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#DontBeSilentや#わきまえない女、森さんの処遇を求める署名活動について

今日まで生きてきて、日本がこんなに恥ずかしい国だったのかと痛感したことはない。気付いたら日本に生まれていて、日本語だけで暮らし、日本のルールで生きづらさを感じていたものの海外に出ることは諦めていた。目を瞑ればそれなりに暮らしていけたからである。

森さんの発言、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」への驚き

最初、森・元首相の発言を取り上げたニュースを見た時、「釣りかな?なんか大したことないことを切り出したのかな?」と思ったものの、全文を読んで腰が抜けてしまった。ただの偏見だったからだ。

1時間の会議を30分で終わらす女にとって、驚きしかない。

メールを打つ時や相談するとき、プロジェクトを進める時に要点を得ないことで注意を受けることもあったし、上司に男性社会上の規範ルールを教えてもらうこともあった。でも別にそれは性差別と言うより、プログラムの組み方が違う・システムやブログのサービスがちょっと違うくらいで、やり方を学べばどうにかできるものであった。まあ、長いこと休むと発言の仕方を忘れることはあるが、「話が長い」とは言われたことがないし、皆さんちゃんと話は聞いてくれる。

ところがどっこい、オリンピックという国際おもてなしの場所でこんな発言でたらひっくり返ってしまう。この人たちは、女は面倒臭いから会議から外すのか、女性に根回しはしないけど会議に女性がいたという証明は必要なのか。それで炎上した時に「女性もいましたから」とその女性を火炙りにかけるのだろうか。全くさっぱりわからない。

人ではなく”女”として扱われることの面倒くささ

とにかく、女性が社会に出た途端、いや、高校生・中学生・小学生・幼稚園の頃からそういうものはあった。みんな見ないふりをしているが、必ずあるものだった。小学校の近くに出る不審者情報や、誘拐事件もあれば、痴漢もある。テンプレート見たいなトレンチコートを着た露出狂に遭遇したことは数回ある。大好きな本屋や図書館は、油断すると危険で、痴漢に会うこともあれば、あとを付けられることもあった。特に「女子高校生」と喜ばれる時期は地獄だった。小学生の頃から、「髪を伸ばすと悪いことが起きる」と髪は短めにしていた。ボーイッシュにしていると減るからだ。

「女だから何なんだろう」「なぜ決め付けるのだろう」「なぜ性別を理由に動作を制限されるのだろう」「なぜ見知らぬ他人を消費しようとするのだろう」「なぜ自分よりも経験が未熟で、世間を知らない人たちに無条件の愛や奉仕を求めるのだろう」「なぜ暴挙や痴漢が笑って許されると思うのだろう」「自分の恋愛対象外の女性に、なぜあそこまで冷たくできるのだろう」と、そう言うものを見るたびに謎が沸き、疑問だらけだった。

身の危険だけではない。家庭内でも、意見を言うな、わからないくせにでしゃばるな。女が入ってくるな。家のことは女の仕事。子供のことは男は知らない、お前の育て方が悪い。

反対に、なぜ男性はいいのか、考えてもわからなかった。聞いても答えはなかった。その理屈や道理が矛盾に満ちていて、まるでわからなかった。学校でも、女生徒が立候補した時に、「生徒会長に女がなるなんて横着だ」なんて言っている人も見た。書記とか副会長ならいい。よくわからない理屈だけど、どうでもよくて、そして窮屈な生き方をしていると感じた。

そんな私も、かつては、愛するパートナーに恵まれ子供3人生んでいるのを想定していた。だが社会に放り出て感じたのは、世の中そう簡単にはいかないことだった。一度、優秀なルートを外れると、ランキングのなかに入り込んでしまうとしんどい。見た目、振る舞い、第三者からどう見られているか。競争社会の中で、医者や外資系やエリートや保育士やナースやCAなどなど、職業に憧れるように、人はイメージと経歴で生きているのだと知った。私はそういったものから極力自由でいたいと強く思った。

幼い頃、みんなが見える場所で痴漢にあった時、周りにいた大人は助けてくれなかった。そのせいで会社に遅刻したら困るのだろう。だから、私はそう言うシーンを見たら、声をかけるように心がけている。痴漢でも、他のことでも。赤ちゃんが電車の中で泣いている時に、お母さんの顔が泣きそうな時はお母さんに声をかける。当然のことだと思う。それは人のためではなく、過去に誰も助けてもらえなかった自分の治癒作業である。

撤回して謝罪すれば、ヘイトって許されるんだっけ

さて話を戻すが、今回の件は、撤回・謝罪では正直終わらないものである。どんなにIOCが許したと言っても、JOCが必要な人物だと言ったとしても、森さんの一連の流れはキャリア全てが吹っ飛ぶくらいのものである。「ヘイト」発言に近く感じる。あくまで個人的感情だが、非常に差別的である。

