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谷頭和希『ニセコ化するニッポン』読書メモ

谷頭和希さんの『ニセコ化するニッポン』を読みながらつけたメモをまとめたものです。ぼくは読む前まで「ニセコってなんすか」と思っていたのですが、読後は「俺もニセコだったんだ」と理解しました。文中にも「あなたのそばにも、ニセコはある……」みたいなことが書いてあります。ホラー?

街の変化そのもの

・「選択と集中」「テーマパーク」で思い出した場所に竹下通りがあった。あの文化祭的な場所(道の狭さとかもそれっぽいし、実際文化祭の出店で食べれるものって原宿に絶対ある)は夜になるとほとんどシャッターが閉まっている。

竹下通りは「遊べる時間」を限定することでテーマパーク的な感覚を演出している気がする。そして、原宿で夕方まで遊んだら人々は渋谷に移動する……原宿が「文化祭」なら渋谷は「後夜祭」なのかも。

・一方で、渋谷は「若者の街じゃない」問題、去年まで渋谷の大學にいた人としては実感がある。とりあえず一軒目は渋谷で飲んで、それから代々木公園の方へ行ってコンビニで買った酒を飲む、みたいな導線を思い出した。もっと安かったら2軒目も渋谷で飲むよ!たぶん。そういえば、あのNHK横で溜まってる人たちって「N横界隈」とかなのかな……?  

「レトロ」コンテンツの中心が子供文化ではなくなったよなーと思った。「台場一丁目商店街」「オトナ帝国」とかがそうだけど、かつて「レトロ」コンテンツといえば駄菓子、ゲーセン、ブリキのおもちゃとかだったのが、今はレトロな飲み屋、レトロフューチャーなんかが主流に変わっている。サブカルチャーからポップカルチャーへの移行と言って良いかも。

・どうでも良いけど、西武園ゆうえんちの昭和レトロリニューアルってかなりヤバかった覚えがある。当時行って「これマジで大丈夫なのか……?」と思った。客にウケてるのがゴジラザライドしかなかった記憶。園内通貨制度なくなったらしい。あれわけわかんなかったし。

・新たな若者の街が新大久保だ、というのは自分も思う。あそこ「K-popアイドル風のメンズコンカフェ」があるけど、新大久保自体がコンセプトカフェならぬコンセプトタウンとして上手くいってるんだなー……あとコンカフェって、まさにテーマパーク的だ。いま日本でコンカフェが増えているのも「ニセコ化」なのかな?働いてるひとのこと「キャスト」って呼ぶし。

・テーマパークとは「特定のテーマによる非日常的な空間の創造を目的として、施設・運営がそのテーマに基づいて統一的かつ排他的に行われているアミューズメント・パーク」のことだ。(p107) ←コンカフェだ……。

「静かな排除」

・「スタバにいそうな人々」のとこを読んで、スタバがガラス張りであることの重要性を感じた。スタバに限らず、ガラス張りの店にいる客って「この店の客」を担うキャストとして、通行人にアピールするディスプレイ役を知らぬうちにやることになっている気がするんだよな。そして、スタバは「ガラス張りの店でディスプレイとして機能しない客」を排除している気がする。

・ミヤシタパークはカップルばっかりでいづらいことがある(静かな排除)

・「静かな排除」についての問題意識は別のアプローチで自分も持っていて、それが既存の「デートスポット」と呼ばれる場所で想定されているのは異性愛カップルだから、そこではセクシャルマイノリティカップルが排除されてるんじゃない?というもの。そして、これは谷頭さんが(これは公共空間についての話だけど)結論として書いていた「色んな「選択と集中」を行うだと、異性愛カップルとその他のカップルのデートスポットを分ける、という話に(単純な方法や施策だと)なってしまいかねないとも思うので、もうちょっと考えたいと思った。

・「推し活」のニセコ化。俺もニセコ化した消費生活を送っていたらしい。沖縄遠征のチケット買ったよ!

キャラ

・専門分野のアイドルの話(専門分野?)。ファンは「選択と集中」されたキャラそのものを消費している……ということもある一方で、その向こう側にあるはずの「排除」された側面こそを知りたい、という欲望に突き動かされている、ということもあるように思う。週刊誌のスキャンダル報道などへの怒り、というのはプライベートが暴かれたという怒りであると同時に「無関係な(彼らを好きでもない)存在が、私の知らない「排除」されていた側面にたどり着いた」ことへの怒りではないか。

・めっちゃゼロ年代みたいな話だけど、要はギャルゲーとかには「あるヒロインとストーリーを進めていくと、彼女の秘めたトラウマがだんだんと明かされていく」という構造がある。そして、それをどんどん知りたい!という気持ちがプレイヤーにストーリーを進めさせるわけで、アイドルとファンにおいても同じことが起こっているのでは?と思っている。

・とはいえ、これは距離が近い地下アイドルとかの話に限ったことかもですね。

・キャラ化した人間関係においては、「キャラ」ではない「素」を明かすことが過剰に特別視され、そこでは「親密な関係になったとしても明かしたくないことがある」部分が多ければ多いほど、人間関係から排除されるよなと思う。

・変な言い方になるけど、人は表層的な「キャラ」しか見せなかったとて本当の意味で親密になる、みたいなことができるんじゃないかなぁ……。

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