新興宗教の教祖になってお布施で生活したいのでとりあえず何かありがたみのありそうなことを書いてみる2~がんばらないで生きても、意外となんとかなる。むしろがんばらない方がいい~
こんにちは、新興宗教の教祖になってお布施で生活したい桐谷慎也です。
みなさん、毎日がんばって生きていますか? がんばっている、とてもいいことです。
さっそくですが、それを今すぐやめましょう。
本日のテーマは「がんばらないで生きても、意外となんとかなる」です。更に個人的な経験から付け加えるならば、むしろがんばらない方がいいくらいです。
なぜ、人はがんばるのか
さて、ここで質問です。
あなたが今、がんばっているのはなんですか?
それはプログラムを効率よく書くことかもしれないし、家族の食事を毎日用意することかもしれません。あるいは恋人と破局しないように絶賛がんばり中かもしれないし、親子関係をうまくいくようにすることかもしれません。
ところで、なぜあなたはがんばっているのでしょうか?
お金のためでしょうか。誰かを悲しませないためでしょうか。将来のためでしょうか。毎日の生活のためでしょうか。
きっと人それぞれ、ことそれぞれの理由があるとは思いますが、突き詰めて大きく分けたら次の2つになるでしょう。
1,がんばれば今よりもいい状態になるから
2,がんばることはいいことだから
もしあなたががんばっている理由が1なのであれば、それは続けてご利益のある「がんばり」かもしれません。
しかし2であるならば、今すぐがんばることをやめてください。この記事を読むことをがんばっているのなら、それも今すぐやめましょう。きっと、あなたにはもっと他にやるべきことがあるはずです。大丈夫、新興宗教の教祖になってお布施で生活したい人の話を聞かなくても、生きていくことはできます。
けれどもし、あなたが今とてもがんばっていて、同時にとてもつらい思いをしているのなら、この先を読むことで得るものがあるかもしれません。
なぜなら、がんばるのをやめることで、今よりいい状態になって、楽で豊かな人生を歩むことができる可能性があるからです。
がんばることは、デメリットが大きい
一般的に、「がんばることはいいことである」という認識は大きいでしょう。
今よりいいものを手に入れるため。
今持っているものを失わないため。
あるいは、今より人からよく思われるため。
ありとあらゆる理由でがんばることは肯定され、推奨され、求められ、それと同時にがんばらないことは怠け者の烙印を押されて後ろ指を差されます。怠け者、嫌な響きですね。別に何もしなくてもいいような状況でも、「怠け者め」と言われるだけで存在を否定された気持ちになります。飼い猫は眠っているだけで可愛いと言われ、動物園のナマケモノは全く動かないことを興味深く見られるというのに、モフを身にまとっていないだけでこの違いです。これを僕は「非モフのかなしみ」と呼んでいます。「非モフ」という言葉自体はねこ飼いのフォロワーが発した言葉なのですが、いいですよね、モフと非モフ。
というわけで、人間が今すぐがんばるべきことがあるとしたら、モフをモフモフしてこのかなしみを癒やすことくらいでしょう。
さて、様々な場所で肯定され、推奨され、求められる「がんばる」ですが、「がんばれ♡がんばれ♡」とあなたを鼓舞する人に限って、そのデメリットを語りません。まぁ、「がんばる」というのは「がんばったらもっともっとよくなるよ!」という一種の信仰みたいなものなので、いわば「がんばる教」の信者を作るためには教義に対して都合の悪いことは言わないでしょう。僕だって新興宗教の教祖になってお布施で生活することを目指す者として、自分に都合の悪いことは言いません。大丈夫、黙っていればバレない。
と、いうほど人生は甘くありません。いくら口を閉ざそうが、証拠を隠滅しようが、バレる時はあっさりバレます。ヅラが風で吹き飛ばされるよりも遥かに高い確率と言えるでしょう。ドブガチャの方がまだ珍しいかもしれません。
もちろん、「がんばる教」の教義も必ず間違っているわけではありません。宗教というのはコーヒーに入れる角砂糖程度であっても真実があるからこそ、信じてもらうことができるのですから。
では、がんばることのデメリットとはなんなのか。
それは、「自分の本当の力量」がわからなくなることです。
ここで言う「本当の力量」とは、「がんばらなくても出せる、あなたの能力」と言い換えても構いません。
常にがんばっていると、この「がんばらなくても出せる能力」がだんだんわからなくなってきます。あなた自身もわからなくなりますし、周りの人にもわからなくなります。
そして「がんばっている時の能力」を「あなたの本当の能力」と勘違いしてしまうことで、常に120%の能力を発揮しなくてはならなくなるのです。これは、途方もないデメリットであると言えます。
だって人生は陸上で例えるのならば100メートル走ではなくフルマラソン。マラソンで開幕ダッシュをキメるのはアホ高校生くらいのもので、すぐにバテて歩くのは目に見えています。ちなみに僕は先生の目があるところだけ走って、あとは歩いたくちです。
