越境8 イワン その2
眠っている彼の頭を撫でる手がある。髪の毛を分けるように骨の形を確かめるように、爪が頭皮に微かに当たる、刺激を線のかたちに感じる。白い、とても白い光がいっぱいに目に入ってくる。その明るさに開けたばかりの瞳が慣れるまで何度か瞬きをしていると、逆光になっていた影が徐々に人の顔を取り戻してくる。
「ジョルジュ」
イワンは彼の名前を発音する。覗き込む彼は少し笑う、微笑むと言うのだと知ってる。
「よく眠っていたね」
「うん、きみが居たから」
「僕が居たから?」
指先は髪をずっとさやさやと撫でている、くすぐったい、寝返りを打つように身体を倒す。頭は彼の太ももの上に乗っていて、そうすると目の前はベストしか見えなくなる。黒くて密度の高い生地は、鼻の頭に当たってもさらさらして気持ちがいい。ジョルジュは頭を撫でるのをやめて、イワンを逆方向へもう一度転がした。景色がころんと転がって、高い天井とカーブした梁と、緑色の木々や花達と、白い床が見える。
この部屋を、彼は温室、と呼んだ。
イワンはこの部屋を本当はあまり好きではなった。かれは気がついたときからここにいて、ここ以外のことを知らなかった。ただ何らかの物事が唐突に起こり、そして終わることには慣れていた、だから、自分以外の人間がやってきたときにも、かれは微笑んですら見せた。それが、威嚇の行動ではないということはなんとなく解っていた。
「おちびちゃん、ここはどこかな。僕は家に帰りたいんだけど」
と、それは言った。言葉というものを聞いたのは初めてだったので、最初は意味が解らなかった。黙っていると彼はイワンの耳に触れた、くすぐったい、というのを産まれて初めて経験して身をよじると、彼はああごめんね、触れるのは嫌だった? と言ったのだそうだ。そんなやりとりの詳細は覚えていない。その時は何も知らなかったのだし。
彼はすぐ、イワンが言葉を理解しないことに気がついた。やはり察しの良い男だったのだろう。目をつけられて、さらわれて来るほどには。言葉を教えるよ、ノートでもあればな。と、彼は言った。そしてノートがあった。勉強は教室でするものだよ、と言ったので教室があった。そのように、少しずついろいろなものが増えていった。
もっとも大きいものはこの温室だった。この建物にある机やドアは彼に言わせると木でできているということだったが、それがどんなものかはイワンにはわからなかった。実物を見せてあげたいよ、公園か、温室でもあればなあ、と彼は言った。そしてこの部屋が出来た。
教室を二つ並べたくらいの広さがあって、天井もとても高い。そこに木や花の鉢が沢山あって奥は湾曲した二段の階段になっていて、それが取り囲むように丸い、イワンと彼が手をつないで作った輪よりすこし大きい噴水があって、睡蓮の丸い葉がいくつか浮いていた。一部分に鋭い切れ込みが入っているのが、痛ましくて哀れだというとジョルジュは笑った。噴水は、中に一段高くなって皿があるような形で、そこから水がこんこんと湧いていた。溢れることはなかった。こんなに沢山の水を見たのは初めてだったから、初めてそれを見たときにはイワンはおもしろくてずっと手を浸していた。次は何が現れれるのだろうと、その頃には不意の何かの出現に慣れていたので、思っていた。
新しい施設は、もう産まれることはなかった。そして、その温室が一体どこのフロアに、どこの廊下を曲がって、階段を下りればたどり着けるのか、イワンは思い出せないのだった。白くて明るい部屋はいつも植物たちの呼気で湿って暖かくて、それはイワンには重すぎた。
ただ、ノートにはさまれて干からびた一枚の葉だけが手元に残った。ユーカリだとジョルジュは言った。彼が死んでから――、イワンが殺してから、温室へ行くことはなかった。行けないのだ、道を忘れて。
いずれ異形になるのなら植物になりたいとイワンは思っていたが、叶わないことのようだった。彼の左足の膝から下は、輪郭に沿うようにもうほぼ透明な薄いガラスになって、中空の、骨があったはずのところには細い針金のようなものが通っているのだった。それがフィラメントと言う名前だということを彼は知らない。だけど、もう取り返しがつかないことだけは解っていた。大人になれば人間でない何かになるのは当然のことだった。
ただ自分が変っていくなにかにももしかしたら名前があるのかもしれないとは思っていて、「魚」になったチュンガライ、「塩」になったサパル、「コップ」になったステファンみたいに。
誰も教えてくれなかったからイワンは電球と言うものを知らない。ここの天井は何もなく輝くからだ。
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リレー小説です。次回はこちら。
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