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咽頭癌+悪性リンパ腫と、明るく楽しく挫けずにつき合う方法〜エピソード2/DAY 05

Today is…今日が私の一日ならば…

それは想い出にふける一日。

俺とRCサクセションとの出会い

昨日は張り切ってNOTE書こうと思ってたのに、何だかんだで書ききれなかった。
ちょうど4月2日は忌野清志郎さんの誕生日でもあったし、自分の記憶にはたくさんの清志郎さんが残ってるから、その辺のことをと考えてた。抗がん剤の治療よりそっちメインになりそうなくらい。まぁ抗がん剤つながりで清志郎さんってのもあるんだけどね。
先に言っとく。来月の2日は清志郎さんの命日だからな!と言っても俺は神がこの世に降臨した4月2日の方を大切にしてるけどね。

清志郎さんというよりRCサクセションを知ったのはまだ中学2年か3年の時。
初めて聞いたアルバムが「RHAPSODY」。身体中に衝撃が走った。
それまで松山千春、アリス、長渕剛、さだまさし、イルカとかアコギのフォークシンガーばかり夢中になってたけど、全てが一気に変わった瞬間だった。身体中の血液が沸騰した。そして快感に酔いしれた。それは言葉にできないほどキモちEのさ!
布団で寝ている奴より、女と寝ている奴より、電車に乗ってる奴より、牛乳飲んでる奴より、そして初めてオナニー覚えた時よりな。

それからは毎日毎日レコードが擦り切れるほど聞いた。ウォークマンなんかなかった頃だ。家で聞くしか方法がなかった。朝から晩まで
今でもRHAPSODYの収録曲の大半は空で唄える。時々忘れるけどね。皆さんもそんな感じだよね、初めて夢中になった曲とかってさ。うん、そんなもんだと思う。

そこからエレキに目覚めた、多分。その中でもなぜかベースにハマった。チャボのギターもかっちょえかったけど、小川銀次のテクニックも凄かったけど、耕造さんのどっしりしたリズムもG2のチャラい鍵盤も良かったけど、リンコさんのベースがRCだった。いや語弊があるな、RCそのものはやっぱり清志郎さんだった。あの声や歌い方に憧れた。でも俺は音痴なんよ。歌うのはからっきしダメ。今でもロック系のベースラインなら大体耳コピできるけど、歌はNGだわ。娘が音痴なのもきっと俺のせいだなwww
だからベースに集中した。中学時代から友達とバンドを組んで夢中になってた。もちろんRCのコピーがメインで、たまにパープルとかストーンズとかZEPを演ってた記憶がある。
自分のストーンズ好きは、清志郎さんから始まったんだよな。

高校生になってももちろんRCが一番だったけど、高中とかカシオペアとかのフュージョン系も面白くなってきてスラップ(昔はチョッパーって言ってたけど)もやり出した。当時組んでたバンドはそんなフュージョンバンドだった。自分はバンドマンを気取っていたのさ。
他にも80年代のミュージックシーンはそれはそれは凄いものだったよね。浮かれていた時代にとてもマッチしていた。それでもやっぱり清志郎さんがサイコー。周りはRCはもちろん清志郎さんを知らない人がたくさんいた。君の知らないメロディーや聞いたことのないヒット曲といったところだろう。

それからも清志郎さんとRCが自分の支えだった。
それから数年、いよいよ社会人となって、とある先輩にRCの魅力を教え信者にしてあげた。自分が受けた衝撃と同じようにその先輩もRC沼に頭の天辺まで浸かってしまった。そこからが本当のこの物語が始めるのであった。

RCサクセションとの関わり

その先輩には八王子のめじろ台駅近くに住むマブダチがいて、この方がこの話のキーマン。若いご夫婦なんだけど、自分の名前から「ピロップ」と呼ばれてそりゃ可愛がってもらった。
一緒に酒飲んで飯食ってRCの話で盛り上がってさ。今もあの場所にいるんだろうか?もう何年も疎遠になってしまっているけど忘れた時はない。自分にあんな素晴らしい体験をもたらせてくれた方々だったし、もう一度会ってしっかりとお礼を言いたい二人だ。

実はこの奥さんはなんとRCのベーシスト、リンコさんの従兄妹だったのでR。こりゃぶったまげもんだよね!ちなみにRCの最初期の作品『楽しい夕に』の収録曲、「エミちゃんおめでとう」のモデルだ。名前もそのままエミちゃん。どこかぶっ飛んでいてそして可憐な少女のような魅力的なお姉さんだった。