フルマラソンならばしんどくなったらリタイアすればそれで済みますが、人生のリタイアはすなわち死です。前回の教え「人生にリセットはないが、リスタートはわりときく」でも述べた通り、死んだらそれで終わりです。来世は他人がいいとも言いますが、それは来世があると仮定した時の話です。仮に来世があったり異世界転生できたりしても、今のあなたとは何ら関係のないことです。あなたが全財産をパチンコに突っ込むことも辞さないギャンブラーでない限り、リタイアを選ぶことはおすすめできません。
あなたを楽しく生きるには、何より避けるべきは死ぬことなのです。
走らなくてもいい、ゴールすればいい。それがあなたの人生です。
常にがんばること、つまりは常に120%を求めることは、一時的にゴールに近づくかもしれませんがリタイアのリスクの方がずっと高いのです。
これが、今すぐがんばることをやめた方がいい理由です。
がんばることで、手に入れられなくなるもの
何かとメリットが喧伝される「がんばる教」ですが、実践することで手に入れられなくなるものもいくつかあります。
がんばることで手に入れられなくなるもの。それは、主に次の2つです。
1、今ある手札でやりくりすること
2、他人の助けを借りること
1の「今ある手札でやりくりすること」については、がむしゃらにがんばることで精一杯になって、創意工夫の余裕がなくなるからです。
例えばあなたの目の前に、こんこんと湧く泉と底が半分抜けたバケツ、そして大きな水槽があるとしましょう。壊れかけのレディオならぬ壊れかけのバケツで、泉から水を汲んで水槽をいっぱいにしろと言われたら、あなたはどうしますか?
「がんばる教」でこの問題を解決する方法は、「水がバケツからこぼれるよりも早く、泉から水槽に水を入れる」です。まぁ水汲みならば泉と水槽が近ければなんとかがんばってどうにかすることもできるでしょう。がんばれ♡がんばれ♡
ですが、こういう解決方法はどうでしょう。
「バケツを斜めにして、水がこぼれていかない角度を保つ」。
こうすれば、あなたは泉と水槽の間を反復横跳びしなくて済みますし、何なら手で押さえてさえいれば、座り込んで一服することだってできます。なんだか算数みたいですね。ますを駆使して指定された分量を計るやつ。
こういった工夫は、底の抜けたバケツの例だと、ちょっと考えればすぐに思いつくでしょう。
しかしとにかく「がんばる」を一度実践してしまうと、反復横跳びしながらバケツの効率的な使い方に思索を巡らせるのは至難の業です。少なくとも僕にとっては。そしてきっと、あなたにとっても。無限の体力と精神力があれば可能でしょうが、そういう人は新興宗教の教祖になってお布施で生活したい人のありがたいかもしれない話なんて必要としません。筋肉はすべてを解決してくれる。
これが、がんばることで余裕がなくなった人間が手に入れられなくなるものの一つです。
ですが筋肉がないのなら、筋肉を使わなくてもいいのです。あなたにはあなただけの手札やリソースがあることでしょう。それらを組み合わせて工夫をすれば、ただ「がんばる」よりももっとラクに色々なことができるようになるのです。
さて、底の抜けたバケツの例ですが、実はこれ、もっと簡単な解決方法があります。
それは「底の抜けていないバケツを持っている人を探して、バケツを借りること」です。あわよくば壊れていないバケツを持っていた人に手伝ってもらえば、あなたが運ぶ水の量は半分で済みます。仮に底を抜けたバケツを持っている人しか捕まらなかったとしても、片方のバケツの底を外してもう片方のバケツの穴を塞げばいいのです。
これが、2の「他人の助けを借りること」になります。
がむしゃらにがんばっている時というのは、大体一人でなんとかしようと奮闘している時です。そうでなければ人の手を借りることくらい、すでにやっています。
ですが、あなたが思っているよりも遥かに、この世には「誰かに助けてもらう方法」があるものです。
例えば家庭に関わることなら配偶者や両親に頼んでもいいでしょうし、どうにも回らなくなったらお金を出して業者にアウトソースすることもできます。マネーイズパワーシステムは強いのです。グラガンナ(シュメル神話に出てくるやつ)だって召喚できます。
そしてマンパワーもマネーパワーもない場合でも、例えば公的な機関や各種NGO団体など、頼れる場所は探せばあるものです。自分で探すことが難しければ、似たような経験をしている知り合いに聞けば余程のことがない限り教えてくれるでしょう。その知り合いががんばってなんとかしちゃったとか、教えたら心臓に巻き付いた鎖が刺さって死ぬとかいう制約と誓約で念能力を飛躍的に強化しているわけではなければ。
仮にあなたが頼れる知り合いがいないぼっちだとしても、打つ手はまだあります。あなたがこの記事を読んでいるということは、パソコンかタブレットかスマホが手元にあるはずです。がんばる前に、まずは目の前の箱で調べましょう。SNSで意見を募るのもいいでしょう。SNSは使い方によっては毒にもなりますが、頼れるエロい人がいないとも限りません。
