「醤油味のおかきと塩味のおかき 橘さんのお話(前編)」公募インタビュー#39
〈橘さん(仮名) 2022年6月中旬〉
今回のインタビューは、特にテーマを設定せずに始まりました。私は橘さんの人となりを知りたいと思い、まずはご家族や子供時代のことからお聞きしていきました。
地下鉄の風
──ごきょうだいは?
橘さん ひとりっ子です。
──どういった幼少期でしたか?
橘さん 生まれ育ったところは田舎で……と言いつつも、本物の田舎ではないかもしれないです。山奥とかではない、っていう感じです。とは言え、コンビニエンスストアとかスターバックスが身近にあるわけではなく、私が小学生になってからやっとコンビニというものが町にできたら、朝の6時から100人ぐらい行列ができる、みたいになっちゃうし(笑)、スターバックスが初めて町に来たのは高校生になってからです。
そんなふうに都会にあるものができるといちいちイベントになる町だったんですけど、それはそれで楽しんでましたね。変な話、そのぶん人よりも楽しいことがいっぱいあるわけですから、今となっては、そっちのほうがラッキーだったというか(笑)。
大学生になってから都会に来て、生まれて初めて地下鉄ってものを経験したんですね。その時も、地下鉄がホームに入ってくる時にフワーッって風が吹く、あれに感動したりとか(笑)。地下鉄の駅に入る時に、道路から階段を降りていくパターンあるじゃないですか。それ自体、なんか秘密の迷宮みたいなところに入ってくみたいな感覚がちょっとあって、「これ入っていいの?何があるの?」くらいの、とんでもないワクワク感があって。感動して、実家に電話して「お母さん、風が吹いたの!」みたいな(笑)。そんな感じでした。
大がかりな工作は、ひとりで
橘さん そういう環境で育ち、(小さい頃に)やってた遊びは、一輪車に乗る、公園で走り回る……あと、家でひとりでものを作るのがすごく好きでした。絵を描くことや工作のさらに発展バージョンで、段ボールとか新聞紙とか粘土とかを組み合わせて等身大のマネキンを作ったりとか(笑)、そういうこともしてましたね。
──外ではお友達と走り回って、おうちでそういうものを作る時はひとりで?
橘さん ひとりだし、友人にも誰にも作ったものは見せませんでした。けっこう変わったもの作ってて。等身大のマネキンも、見た目ちょっと不気味なんですよ。粘土と新聞紙を丸めたものの中に針金を通したりして、大人くらいの大きさの人型を作っていたんですね。
家族も「この子また変なもの作って!」みたいな感じだったし、おかしなことをしてるなって自分でもちゃんとわかってたんで(友人には見せなかった)。なぜ作ろうとしたのか謎なんですけど、ふと思いついたら作っちゃうタイプだったので。
あと、隠れ家を作ってたんですけど、それも本格的で。まあダンボールで家っぽいのを作るとか、けっこう男子はやったりすると思うんですが、それの行き過ぎた感じというか。4畳半の半分ぐらいのスペースをとるぐらいのプレハブ的なものを作りたくなってしまって、ダンボールの他にベニヤ板とかも使って。隠れ家を作ってたのは、幼稚園から小学校低学年の頃ですね。
そんな感じで、ちょっと大がかりなものを作りがちでした。やれ折り紙とか、切り絵や貼り絵とか、そういうのももちろんやるんですけど、そういうものからちょっと大きなものまで、幅広く。
ノッポさん(※)とかもすごい好きで。
今振り返ったら、よくあんなの黙々と作るなって自分でもちょっと思うんですけど。
あと、壁新聞を作ってました。身近に起こった出来事を新聞みたいにまとめて、勝手に台所とかに貼って去っていくみたいな(笑)そんなことをやってましたね。
──マネキンを作っていたのも、隠れ家を作っていたのと同じ頃ですか?
橘さん マネキンは小学校中学年ぐらいですね。
あと、猟奇的な意味はまったくないんですけど、おばあちゃんの影響でテレビのサスペンス番組が大好きで、それで見た殺人現場とかも再現しちゃったりしてたんですよ。だから親からけっこう「この子やばい。猟奇的なんじゃないか」って疑いをかけられたりしました(笑)。「家政婦は見た!」(※)とかで見た殺人現場的なものを、折り紙とか絵の具とか画用紙とかで再現して、お母さんが仕事から帰ってきて「キャー!何これ!?」みたいな感じにいつもなってました(笑)。
──驚かすのが目的というわけではなく?
橘さん ああ、でも、驚かせたいのもけっこうあって。エンターテインメント性を追求してたっていうか。たまに自分が死んだふりして死体役になって、自分の周りに白い線を引いて、近くに絵の具で作った血痕がぽたぽたぽた、みたいなことを(笑)してましたね。
──大かがりな(笑)。ちゃんとやってますね。
橘さん ちゃんとやってました。
皮膚に残る父の記憶
──お母様がお仕事をされていたんですね。共働き?