あくまで内輪のネタとして話したつもりだろうが、国際社会にジェンダーギャップ121位の底力を見せつけてしまった。多分、来年?再来年はもっと評価が下がるだろう。

そうやって静かに「ことは終わった」と取り上げることで、問題は「取り上げる方が悪い」「終わった事をいつまでも繰り返すな」に持っていこうとしているように感じる。論点をずらして終わらす事、事なかれ主義が板についている。ここがさらに恥ずかしさを増す。こうやって、責任を取らない人がうまく生きていけるのだろうと感じた。

彼にとっては政治家人生の終幕にふさわしい、美しい思い出にするべきものが、たかが女性へのあたりまえを述べたところで止める必要がないと思っているのだろう。彼にとっては「東京都が日本の首都である」くらいの認識で「女性はこうだ」というものがある。それは自民党のおじいさまたちや名誉男性たちにとっては当たり前の感覚なのかもしれない。他人を笑うことで自分たちの結束を強める、ムラ社会感がすごくある。

ジェンダーイコール、男女平等とは何なんだろう

「#わきまえない女」というムーブメントから、「#DontBeSilent」「#genderequality」「#男女平等」という静かな投稿が各国の大使館から始まっていた。あまりにもシンプルなので、JOCやIOCへの抗議と最初わからなかった。

正直、これまでオリンピックはあまり好きではなかった。開催国が、国際社会に大して「うちの国は立派なんです」とアピールするためにめっちゃお金使うやん?と思っていたから。

でも今回この事件が起きてくれたことで「ジェンダーギャップ121位」が心底やばいことや、日本は国際社会の中で規範やルールをアップデートできていない、外交的にも未熟な国だったと、日本を含む世界中にアピールすることができた。

「女が増えると話が進まないから困りますよねえ、皆さん」というのは大変ウィットのきいたトークの肌感覚だったんだろうが、それは彼らの偏見からの思い込みがそうさせたものに思える。

Clubhouseに感じた、テニスコートの誓いや市民革命

その発言の夜、clubhouseには森会長の発言について話すトークルームができていた。

内容は話せないが、知らない市民同士で、初めましての人たちの中で、自分の意見を話していく。じっと聞いていた。とても素晴らしい体験である。女性と男性でやはり相当認識が違うことも理解できたし、男性側はそう言った意味では、制限された暮らしをしてこなかったのだろう。興味深い話もたくさん聞けた。

序列を作ることでしか、社会がこれまで成り立たたず、王族・貴族と農民と武士と商人と。私たちは古い価値観から、平等を勝ち取ったはずなのにまた、見えない階層や階級、順位付けを繰り返している。それは楽しいルールなのだろうか。楽しいゲームなのだろうか。何を目的に世の中を生きているのだろうか。

人々の言葉にや意見に、思いが光ることは本当に美しいものだ。クラブハウスでじっと人の話を聞いていて、平等とはこういう風に意見を言い合えることなのだと感じた。女性の話は長いと思わなかった。

男性の皆さん。お願いです。優遇してくれとは言わない、ただその踏んでる足をどけてください。

昨日初めて、この方を知った。「女性が何人最高裁判事になればいいと思いますか?」という質問を受けて「9人(全員)よ」と返した方である。「全員男性だった時代もあるのだから、それがどうしておかしいのかしら」と付け加える。

彼女は1970年代に弁護士として、ジェンダー問題の裁判に取り組んできたアメリカでの第一人者である。「女性の顔が紙幣に印刷されるのだからこれ以上を望む必要があるのか」と当時の知性あるはずの男性判事が発言することもあった。日本はアメリカから50年遅れていると、よく評されるが、ジェンダー問題でも、アメリカで50年前に戦ったことが、今起きている。

森さんの処遇を求める署名活動について

署名活動に久しぶりに参加した。目的があえて辞任ではないところに好感を持った。つまり、対策すればいい余地を残しているからである。私たちはオリンピック協会を困らせたいわけではないのである。そして、かのIOCとKOJの方は、森さんの謝罪にならない謝罪会見を「本人が謝罪し撤回したので、これで終わった認識である」とのことで、「それは恥の上塗りだよ」と物申したくなった。

見ないふりをして目を瞑ってきたことは、いつかまた現れる。その時にその都度その都度、真剣に向き合わないと、手を抜いたことはあとから自分に降りかかって来る。本当に体力がない時やしんどい時はあとまわしにする勇気も必要だが、そうではないのであれば、理解しておかないと、大波に飲まれてしまう。

同じ失敗が起きるのは、その事象から自分が学んでいないからである。だから、同じ失敗がいつまでも起きる。トライしてできないなら仕方ないが、他人のせいに初めからすると、永遠にそのままである。それでも人は生きていけるが、命を無駄にしていると思う。

時計の針は戻ることがなく、進み続けていく。他国が踏んだ道を日本も踏むことになるだろう。森さんの価値観は、家父長制からきているのだろう。かつて海外など存在しない、オランダはわきまえているから良いと鎖国している時のように目を瞑って問題がないことにしている。それで日本はある程度平和になったとしても、いずれ時代はやって来る。

私は高齢になった時に、森首相ではなく、「最強の85歳」ルース・ベイダー・ギンズバーグのような目覚めたおばあちゃんでいたい。目覚めた人、偏見のない人、真実を見る人として人のために生きていたいとそう思う。

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