簡単な図形や文字を図案化した柄のカードを伏せて置き、もう片側がめくらずにその柄を答えていくというもので、みな、十枚くらいならば簡単に正解するが、百枚を超すとなかなかに難しい。文緒はここに入ってきたときからとても成績が良くて、大体一番になっていた。成績の良かった者はその後封筒が届いて、それにはいくつかの質問や、地図などが入っているそうだ。それに答えたり、指示通り丸をつけたりして、学校のはずれにあるポストに入れておくのだという。
 その年も文緒と、カドが選ばれたと聞いた。氷柱は澄ましていたのでどちらかは分からない。試験の結果は、原則ペアになった二人にしか分からないからだ。そう思うとなぜ封筒が届くのかは不思議だったが。そしてさらに奇妙なことに、なぜだか生徒たち全員がその成績や封筒に関しては、薄ぼんやりとだが知っているのだった。誰かから聞くなどの心当たりもなく。そのことについては、考えてみれば確かに奇妙なことだと、みな一度は言うが、相手が例の幽霊などといったあやふやな何かでもなく、自分と特に背格好も変わらない人間たちであるし、実感として、確かに知っているので徐々に気にしなくなるのがお決まりではあった。
 初めてこの学校にやってきたとき、まだ幼かった文緒は絵当てで千枚をこえる数をすべて当てたという、本当か嘘か分からない噂も、なんとなくだが、たぶん全員知っていた。絵当て試験の枚数に関してはみな自ら喋ることはなく、なんとはなしにひそひそと、人の枚数の推測だけが、手洗い場や、校舎の隅で交わされているのだった。そしてそのなかで口さがない連中にはお決まりの言葉があって、絵当ては不意にできなくなるという、その噂はまことしやかにささやかれていた。
 数年に一回、ひっそりと行われる「卒業」も要するにそういった力か、才能がなくなったからであるというのが彼らの主張であった。卒業、という語が適切なのかぼくには分からないが、昨日までいたはずの人間が不意に学校からいなくなっていることが偶にあって、そう呼ばれていた。噂では、山の下に広がる町や、さらにその外のどこかに行ったというが、定かではなかった。町はたしかに夜などは光ってきれいだけれど、ぼくにはこの学校よりいいところがあるとは到底思えなかった。
 学校は美しいところだった。静かな木々のなかに隠されるようにひっそりとある門扉は、いかめしい鉄の扉や鋭い棘のようなものはなく、ただ低い石積みの塀が切れたような形をしていて、ただ生徒たちは用事もないのでそんなところにはあまり近づかない。せいぜい例のポストが近くにひっそりとあるので、提出に行くときだけだろう。門からは緩く登っていく土の道が続き、その両端にはさまざまな木々や草たちが生えていて春や夏には豊かな葉を競わせるように茂らせ、秋には食べられる実をつけていた。
 少しだけ歩くと学校が見えてくる。白く美しい建物は、かなり古いらしいが一見しただけでは分からない。平屋の、なだらかな黒色の三角の屋根を、かすかに褪せたような白の細い板たちが並ぶ壁が支えている。そこかしこに大きなガラス窓があって、中の生成りのカーテンの色や、並ぶ古い机たちの様子が外からでもよく見えた。
 ひさしのある入り口を抜けると長く続く廊下があり、三つの教室と、特別教室たち、さらにその奥には渡り廊下でつながった住居棟があって、食堂と私室。校庭では活発な生徒たちが大体数人から、十人かそこらくらいの数、いろいろな遊びや競技などをしている。静かな連中はそれぞれ気に入りの場所で本を読んだりしていた。食堂も、分厚い天板の、細長いテーブルが並べられていて、生徒たちの背にふさわしい椅子が置かれている。天井が高い部屋で、一際大きな窓がその近くまではめられているので、冬でも明るい良い場所だった。続きの調理室では料理好きの者たちがなんだかんだ作っていて、生徒たちは好きな時間に食事やお茶をしたり、しなかったりする。