橘さん 父が子供の時に病気で亡くなってから、母の実家に引っ越したんです。だから、途中から母と母の両親と私、そういう家族構成ですね。
──お父様は橘さんがおいくつの時にお亡くなりに?
橘さん 幼稚園に上がるかどうかぐらいの時ですね。
──お父様の記憶は?
橘さん 記憶の数はたくさんはないんですけど、ある記憶に関しては、妙に鮮明なんですよね。その鮮明度合いっていうのが、出来事を覚えてるとかそういう次元の話じゃなくて。例えば温泉旅行に行った時の、お湯の感触であるとか、たぶん父に抱っこされてお湯に入ったんですけど、その時の皮膚の感触であるとか、そういう、普通だと生活しててもそんなに意識しないであろうディテイルを、いまだにものすごく覚えているんですよね。具体的な、謎記憶ですね。
──身体的な感覚のほうで覚えてるんですね。
橘さん そうですね、身体的な感覚ですね、まさに。雪が降ってて、雪に光が反射してまぶしかったとか、雪の色がこれくらい白かったとか、そういう記憶が無茶苦茶ありますね。
──お父様と一緒に過ごされた時間の記憶がそんな感じ、ということですか。
橘さん そうですね。出来事なり、場面なり、こういうことがあったね、っていう記憶も普通にあるはあるんですけど、プラスアルファで、肌触りとかの身体記憶が、昨日のこと、さっきのことくらいのレベルであって。そういう記憶って、今までの人生で振り返ってもそんなにないので、不思議と言えば不思議ですね。小さい頃のことだからかもしれません。
祖父の書斎で
──お父様が亡くなられて、お祖父様お祖母様と一緒に、お母様のご実家に暮らされていて、お母様がお仕事に行かれている間は、おもにひとりで工作をしたり、お祖母様とテレビを見たりしていた?
橘さん 祖父と同じ空間にいる時間も多かったですね。
祖父ももう定年退職して家にいたんですけれど、すごく多趣味な人で、でも割とインドアな趣味が多かったんですよね。油絵、一眼レフのカメラ、茶道、書道、掛け軸とか。あとカルチャースクールで日本舞踊の先生もしていたので、振り付けを考えてノートに書いたり、老人会の会長もしていたので、書き物をしたり、事務作業的なこともしていました。
そうやって祖父が書斎スペースで机に向かったり、絵を描いてたりしているそばで、自分も何か他の作業をしてるみたいな時間が、けっこう多かったように記憶してます。
──それは楽しい、好ましい記憶ですか?
橘さん そうですね。非常に好ましい記憶ですね。
祖父は糖尿だったんですけど、お菓子を引き出しとか自分の書斎スペースの隅っこに隠し持っていて。それも絶対見つからないレベルのところに隠してて、大の大人がそんなものを必死に隠すって、って今振り返ると思う(笑)んですけど。祖母は祖父がお菓子を食べたら怒るんですけど、祖父はお菓子が大好きなので、まあ自分なりのバランス感覚で時々食べていて、それをちょっとこっそり分けてくれて(笑)。祖父は茶道も趣味にしていたので、お茶を点ててくれて、それを飲みながら一緒に食べていました(笑)。
そういう時間でしたし、本棚に本や画集がめちゃくちゃいっぱいあったり、祖父が描きかけた絵がイーゼルに立ててあったり、油絵の絵の具の匂いがしてたり、カメラやレンズとかもあったので、面白そうなものがいっぱい置いてある部屋で。大事なものだっていうのもわかってるから、あんまり触りはしなかったんですけど、画材もいっぱい、色鉛筆もクレヨンもいっぱいあって、という空間でしたね。
──お祖父様と過ごされたのは、なんだか文化的な香りのする時間ですね。
橘さん 自分にとってはその当時はそれが普通だったので、文化的とは思ってなかったんですけど、後々になって振り返ると、なかなか文化的だったなと(笑)思いますね。
一緒に二人で遊びに行くこともあったんですけど、大体、美術館に行こう、とかなんですよね。幼稚園児の孫を連れて美術館に行くとか、能や歌舞伎を観に行こうとかそういう感じだったので、今振り返るとなんか、割といい環境だった気がします。
──なかなかない、いい時間な気がしますね。
橘さん 子供の時のこと、追加で思い出したので伝えてもいいですか?