ここからは怒涛のエピソードが続くんだけど、一つ一つ語れないほど熱く厚く魂が迸る濃密な内容なのだよ。
その中でもとびっきりのネタをお披露目するならRC激動期の1985-86ツアーと歴史に残る1986年の日比谷野音、そして毎年恒例の武道館クリスマスライブだろう。日比谷野音は8月16・17・23・24と2週連続の4公演だった。とてつもなく暑い夏の日。4公演とも全部参戦した。これはCD/DVD「the TEARS OF a CLOWN」としてリリースされているから聞いた人・見た人も多いと思う。

もちろんそれまでも何度もRCのコンサートには行っていたが、一気に距離が詰まったのはこの頃からだ。
結論から言えば、いつの頃からかライブに行くと必ず楽屋まで招待してもらえるようになっていた。そこにはおおくぼひさこさんもいたのをよく覚えてる。

画像を見てもらえればわかってもらえるさ、8/16公演はナント!バックステージ・スタッフとして関係者枠での参加だったのですよ!それも初日ですよ!一番大切な日!

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もちろん招待さ。ライブ中はPA席(なぜかと言えばリンコさんの実弟がPAやってるキンスケさんなのさ)で鑑賞というか、俺の語彙ではもはや表現できない何か。

今まで楽屋にまで招待されたのは数知れないが、お宝として残ってるのは画像のもの。
85-86ツアーのスタッフタグ(武道館公演)

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非売品のプロモ用シングル「レコード」とその紙ジャケ

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清志郎さんのサイン入り初版本(この頃には清志郎さんからもピロップと呼ばれていた)

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他にもメンバー全員のサインが入ってたコンバースとかあったけど、あまりの汚さに父親に処分されてた(涙)
このコンバースの思い出は、清志郎さんの地元に近い八王子公演に出張った時、もちろん楽屋へ行ったんだけどサイン書いてもらうものを持ち合わせてなくてさ、「あっ、白のコンバースだ!」って気付いて、汚いのに恐る恐る差し出したらチャボさんが「マジできったねーなwww」と笑いながらサインしてくれた。他のメンバーも渋々ね。
当日はすごい雨降ってたんだけど、もう履いてなんて帰れねーじゃん!仕方なく裸足のまま帰ろうとしたら清志郎さんが「裸足でなんて帰れねーだろ。これ履いてきなよ」って1足の靴を持ってきてくれた。
ますます履けねーわ!はい、ずぶ濡れの中もちろん裸足で帰りました。
もうこの時点で死んでもいいよねwww
(この靴も知らんうちに父親に処分されてた。殺意が湧いたわ!)

RCサクセション崩壊

RCとしては多分この頃が絶頂期で、徐々に何かが変わり始めた頃だったんだと思う。事務所の問題とか清志郎さんの体調面、思想面、各種方向性の違いによるメンバーとの確執などなどなどなど。

この頃にはRCとしてのアルバムセールスも微妙になっていくよね。確かに過去の名曲を超えるものは出ずに、ライブでもBLUEまでの曲が中心になっちゃったもんね。
詳しい事はわからないけど、何かが起こっていた。
そうこうしている内、大問題作「COVERS」が発売になった。自分にとっては宮沢りえの「サンタフェ」発売新聞広告と、「COVERS」発売中止の新聞広告は完全に同等の価値を持った。
当時、まだまだクソ生意気な好青年であったが、戦争反対と原発反対にはとても共感できた。そんな時代だったのかも知れない。
でも今はどうか?

こんなとこに自分の政治思想とか書くのもどうなんかなーって思うけど、個人的には憲法改正は必要だし軍隊は持つべきだと考えている。これは日本を守る上で必要なことであり戦争を肯定しているわけではない。そして原発はエネルギー政策上安全を担保した上で再稼働が不可欠だと思っている。基本的に自分は保守系の愛国者である。
枝野・蓮ポー・やーもと・福島・辻・志位とか、あっちの方々は御免被りたい。

一つ気になっていたことがあって、清志郎さんが今も生きていたならなんて言ってたかなと。やっぱり憲法改正反対・原発反対だったのかなって?
きっと立憲あたりから出馬要請とかあったかも知れないなーなんてこともね。
受けないとは思うけどこればかりは本人の意思だからなー。

そしてRCサクセションは1990年12月25日ラストライブを開催しその後無期限活動休止になり、そのまま二度とあのあの5人が武道館のステージに揃う事はなくなってしまった。
同時に自分の中にも何か一つ区切りがついた瞬間だった。