 住居棟では、みな一人ずつ狭い部屋を割り当てられており、そこをこえると庭漆のある小さな広場があって、裏庭に続いている。裏庭からは細い小川がぐるりと学校を迂回するように流れていて、夏でも干上がらずに冷たい水をたたえていた。この水源がどこにあるのかは誰も知らない。冒険好きの連中が長い年月のうちに何人も山に入り、途中、滝のようになっていたり、すこし広がっているところもあるなど、魅力的な場所はいくつか共有されていたが、始まりは見つけることができなかったという。そういえば山の向こうまで行ったという話も聞かない。
 冬の庭漆の木は、葉が落ちて実が枯れて、それが白くうなだれ、遠目にはぽそぽそと花が咲いているように見える。昔、まだ氷柱が幼く今ほどみなから頼られていなかったころ、それを花と見間違えてこんな時期に咲くのはおかしいと言って木に登ってしまったことを思い出す。大きな木なので下から見ただけでは確かに分からなかったのだが、みなそういうものだと思っていたので、まさか登ってまで確認する者がいるなどと思わず驚いた。文緒がまだここに来て一年も経っていなかったころだ。氷柱は一見、冷静でそんなことをしそうにないので、彼もかなり衝撃を受けていたようだ。氷柱の、気になることがあると、少しだけだけど見境がなくなるところはそのころから変わらない。
 学校自体が山の中腹あたりにあるので、すこし高いところや、屋根などに登って見下ろせば下の町が見えた。木に登った氷柱は、多分とてもよく見えただろうと思う。深くえぐれた湾にこびりつくようにして小さな家々があり、湾岸から膨らんだ輪郭線のように、レールが一本だけ走っていた。町の中心に駅があって、そこから一本伸びる道がささやかなれどメインストリート。これをまっすぐ山に向かっていくと学校にたどり着くようになっている。海から吹き上げてくる風のせいか、遠目にも錆が浮いて、町中がすこし茶色がかったような、そういうところだ。白い壁と、緑の葉のそよぐこちらに比べると、あまり素敵なところには見えなかった。生徒たちの中でも、なんとなくではあるがその町に触れることは避けられていた。
 
 決まりやルールには、漠然と決まっていることが多くて、氷柱などはいくつかまとめてよく回覧をしたり、壁に貼り出したりしていたが、彼がそのようにする決まりに関してはほとんど固定になってしまっているものが多く、なんとはなしにぼんやり決まっているものや、文章にする間もなく決まりきってしまったものについては、特に誰も何も言わずにうまく回っていた。思えばああいったものはしっかり決めてしまうから、守っただの、破っただのという話になるので、生徒たちのようにそれぞれが違っているということや、自分たちが他人であるということをしっかり分かっていれば、大体はそれでいいのだ。氷柱でさえも、ただ自分がまとめたいからやっているということは、周りも彼自身も理解していたし、そのうえでカドも文緒も、もちろん他の生徒たちも自分がやりたいようにやって、それでも生活において致命的なことは起こらなかった。みな、自分たちのことも、この代り映えのない日常のことも、愛していたように思う。もちろん、ぼくもそうだ。
 あの錆の町に何があるのだろうかと、もちろん気にはなるし、人も住んではいるようだから、どのような暮らしをしているのかと見てみたい好奇心もあった。しかし、なんとはなしにあの町に下りたら、もうこの学校に戻れないのではないかという漠然とした不安もあった。そしてそれは全員に薄く、だが確かに共有されているようには思えた。
 ぼくはここの暮らしが好きだった。みな、好きな勉強をして、散歩をしては木の実を摘んだり、好きな本を読み、好きな物を作って暮らす。外のことは知らないが、これがきっと恵まれているということだということは分かっていた。芸術や文学、そしてこの世の理を学ぶことが、もしかしてあの絵当ての試験や、ぼくたちの知らない何かのためであっても。その時は、ずっと変わらない存在が確かにあると思っていた。

 