たとえ周囲にエロいだけの人しかいなくても絶望するにはまだ早いです。具体的に言うとギムレットを飲むくらい早すぎます。検索です。検索をするのです。Google先生は大概のことを教えてくれます。いのちの電話の番号とか、労基の番号とか、支援団体とか、便利グッズの情報とか、洗濯機の排水ホースの取り付け方とか。
余談ですが、僕が最近で一番がんばったことは「自分一人で排水パンの上に既に置かれてしまった洗濯機の排水ホースをつなげる」です。Google先生に取り付け方を聞いて、てこの原理で洗濯機を傾けすかさずコーヒーの空き缶を突っ込み、突っ張りポールやら何やらを駆使してなんとか一人で終わらせたのですが、翌日過労で仕事を休みました。創意工夫の点では100点満点のはなまるですが、大人しく知人に協力を仰いで洗濯機を持ち上げてもらえばほんの数秒で済んだでしょう。
がんばると、こういうことになります。なので僕は、がんばることをやめれば人生はもっと素敵なものになると思います。
Do It Yourselfも素晴らしいが、相互扶助も素晴らしいのです。そして助け合う方が、あなたの負担は減ります。割り算みたいなものですね。楽しいことはふたりぶん、悲しいことははんぶん。わけあって食べると取り分が減るアイスでさえ、わけあえば仲良しなのです。がんばって一人で背負って一人でアイスを食べるより、がんばらずにみんなで背負ってみんなでアイスを食べる方が幸せになれることはコマーシャルも証明しています。
まぁ、出されたアイスが雪見だいふくの場合は命を懸ける覚悟をした方がいいと思いますけどね。
がんばることをやめると、生き方がラクになる
これまでお伝えしたように、がんばることにはデメリットがあり、がんばらないことにはメリットがあります。
総合して言うならば、がんばることをやめるべき最大の理由は、「生き方がラクになるから」です。
がんばることが普通になると、がんばっている時の成果があなたの普通になります。すると、人はあなたにがんばることを求め、あなた自身もあなたにがんばることを求めるでしょう。そこから先は地獄です。フルマラソンを全力疾走するように、人間はできていません。
がんばることをやめて、等身大のあなたを見つめるのです。
あなたには、何ができますか?
あなたは今、何を持っていますか?
あなたは何を考えて、どうすればいいでしょうか?
まずはがんばることをやめて、肩の力を抜きましょう。
そこから何をどうやっていくか考えること。あなたはあなたがラクにできることだけをやり、逆立ちしてもできないことは逆立ちできる人にやってもらう。そして手持ちのリソースを使って、ラクな範囲で物事を進めていく。
がんばることをやめた等身大のあなたと出会った時に、人生が始まるのです。
それでも、がんばらなくてはいけないとき
さて、これまでいかにがんばることが割に合わず、がんばらないことが素晴らしいかを綴ってきましたが、それでもがんばらなくてはならない時があります。キリスト教が同性愛を認めるように「がんばる教」も時勢に合わせた変化をするべきですが、それでも元々の教えにいついかなる時も役立つこともあります。
人はパンのみににて生くるにあらず、マズロー先生の考えはIT技術試験にも出てきます。まぁ衣食足りて礼節を知るみたいな使い方は本来の聖書の意味ではないそうですが。僕も今調べて知りました。知の努力、大切ですね。
では、どんな時にがんばればいいのでしょうか。
これに対する具体的な答えを、僕は教えません。しかし基準となるものさしは、教えることができます。
それは、「等身大の自分ができることよりも、もっとできるようになりたい」と思った時です。
要するに、筋トレと同じです。一度筋繊維がズタズタになるまで鍛えなくては、筋肉は発達しません。つまり筋肉持ちはドMだから受けとはびぃえる時空でまことしやかに囁かれる教えですが、あなたが「ドMになってもいい、力が欲しい」と思ったことに対しては、がんばるべきなのです。
しかし何もしないよりは軽いストレッチをするだけでも筋肉がつくように、何もかもをがんばる必要性はありません。そしてズタズタになった筋繊維は、休めなければ太くなることもありません。あくまで用法・用量を守り、適切にがんばることが重要です。それを冷静に見極める自信がないうちは、がんばらない方がいいでしょう。
がんばらずに生きることだって、充分なトレーニングになるのです。全く何もしないことと比べれば。そしてこの場合の「何もしないこと」とは、「生きないこと」と同じ意味を持ちます。
あなたが今、生きていること。最低限の食料を口にし、今日着るだけの衣服を着て、この記事を読める場所にいること。
それだけで、トレーニングの真っ最中です。
あなたが何をがんばらず、何をがんばって生きていくのか。
それは、あなたが決めることです。
まずは手始めに、がんばらないで生きることを始めてみましょう。
以上、新興宗教の教祖になってお布施で生活したい人のありがたい(かもしれない)話でした。お布施と信者は随時募集中です。プロフィールにほしいものリストがあるので、貢ぎ物をしたい方はそちらをご確認いただけますとと幸いです。
本日の説教はこれにて終了、あるかもわからない次の説教でお会いしましょう。
ご清聴まことにありがとうございました。