ヤベー、長くなりすぎてる。まだまだいくらでも書くことあるんだけどよーw

抗がん剤治療開始

4/1 13:30
入院初日から放射線治療は受けていたが、いよいよ自分にも抗がん剤治療が始まる。清志郎さんも声を失わないために受けた治療と一緒だ。
清志郎さんは喉頭癌、自分は咽頭癌。
患部も近いし「あー清志郎さんもこんな感じだったのかな?」って考えながら治療を受けた。

右足鼠蹊部から大動脈カテーテルによる抗がん剤投与。時間にしておよそ3時間半。局部麻酔のため意識はしっかりしている。事前にBGMのリクエストを求められていたけど、今回望んだのはローリングストーンズ。意識してたのに何故かって?俺も知らんわwww
それでもクラプトンが掛かったりビートルズがかかったり、結構雑多な選曲だったなwww

術後はおよそ6時間の絶対安静。と言ってもカテーテルを挿入した部分をしっかり止血するためで、右足を曲げたりせずおとなしくしていればOKとのこと。
食事は4時間後、水分補給はすぐにできた。

意外にこんなもん?ってあっさりしてた。止血もうまく行ったし、今のところ副作用も皆無だ。今後全4回の抗がん剤治療を予定していて徐々に副作用も増えていくんだろうけどな。放射線治療の副作用とWパンチはやっぱり不安だけど、個人差が相当あるらしく、まぁ鯉でしかないからドクターやエンジェル(看護師さん)達にお任せするしかないぜ。覚悟はできてる!

以前「異所性褐色細胞腫」で外科手術を受けたと書いた。(プロローグ その1参照)
その時サブで担当してくれていたチョー美人なドクターがいるのね。まぁ僕の好きな先生

事前にネットで調べてまだ在籍してるの知ってたからまた会えるかな?って思ってた。
はい、ドンピシャ!
抗がん剤治療の翌々日に朝の巡回っていうの?で自分がいる部屋に来たから速攻で声かけましたわwww
自分:「○○○先生!覚えてます?」
美人ドク:「あっ、●●さんどうしたの?元気?何してんの?」
自分:「いや、元気?って聞かれても、まあ元気だけどさ」
世間話しようにも向こうも忙しく病室回ってるし「後でまた顔出すわ!」ってことでその場はお流れ。
翌日病室でもう少し話をできた。相変わらず美人だねって言ったら照れてたけど、名字変わってないからまだ独身なのかな?

そろそろ飽きてきた?
もう少しで今回は締めよう!

カミさんとカミさま

娘が神奈川の相模原市に住んでんのね。
※ちなみに1週間前に引っ越したばかりで、危険だからって外出せず、その後も他人との接触はありません。
大学生なんだけど、2年になろうとしてるのに武漢ウィルスの影響で閉鎖されちゃって再開はGW明けになったらしいのよ。都内でバイトしてるんだけど、そっちからも出勤停止になったりして、本人もどうしていいかわからなくなってるのよね。
※ちなみに3月上旬からバイトに行っておりません。
他にもほら相模原市って駅員さんが陽性になったりあの辺うじゃうじゃ感染者がいそうじゃない?
そんで急遽帰省することになったんだけど、本人は新幹線もバスも乗りたくないっていうし親としてもそんな密閉空間の乗り物は不安で乗せたくないし、カミさんが車で迎えに行くことになったのよ。それが昨日4/4(土)なんだけど、清志郎さんのお墓って高尾霊園にあるのね。自分も以前行ったことあるけど、娘のところから結構近くてさ、カミさんもそれを知ってて「めんどくせー旦那だけどせっかくだからお参り行ってきてやるわ」ってことでカミさんがカミさまの所に行ってきたって話さ。カミさまにもカミさんもどっちにも感謝だね!
行ったことある人ならわかると思うけど、このお墓ってさ、お線香をあげるとこが無いんだよ。自分のお墓もこんなのが良いなwww

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※ってことで、娘のところに直行直帰!一切他人と接触することなく無事に自宅まで連れて帰ってくることができました。その後もカミさんを含め一切の体調不良・コロナ感染の予兆などありません。本当に連れて帰ってきていいのか?って葛藤はありましたけど。

実はカミさん、某保険会社に勤めてるんだけど、清志郎さんも昔その保険会社のCMに出てたんだよね。
「不健康な身体で不健康なことができるか!」ってやつ。言い得て妙だよね!確かにそうだ、イカしてるぜベイベー!

さあ、どっかの山師が俺が死んだって言ってないかい?
そんなの呆れてものも言えないぜ。笑い話にもならない。

じゃ今回はこの辺で。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
多謝。下の画像は高尾霊園の桜。きれいだよね!

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