 試験が終わって少し経った頃、どんどん冷え込みが激しくなり、食堂のメニューは寒さからスープの類一辺倒、夏や秋に作っていた塩や砂糖漬けの保存食の瓶が次々と開けられていった。定期的に届けられる箱の食事の登場する頻度も増え、みな顔を合わせると寒いと言いあっている。事件というにはあまりにも些細なできごとが起こったのはそんな夜だった。すっかり話すことも少なくなっていた文緒の部屋に、使わせてほしい辞書があると氷柱が来訪した時に、運悪く彼らは例の交霊術ごっこで遊んでいたらしい。自分の目の前で行われていないならと半ば黙認していた氷柱もさすがに機嫌を損ねたらしく、あの眉根をひそめる不快さをあらわにした顔で部屋の中を一瞥するとぷいと出て行ってしまったということだ。
 それと関係があるのかは分からないが、文緒は以前から崩していた体調をより悪くしてしまって、部屋で寝込んでいることが多くなった。頻繁に行われていた交霊会もすっかり催されなくなり、ことは氷柱の思い通りとなったわけだ。
 文緒はもともと背は高いが華奢な体型で、それが寝込むようになってからより一層痩せ、なんだか縮んでしまったかのように見えた。いつの間にか髪の毛も肩に触れるくらいまで伸びて、どこか彼自身が幽霊じみて見えた。たまに図書室で本を読んでいても、静かにページを繰る指が、以前の彼とのものとは全然違う、節のあるように見えて、悲しかった。その様は随分痛々しく、よく彼と遊んでいた連中の中には、それを氷柱のせいだと言って聞かない者もいた。彼が自分と文緒を分けて考えることができずに、文緒の自由を制限したのが間違いだと。その側面もあるとは思う。自分と他人を分けて考えることは、なによりも大切なことだ。だが、友達の間違いを指摘するのは罪なのだろうか。確かに、文緒の魔術へののめり込みは、奇妙なほどではあった。しかもこんな、明らかに遊びのような稚拙なものに対して。ぼくは、なにが正しいのか分からなくなった。
 氷柱は文緒が寝込むことが多くなってから、責任を感じたのか何かは知らないがひときわよく面倒を見ていた。食べ物を彼の部屋に運んだり、着替えの手伝いなども率先してしているようだった。教室に来るときも二人で一緒にいることがまた増え、なんだか半年ほど前に戻ったようにすら思えた。短い間にいろいろなことが変わってしまった。よくあることのようにも、こんなことは初めて経験するようにも思える、奇妙な時間の経ち方だった。
 その日は文緒はまた部屋から出られなくなって、氷柱だけが教室にいた。すこし憔悴しているような雰囲気があった。目を伏せて、一人で。あの理科室にいないときの彼もなんだか小さく見える気がした。
 誰かが小声で、氷柱のせいだと言った。こんなことになって、文緒が具合を悪くして、なんだか寒いような気がするのは彼のせいだと。そんな声がかすかに聞こえた。口にした者もそれがたしかに言いがかりであることは分かっていただろう。だから、正々堂々と伝えないのだ。それでも声はさざ波のようにみなの心に広がっていった。ずいぶん早く落ちていく陽や重たく垂れこめた雲のせいで外はもう薄暗く、風が窓ガラスを揺らしていた。びゅう、という音が、生徒たちの間に吹き込むように鳴って、彼らはみな、うつむいてしまった。
 ドアが大きな音を立てて開いて、そこにいたのはカドだった。工具を入れた布袋を持っているので、図工室帰りだということが見て取れる。いつからか外にいたのか、頬がりんごのように赤い。大きな瞳がきらきらとして、変にきれいに見えた。
「誰のせいでもないよ、文緒の調子が悪いのは、今が冬だからだし。氷柱の言うことも分かるけれど、目に見えないものはあるから、もうちょっと優しくしてあげればいいのにって思うけれどね」
 妙にはっきりした、すこし芝居がかった声でカドは言った。氷柱はよせばいいのにすこしむっとしたらしく、ないものはない、と返した。
「そんなに言うなら、今ここで手を貸せよ」
 カドが机に置いたのは、いつか彼自身が作った木製のウィジャボードだった。机より二回りほど小さなそれは、今あらためて見ても知らない植物のような彫刻や、色の違う木がはめられて模様になっているところが美しく、文字たちも逐一飾り立てられ、改めて見ると素晴らしい工芸品だった。一個の美術作品として、あの妖しい交霊と関係のない、何かまったく違う物のように見える。