──どうぞどうぞ。
橘さん 祖父は大正時代の生まれだったので、教育勅語とか戦争とか、リアルタイムで知ってるんですね。小学校の時とか、社会の歴史の授業でこんなこと習ったよとか言ったら、祖父が教育勅語を暗誦してくれたりしたんですよ。リアルに暗誦なんかできる人間が存在してるっていうこと自体がすごいと思うんですけど、当時のその時代を生きた子供たちであればできるらしくて、ああ本当なんだ、みたいな(笑)。
戦争の話は特に、焼夷弾が落ちてきて防空壕にどうのこうのとか、何々の空襲の時にはこんなことが起こってみたいなことを、戦争の語りべ的な感じで、幼稚園ぐらいからずーっと聞いてたので、それも今となってはすごく貴重な話、貴重な環境だったなと思います。
──積極的に話してくれた?
橘さん 昔の記憶の方が鮮明っぽくて、頼んでなくてもそういう昔話をすごいしてくるんですね。
でも祖母は逆に戦争の話をすごく嫌っていて、とにかく思い出したくない辛い記憶だったみたいです。祖母は昭和生まれなので、ちっちゃい時に戦争があって、祖父が戦争の話を好んでしたり、戦争映画を見ていると、理解に苦しむわみたいな感じの反応でした。
祖父はけっこう話し上手というか。だから私としては同じような話を何回されても、苦痛では全然なく、そうだったんだみたいな感じで聞いたりしていました。
あと、地元では昔、のちのち小説や映画の題材になったような殺人事件があって、リアルタイムに祖父がその事件を新聞等々で見ていたっていうのがあって、その話も、ドラマや映画を見る前にリアルな昔話や怪談みたいな感じで聞いてましたね。
──話し好きなお祖父様だったんですね。
橘さん ご近所さんとか、祖母に対しては口下手なんですよね。でも、私と二人っきりの書斎の空間では、なぜかいっぱいしゃべる。母はそれを陰で見ていて、口下手で社会的なコミュニケーションが不得意なあのおじいちゃんが、〇〇ちゃん(橘さん)と二人っきりであの部屋にいる時は楽しそうにいっぱいしゃべってる、ってすごい言ってました。
だから、まあ変な話、嫁に出した娘が子供を連れて実家に帰ってくるというのは、決して親にとってうれしいことではないかもしれないけれども、ああいうふうに孫と濃密な時間を持てたことに関しては、おじいちゃんにとってもよかったんじゃないかってことを、祖父が亡くなった後に母が言ってました。
──橘さんも、おじいちゃん大好き、っていう感じだった?
橘さん うーんとね、気を使う存在ではありました。やっぱり古い時代の人なので、家長制度みたいな概念が色濃くあって。今で言うと完全に男尊女卑なんですけど、例えば夕食のお魚の頭のほうと尻尾のほう、どっちを出すかって言ったら、おじいちゃんにお頭のほうを出して、尻尾のほうはそれ以外の人が食べるとか。一番風呂は絶対に祖父が入るとか。そういう、本当に古い暗黙の了解的なルールが平然とまかり通っていて、それを破ろうもんなら祖父の逆鱗に触れて、もう超不機嫌になるから大変だみたいな感じだったので、そういう謎の緊張感というか(笑)。
小さい頃に子供部屋ではしゃいで飛び跳ねちゃったりとかすると、二階の部屋から一階の祖父の部屋にドンドン響いちゃう。そうなったらもう、(祖父は)激ギレですね、完全に(笑)。
なので、天真爛漫に大好きとかではないけれども、なんだかんだ暇さえあれば祖父の部屋に行ってるみたいな(笑)。
けっこう楽しかったんでしょうけど、糞真面目だ糞真面目だって母もよく言うぐらい祖父は基本的に真面目だったので(緊張感はあった)。
でも、その真面目さゆえのすてきなエピソードもあって。
祖父の仕事は公務員だったんですね。祖父はいわゆる高学歴とかではなくて、どんなにがんばっても、そもそもそこまで出世できる可能性のない立場っていうか。祖父の仕事の世界は、学歴がある人、キャリアって呼ばれてる人たちが出世するんですよ。キャリア組の人達は、入ってきてすぐの頃は研修として現場で働くんですけど、しばらく現場を経験したらすぐに出世して、20代の若造が50代の人の上司にすぐなってる、みたいな構造の世界なんです。なので、キャリア組とノンキャリ組の間には溝があって、キャリア組が現場に研修に来た時も、ノンキャリのベテラン勢は、キャリアの若造のことを冷たくあしらったり邪険にしたり、嫌味を言ったり、そんな感じが当たり前だったらしいんです。でも、祖父はそういう人にもやさしく、普通にフラットに接する、そういう人だったらしいんですね。
で、祖父は定年まで真面目に働いて、私も詳しいことはわかんないんですけど、祖母によるとお仕事をがんばったご褒美として、何かが評価されて、勲章をいただくことになったんですね。で、祖父はモーニングを着て、祖母は着物を新調し、皇居で勲章の授与式に出たと。当時は昭和天皇の時代ですね。
行ったらば、ずーっと昔に祖父が親切にしたキャリア組の人が、目の前に急にサプライズで現れて「おめでとうございます」と。「あの時、僕に仕事を丁寧に教えてくださったり、分け隔てなくやさしく接してくださったのはあなただけでした。僕はあの時教えていただいたことを大事にここまでやってきました」といったことを、何十年越しで言われたらしいんです。その人はもうかなり偉くなってる感じだったらしいんですけど、その人がお祝いの言葉をわざわざ言いに来てくれて、うちの家族としては感動したというか。出世はできないかもしれないけど、そういう、祖父の人間性がすごく尊敬できるなと。そういう人間でありたいなということは、私は今でも尊敬とともに思うところです。
──橘さんのお父様が小さいときに亡くなられて、お祖父様は「(橘さんの)お父さんがわりになる」みたいな感じで接してくれたりもしたんですか?
