越境6 残雪 その1
階段を、今いる階より四階下という相対的な指示に従って降りた先はしかし驚くほど代わり映えのしない景色だった。相変わらず白い、窓のない廊下が続いていて、一応いくらか先で折れてはいるようでずっと向こうだが突き当りが見える。それを背にして、昨日名前を知った中国人らしき少年が立っていて、大騒ぎの中では気がつかなかったが背は行彦より高いし、肩などもがっしりとしていて、二つ三つは歳上のようだった。
「しゃんつえ、さん」
確かこんな発音だったと思い出しながら行彦が話しかけると彼は元からすこし細い、かすかに吊り上がった眼を歪ませて不服そうにため息をついた。態度からありありと解る。もう好きに呼べということだ。
「君が話しかけたんだから、責任を持ちなよ!」
ケラケラとバキリと呼ばれたほとんど子供のように見えるのに身振りが妙に老成したその少年は残雪を指差して言った。彼は嫌そうだったが、何かを思いついたようなかすかな笑みを次に浮かべて、明日、目が覚めたら階段を四階分降りろと身振りを混ぜながら行彦に言った。中国語に混じって所々聞こえる言葉もありなんとなく意味を捉えると、彼は理解したよ!と面白くて仕方ない様子でバキリが言う。言う? 口はとにかく動いていなかった。
「まあ、何かはあるよ」
そう言いながらバキリは持っていたスマートフォンをぽいと行彦の方に投げてよこし、教室を出て行った。残雪は何もなかったかのようにもう一度机に座り直し、机がまたぱっと光るのを見つめていた。
「ここだ」
残雪が指差したのは行彦が最初に目が覚めた部屋のドアとなんら変わらないドアだった。しかも廊下には全く同じドアが二メートルおきくらいに並んでいて、ずらっと彼方まで続いている。何を目印に残雪がそう言ったかもさっぱりわからないまま、かれはドアノブをひねった。
部屋の中はやはり行彦の部屋と特に大差ないようだった。奥にベッドど簡素な机に椅子があるのも変わらない。変わったものといえばその白いシーツの上に、黒い、つやつやした石のようなものがたくさん撒いてあって。大きいものは大人の握りこぶしくらい、小さいものは小指の爪くらいの大きさで、ガラスの塊を割ったような鋭利な形をしていた。それがまるで人間が寝ているくらいの範疇に固まっていて、その周りにたくさんの色を使った縞柄の分厚い毛織物や、見たことのない菓子の包み紙や、色のついたペンや、錆びた缶などが所狭しと置かれていて、まるで墓の供物だと行彦は思った。
「何、これ」
「ロカ、だった。かつては」
俯いている残雪の顔からは何の気持ちも読み取れなかった。遠い国の、高い山の上の街から来たおれの友達、という語句が、かすかに、しかし確かに行彦の耳の中に入ってきた。おれ達は、皆、異形になるまでここで飼われるんだよ。
残雪の頭に巻かれた粗雑な包帯が、やけに白く見えた。彼は指先をその黒い破片に伸ばし。その切っ先を撫でた。ゆっくりとした、やさしい動作だった。鋭い刃のように、皮が裂けて、プッと血のふくらみが一瞬できて、流れた。赤いそれは一瞬輝いて、そして消えうせた。なにもなかったような指先を、行彦に向けて彼はもう一度言った。おれ達は飼われている。
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リレー小説です。次回。
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