「こんなもの、あの絵当てとなにも変わらないんだ」
 そう言いながら、冷たく輝く銀色のプレートをその木の上に置いた。それはするどい三角の今まで見たことのない形だったので、金属までカドは加工ができるのかとぼくは内心驚いていた。彼はまっすぐに氷柱を正面から見て、そして言った。薄い唇が開くところが、まるでナイフでつけられた傷のようだ。そんなものは見たことがないのに。
「幽霊はいるよ、呼んでみるといい」
 そうして、机の向こうから手を伸ばし、氷柱を招いた。彼は恭しく自分より一回りほども大きい氷柱の手に触れ、金属片の上にそっと置く。まるで壊れ物に触るかのように優しい手つきだった。何かの、最後の仕上げを飾るみたいな。カドは手をぱっと離して、さあ、言ってみて、と促す。
 氷柱は口を開く。雲が切れたのかかすかに赤い光が、生徒たちをみな、均等に照らした。
「誰か、そこにいますか」
 静かな声。何も起こらないようだった。彼は一人でそのプレートに指を載せて、少し、困惑をしたようにまた眉をひそめていた。みな息をのんでそれを見つめている。永遠に近いほどの一瞬が過ぎ、プレートは静かに、彼の指を載せてゆっくりと、だが確実に、ouiと書かれたほうに進んでいくのだった。その意味は「はい」であるということを、ぼくも知っている。みな驚いて氷柱の顔をぱっと一様に見上げると、彼自身がもっとも困惑しているといった雰囲気で、確かに指先など、おさえたところがかすかに血の気が引いて白くなり、むしろ動かないように力を込めているのが見て取れる。プレートの先端は飾られたOの字のその丸の中心に突き刺さり、そして止まった。
 幽霊の出現を見たぼくたちは呆然となって、ただそこに立っていた。氷柱は何も言わなかった。カドだけがなにか平然とした顔をして、いるだろう、幽霊はいるんだ、とつぶやく。遠くから、鳥の鳴き声が、まるで悲鳴のように三度聴こえて、誰かが、もうこんなに暗いから食事にしよう、と言った。逆らう理由はなにもなかった全員がのろのろと、まるで葬列のように移動して食堂に行きテーブルに着いた。気が付いたときには氷柱はいなくて、でも誰もそれを指摘しない。みな、どうすればいいのか分からなかった。
 次の日から、氷柱はいつにもまして教室にいることが少なくなり、文緒の部屋か、一人の時には理科室の小部屋に相変わらずいるようだった。カドはなんだかみなの中心にいることが多くなって、頼まれごとを引き受けているところもしばしば目にした。庭漆の下で眠っていた彼とは、かすかにだが別人のようで、少し大人びた雰囲気も感じられる。まっすぐに背を伸ばして、自信がありそうで。カドをモデルにした絵が描かれたのはこのあたりだったかと思う。あの一件のあとまた息を吹き返したウィジャボードで描くべきものを尋ねたらカドの名を指したのだということだった。ぼくはなんだか不思議だった。目に見えない幽霊がそこにいてすべてを決めてくれることに、生徒たちは慣れ始めていた。

 封筒がやってきたのは一段と冷え込む日だった。それは、各個人の部屋の机に不意に現れるのだという。ぼくはもちろんそんなもの縁がなかったが、朝、氷柱が教室にやってきたときに持っていた、すこし大きい黒の包みは、明らかにそれだとすぐに分かった。彼は、それをカドに渡して、文緒はまだ回復していないので、こういったことはできないからお前がやれ、と言った。カドは肩をすくめて、それこそウィジャボードでも使えばいいのにね、などと軽口を叩いて受け取った。
 午後にカドが相変わらず図工室で作業をしているときに、珍しくやってきたのは文緒だった。
図工室は広い部屋でいろいろと工具が置かれていて、入るとかすかに油のにおいがする。いつもならば、絵を描く人間や、ただカドと話したい者など数人がいただろうが、その日は偶々か彼は一人だった。外からはこんなに寒い日だというのに、誰かが遊んでいるらしい歓声が聞こえる。部屋の中にこもり続けることに飽きた誰かが、戯れ半分で校庭に走っていったのに数人が付き合っているようだった。
「封筒を、氷柱が持って行ったから、きっと君のところに行ったと思って」
