2020.10.11 おもいでの「ああ無情(レ・ミゼラブル)」
ヴィクトル・ユゴーの「ああ無情」をはじめて読んだのは小学6年生くらいの時だったと思う。当時は、ドッジボールも飽きて、健康だけど保健室にいて、逃げ場として図書館にいたと思う。馴染めないことを無視して明るく振る舞い溶け込もうとしていた、すごく違和感のある子供だったと思う。
推理小説からアルセーヌ・ルパンシリーズを読むようになってから、「ああ無情」(またの名を「レ・ミゼラブル」)を読んだ。
子供向けだと思うのでいくつかのシーンはカットされたか編集されていると思うが、当時すごく衝撃を受けたことを覚えている。
・パンを人のために盗んだだけで、何年も牢屋に入ること
・疑い、貧しさ、どうせそうするだろうという思いが、その人をその枠にとどめること
・神父さんの情け
・正しさのもとで、パン一つ盗んだ罪で犯人を追いかける正義の人物、勝手にライバルとし、生涯をその人を捕まえることに捧げた人
・フォンティーヌが恋に夢を預けたこと、ちょっとしたことで職を失い、子供を預ける人を間違えて、お金を要求され続けること
大人になると、フォンティーヌが亡くなった後に、娘が成長し、若者たちのストーリーや恋物語や革命への熱量に心が震えたりもするのだけども。
"正しい人は報われる""意地悪しちゃダメ"と思っていたので、人間ってなんだろうと。
「ふぅー、よく、おとなは、子供に本をたくさん読みなさいっていうよなぁ」と、知らない世界を知る好奇心と、ちょっとした優越感を持って、本を読み進めていた。ああ、かわいくないねえ。
この本から大事にしてるのは
・ライバルをつくらない
・一人の人を自分の生涯の理由にしない
・情けをかける
・嘘は人を救うことがある
・生死が関わるような理不尽からは逃げるべし
・悪いことしたらその場で言う
・どんな小さなことでも盗まない
・疑われた時、潔白を証明するのは難しい
・革命は失敗することもある
・悪い人に子供を預けるよりは、笑われても馬鹿にされても堂々と自分で育てよう(世間体より優先すべきものを優先する)
・悪い人にならない
・弱みを理由に金をゆするひととは関わらない
こんなところであろうか。
ジャン・バルジャンは何度かまた逮捕されるが、そのたびに誰かを助けるために脱獄をする。最終章くらいだと結構なお年なのだが、かなりのパワー系である。
また、神父様は自分のなかで大切にしている。あの神父様が情けをかけるシーンは、物語の中ですごく輝いて、心を動かされた。
聖職者でも大した人間でもないわたしは、レミゼラブルの登場人物たちみたいに完璧ではない。が、何かあった時はあの神父様ならどうするか考えることにしている。
大人になればなるほど、レミゼラブルのストーリーは悲しいかな、すごく身近になってくる。
当時、わたしが言われたかった言葉は「明るく振る舞わなくてもいいんだよ」「ずうっと一人で本を読んでもいいんだよ」「理由なんてなくていいんだよ」である。
ぼんやりとした不安と、溶け込めなくなる怖さから怯えていたので、誰かからの許可をずうっと待っていたんだと思う。承認欲求というやつだろうか。
キリスト教下の国では、"懺悔とゆるし"がその役割を持つのかもしれない。当時のわたしにはあの精神が必要だったのだ。今思えば。
この秋は、ヴィクトル・ユゴー作品を読み返してみようかな。