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11/19(火)俺が下北沢まで走るだけの話

普通に考えて、先週の「3,000文字の日記をつける」というのはヤバい目標だった。ありえない。自分のことをどんだけ暇だと思っていたのだろう。

さて、今日は推しの現場だった。夜だったのでなめていた。時間、間に合う間に合う〜と思ってギリギリまで家にいた。慌てて外に出て走り出す。

バス停とすれ違う。そこでは止まらない。バスは来ない。バスというのは、来ると思っても来ない。だから待っていると焦りが募る。あと4分で来ると電光掲示板に書いてあっても信じてはいけない。だから無視して走る。

本当にバスが4分後に来て、走る自分を追い越したら?別に構わない。遅刻しそうな人間が本当に必要としているのは、距離が縮まり続けている実感なのだ。止まってはいけない。すでに時間がないのだから、止まる時間などもっとない。

ゆるい坂を走っていくのだ。といっても坂だから、ひらたい道ではないのだから、ゆるいが確かに傾斜のある坂道なのだから少しはきつい。20mごとにバス停がある。一つずつ越すごとに、やはりバス停で止まらなくて良かったと思う。勝った!と思う。

あのときバス停で「止まった方が確実かな」と考えた臆病な人間と「止まらず走りたい!止まると焦りが募る!」と考えた忙しない人間がいて、後者が勝った。だから走っている。坂を登りきるとサミットがある。信号で止まる。信号で止まるのは息を整えるためだ。こうして、すべての動作を走り続けるための合理的選択として捉え直す。

諸事情で、汗をかくのは嫌いだ。特にこれから人に会うときは。会いたくない人と会うなら汗もかこう、けれども今は困る、と思っていたが結局汗はかいた。走ったから。当たり前だ。普段走らない人間は、汗のことをよく知らない。走っているときに汗を感じなければ汗をかかないものと思っている。あるいは、冬だから汗をかかないと思っている。そんなことはない。立ち止まった瞬間汗が出てきた。それは止めようがない。走ることしかできない。

手形、まだやってますか。と聞くのだ。手形、まだやってますか。と聞いて、やっていない。と言われたらどうしよう。困る。困るがきっと、ちょうど走って手汗が出ていたところだったからいずれにせよやっていなくて良かったかもしれない、とかなんとか考えて納得するだろう。

僕は、僕について起こるほとんどあらゆることについて納得してしまう。しかし、こうも考えられるか、と思ってあらゆる不満を手放してしまうから、僕は僕自身の不利益や不満足に、なにか納得がいかないということがない。けれども、納得してはいけないこともある。

他人が不利益を被っていることについて、他人が勝手に理由を考えて納得してはいけない。たとえば、いじめが起こっている。「いじめられる方にも理由がある」と誰かが説明する。それに納得すべきではない。「いじめられる方にも理由がある」という語りには、隠されている()がある。

「いじめられる方にも理由がある(だから、いじめられる方に責任がある)」 

因果関係と、帰責性を混同すべきではない。誰かにある特性があって、それを理由に誰かがいじめを始める。いじめという結果を招いた原因は「いじめられた側にある特性があったこと」かもしれない。つまり、いじめられた側に「いじめた人間に目をつけれられた理由」なら確かにあった。

では、いじめの責任を背負うべきはいじめられた側なのか。もちろんそうではない。いじめの責任は、いじめた人間にある。けれども、このロジックは世界にまかり通り続けている。

性加害にあったのは暗い夜道を歩いていたからだ。否、暗い夜道を歩いていたことが加害された理由であろうと、被害者に責任などない。原因を有しているものと、責任を有しているものは、イコールでない。それを等しいと主張する者がいたとすれば、大きな誤りだ。

彼らは世界を優しいと思っている。悪い人は苦しみ、良い人は報われる世界であって欲しいと思っている。だから、苦しんでいる人にも悪いところがあったのではないかと思い、報われなかった人は何か良くないところがあったのではないかと信じる。それは勝手にすれば良い。

しかし、それをもって「あなたにも理由があったんじゃない?」と言うべきではない。あなたがそう思うのは、あなたが「この世界は、人が理由なく理不尽な目に合うほど残酷ではない」と信じたいからだ。

そんな信仰を押し付けてくる人間がいたら、耳を塞いで逃げるしかない。全速力で走るのだ。バス停を越えて、追いつかれないよう、汗をかいて、走り続ける。けして止まってはいけない。

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