 文緒は、彼の部屋の家具のような黒いブランケットを肩から羽織っているところはいかにも病人だが、顔色はそんなに悪くないようだった。伸びた髪も後ろでゆるくまとめていて、似合っている。ただ、ずいぶん痩せたようで、ベルトで無理やり留めたズボンの腰のあたりが妙にだぶついていた。カドはそれを見て、苦く笑った。なんだか借りものみたいだと、冗談めかして言うと、文緒も少し笑って、格好が悪いだろう、と返した。カドは封筒をカバンから取り出しながら、代わりにやってもよかったよ、と小声で告げた。なにかすこし言いづらそうな、口の中で飴のように転がした声だった。
「でも、これがぼくの仕事だからね、君だってもらったのだろう」
「いや、こちらへは着ていないよ」
 それを聞くと、文緒は軽く目を開いて、そして困ったように笑った。そうか、と。話はそれで終わった。文緒は今日にでも答えてしまおう、とその封筒を持って部屋を出ていく。カドは、その後ろ姿を見送って、どこか羨むような、悲しむような、不思議な表情をした。午後の光が、部屋中に満ちて、部屋中に置かれた旋盤やミシン型ののこぎりなどの機械に、複雑な陰影がまとわりついて、大きな怪物たちがうずくまってカドのうしろにたくさんいるように見えて、それらみなも、他の人間たちも、カドのことが好きなのに、どうしてだか彼は本当に孤独なのだと思えた。
 逆に廊下に出た文緒はなんだか誇らしげに見えた。やるべきことが彼の顔を輝かせている。それがどこからやってきたかも、何のために届いたかも分からない封筒一通だとしても、彼が自ら取り返しに来て、そう決めたのだから。

 また時間が経って、少しずつ空気が緩んでいった。不意に寒さが戻る日ももちろんあったけれど、春が近づいてきているのだということを知っているので、待つことができるのだ。陽がだんだんと長くなり、空気の匂いが変わってくる。しんとしたあの金属めいたものから、ぬかるんだ土や、青臭い、かすかに獣の気配のある混ぜ物の多い香りへと。生徒たちも外へ出ることが多くなり、文緒も教室や図書館にいるところをよく見るようになった。彼は結局封筒を提出したようだった。氷柱はもちろんそれを知っていただろうが、誰かにそのことを言ったり、強く止めたようなそぶりは見えなかった。
 随分暖かい日で、図書館の窓は開け放たれていた。生成りの、理科室以外のどこの教室もそろいのカーテンが揺れている。座っている文緒の前に氷柱がやってきて珍しく微笑んで、まるでそれは夢の中の景色のようだった。
 おれは諦めがついたよと、氷柱が言った。
「何を諦めたの。幽霊の実在についてとか?」
「そうだね、そんなものもいるらしいね」
 そう氷柱が微笑んで言うと、おかしくてたまらないといったように文雄は笑い出した。何がおかしいのだと、氷柱が怪訝な顔をするとやっとその笑いを止めて、君が諦めたなんて、誰が止めても木にまで登った君が、ああ、おかしいな、と言って、どうしようもなくおもしろいと、また笑い出した。はじめは困惑していた氷柱もあまりにも楽しそうに笑う文緒につられたのか、そういえばそうだな、と言って笑った。
「幽霊、おれが幽霊を信じるとか、やっぱりおかしいね」
「そうだよ、氷柱は目に見えるものしか、信じなくていいよ」
 ぼくもね、信じているわけじゃないんだ。そう文緒は言った。ただ、いろいろなことが怖くて、自分でも、みんなでもないものに、聞いてみたいと思ったんだよ、と。
「それで、聞けたのか。その誰でもないものに、何か」
 文緒はゆっくりと頭を振った。何も分からなかったよ、と。風が、吹いて、開かれた本のページが捲られていく。時間が経つように、日が変わるように。なにか分かったら、教えてくれ。そう氷柱は言った。おれも、分かったら文緒に伝えに来るよ、と。
「氷柱が多分知らないこと、ひとつ思い出したよ」
「ぜひ教えてほしいな」
「きみが登ったあの木があるだろう」
「裏庭の庭漆か」
「そう、あの木について、氷柱は何か知っていることはある?」
「落葉する。羽に似た葉っぱがつく。枝についているほうだけのこぎりの歯みたいになっていて、それで種類が分かる。花が咲く。その後には実がついて種ができる。種も平たい羽がついていて、あれも花みたい。漆、という名前だけど実は漆じゃなくてほかの種類の木で、だからかぶれない、から登った。」
 ちゃんと確認してから登ったの、と言ってまた文緒は楽しそうにころころと笑った。そして、良かった、今から言うことは知らないみたいだよ、と続ける。
「あの木はね、別に名前があって、神様の木、天国の木っていうんだってさ」
 そう言われて、氷柱はなにか考えるような顔をして、廊下のほうを見た。壁の向こうにあるはずの木まで、見通すようにして、どうしてそんな名前なんだろう、とつぶやいた。
「いろいろ理由はあるらしいよ、天国まで届くくらい大きくなるから、とか」
「そうか、じゃああのまま登ったら天国まで行けたんだろうか」
「かもしれないね」
 そうか、ともう一度氷柱は言って、目を閉じた。まだ幼いころに見た、あの景色を思い出しているのだろうかと、そんなことを思わせるような表情だった。いつもの眉間の皺もなく、静かに。
 そのまま彼らは日暮れまでそこで、些細なことをゆっくりと話して過ごした。いつもの彼らの、いつもの時間が過ぎていく。少しだけ暖かくなったといっても夕方は案外早く来て、二人は一緒に夕食をとり、じゃあまた明日、とわかれた。普通に、いつも通りに。
 次の日に氷柱は早く起きてその庭漆のところへ向かった。ぼくもそっと付いて行った。朝の空気はまだぴんと張りつめていて、ひんやりとした風には静かな硬質な香りがまだ残っていた。木は何にも知らないような感じで、そこに生えていた。葉が落ち切った裸の状態のように見えたが、近づいてみるとそこかしこから小さな緑が噴き出しかけているのが分かる。彼は昔にやったように登るわけではなくそれを見ていた。そうしてふと手を伸ばし、何とか届くところからわかれた枝を一本折った。大して太くはない枝で、せいぜい親指の太さと同じくらいだ。そうして、それを持って理科室まで行き、片隅にぽいと放り出した。
 氷柱が木を折った次の日に、久しぶりに雨が降った。それは小降りになったり強くなったりを繰り返しながら、三日ほど続いた。久しぶりに青空が見えたときには、生徒たち総出で洗濯をして、自分たちのシャツなどを洗い、庭木の間に渡したロープに何かを祝うための旗のようにどんどんと吊っていった。誰かが髪を切りたいと言い出して、それはいつでも一番器用な人間の役割だったので、カドがはさみを持ち、適当な椅子が運ばれ、そこで一人切ってもらうと、他の人間たちも数人進み出て、しばらく髪を切る軽い音がしていた。氷柱も伸びているよ、と誰かが言い、促されるままに彼は椅子に座った。しっかりとした艶のある髪の毛が、小さな束になって地面にひらりと落ちていくのを見ていた。陽の光が当たってそれはきらきらと輝く。もうおおむねの人間が飽きてしまって、久しぶりの晴れ間を楽しむべく山に続く道に駆けて行ったり、校庭のほうへ回って、傍に残っていた数人もうたた寝をしていた。カドは黙ったまま髪を切っている。
「頼みたいことがあるんだ」
 氷柱は下を向いたままそういった。カドはしばらく黙っていたが、切りやすい角度でもあるのか指で軽く氷柱の頭を押さえつけて、いいけど、何かと交換だよ、と返した。
「何かって、なんだ」
「何かあるだろ、ガラス玉や、他のものでもいい」
 風が吹いて、髪の毛の細かいのが散っていく。きらきらと光る。準備ができたらいつでも、ぼくは図工室にいるよ、とカドは言った。優しい声音だった。
 その時は案外早く来たようだった。数日の後、夜中にカドの部屋を氷柱が訪れるのを見た。いつも理科室で使っている小さな魔法瓶と、折った庭漆の枝を携えて。カドの部屋は、存外物が少なくさっぱりとしていた。同じようなことを考えたらしい氷柱が、作った物がたくさんあるのかと思った、と言うと、作りかけは図工室に置いてあるし、完成品も全部人にあげてしまうよといたずらっぽく笑う。そもそも最近は、頼まれたものしか作っていないよと。
 家具の類も白木のままで、最小限のものしか置かれていなかった。二人でベッドの上に座って、カドはまず何を頼みたいのかと聞いた。
「この枝から、何か小さな物を作ってほしい。身につけられて人に見られず持ち運べるような」
 枝を受け取って、いろいろと検分したカドは少し怠そうに、これじゃなきゃだめなの、と指差して、まだ生木だから、乾燥させないと加工もできないし、何より細すぎて材にならない、などいろいろなことを言った。氷柱はこれがいい、これでないと嫌だ、と譲らないので、いくつかのことをさらにカドは言ったが、結局、輪切りにして少し磨いて金具をつけるくらいなら、という話に落ち着いた。簡単な加工だけど、約束通り報酬はもらうからねと言ったところに差し出されたのは例の魔法瓶で、静かに注がれた金色の液体はどう見ても普通の紅茶だった。ぺらぺらの蓋のカップに注がれたそれを勧められるままに飲んだカドは考え込むような顔をして、甘いね、と言った。いいにおいがするけれど、少し妙な味がする。
「ブランデーが入っているから」
「何、それ」
「酒だよ」
 そういわれてカドはますます変な顔をした。この学校にそんなものがあるなんてことを、今の今まで考えていなかった、そんな顔だった。それを見て、少しだけ氷柱は笑った。お前なら気に入ると思ったんだけどな、とつぶやきながら。
「そういえば、あれ磁石が入っているんだろう」
「何の話」
 ウィジャボードさ。そう言って氷柱はベッドの縁を、あの時プレートが滑った手つきで撫でた。それを見てカドも笑って、想像に任せるよ、と答えた。目が緩く弧になる、不思議な笑い方だった。
 枝のお守り、と氷柱は言った。完成までどれだけかかるか、と。
「乾燥をしっかりさせて形のいいのを選ぶから、まあ半年は欲しい」
「随分長いな、半年か」
「時間がかかるのを恐れては何も作れないよ」
 氷柱は天井を見上げる。そこにある時間を、架空の板書でもあるかのように見て、そうしてそういったことは考えたことが無かった、と。
「氷柱が考えたことないこと、多分、たくさんあるよ。ぼくが作ったことのないものも、文緒が読んだことのない本も、たくさん」
「そうだな、カド、やっぱりちゃんと絵を描けよ、おれはお前が作ったことのないものを作るところが見たいな」
 考えておくよ、とカドは言った。ぼくもそれを見たいと思った。
 ぼくは部屋を一人で出て、裏庭に向かった。いつものように人間らしく廊下をたどることをせずに、壁を突き抜けてまっすぐ進む。真夜中の庭漆は、月の光のせいで全部影になって見えた。天国がこの先にあるのなら、ぼくもそこに行きたいと思う。けれど何も、迎えも来なくて、たださやさやと吹く風の音を聞いていた。不意に、今ここが天国なのではないかと思った。誰かの夢の中にある土地。そうであれば、幸せな夢をありがとう。
 
 しばらく後に、カドは本当に絵の勉強を始めた。彼をモデルにした人間に習いながら、初めて仕上げたのはあの庭漆の絵だった。春の輝く陽の光と緑色の葉が美しい。それは、かつて彼の肖像が飾られていた場所に置かれた。ぼくはとても嬉しかった。あの木がもしもなくなってしまってもこの絵があるし、この絵がもしなくなってしまっても庭漆があれば絵があったということが思い出せるから。植物というものは、永遠のように見せかけてはかない。そこも彼らに似ている気がする。
 そしてぼくは彼らのことをまだ覚えている。きっとどこかにまだある絵と、この木と、ぼくと、もしかするとぼくが一番長い時間を過ごすのかもしれない。もう誰もいない廊下にいる、光だけが変わらずにさしている。それにきっと四月が来れば、きっとあのきらめきは再び生まれるのだろう。
 ぼくはこの学校の幽霊。ウィジャボードのプレートを動かすことすらできない漂う意識。ただみなを見送り続けるだけの者。ぼくの記憶にある、あの美しい四月の話を、聞いてくれてありがとう。この学校の話を、理科室と図書室と図工室の話を、することができてとてもうれしい。


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