橘さん いや、まったく。おじいさんはおじいさんですね。
──じゃあ、教育するというよりは、生活態度を見ることで教わるっていう感じですかね。
橘さん まあ、礼儀とかは厳しく言われましたね。うーん、まあ、そんなに教育っていう教育はされてない……気がしますね。
怒られたことはちっちゃい時に何回かあって。掛け軸に落書きをしたとか、そういう次元のことで、激ギレされましたね。
趣味とかを並べていくとさも文化的な人間ぽく見えるんですけど、祖父は仕事からしても、いわゆるソフトなキャラではないというか。
掛け軸に落書きをした時も、もうちょっと(静かに)言って聞かせてほしいなと思うぐらい、「ちょっと来い!!整列!!」ぐらいのテンションで呼ばれて、「やだよー」なんて逃げようとしたら、顔を真っ赤にしてすごい目で追いかけてきて、私、取り押さえられたんですよ。バーッて走って追われた末に、泥棒を捕まえる時みたいな感じで、ガッて、地面に。幼稚園くらいの女の子ですよ?(笑)あり得ないですよね(笑)。それで家に連行されて(笑)、詰められたんですよね。
そういうキレ方をする祖父だったんで、大好きって感じではないし、ちょっと距離感はあるし気も使ってるし、って感じですね。
彼は今思うと、そうとう不器用だったと思うんですよ。(祖父とは)そんななんとも言えない距離感ではありましたね。(笑)
取り押さえられたって本当、今振り返ってもあれまじなんだったんだろう……2回ぐらいそういうのあったんですよね。大正生まれの人ってそうなのかわかんないですけど、今やったら虐待だと思われますよね、普通に。(笑)
要注意な母
──お母様は、そのお祖父様の娘さんな訳ですよね。どんなお母様ですか?厳しい?
橘さん 厳しいと言うよりは、わがままと言うほうが適切かもしれません。祖父母も、ああいうふうに育ててしまって申し訳なかった、ぐらいのことを私に言ったんですよ。
──ヘえーー
橘さん ちょっとわがままなところはあるし、うーん、まあ、いい人だとは思うんですけど……配慮のない言葉や振る舞いとかがあるんで、厳しいというよりかは、彼女の、ある種の横暴さ、ヒステリックな部分に触れてしまったら大変なことが起こる、みたいな感覚ですかね。厳しいというのとはちょっと違うニュアンスかなというとこですね。
本当に、誰に似たんだろうっていうのは、常々祖母も言ってましたし、性格だったり人格だったりっていう部分で、ちょっと異質っちゃ異質かもしれないですね。
──初めての地下鉄で風が吹いて、感動してお母様に電話したというお話がありました。仲良くはある?
橘さん 連絡は取り合いますし、特に若い時は連絡は取ってたんですけど。基本的にはいい人だし、すごくちゃんとした人だと思うんですけど(笑)、時々ヒステリーっぽくなって、その時手がつけられない、かなり厄介っていうのがまずひとつ。
あのー、醤油味のおかきと塩味のおかきがセットになって小袋に入ってるお菓子が、小さい頃家によくあったんです。彼女は醤油味が好きなんですね。すると、2枚1組で小袋に入っている、塩味のほうを絶対に食べないんですよ。別に食べられないわけではないけども「だってほしくないんだもん。嫌いだもん」って言って。だから、2枚1組で小袋に入ってるのに、塩味1枚だけ残した状態のものが10個も20個も生産されるわけですね。それは、私の感覚だとすごくお行儀が悪いっていうか。
あと、スイカを切った時に、三角形になってる一番上のとこが一番甘いじゃないですか。そしたら、「先っぽだけ食べたい」とか平気で言い出したりするんですよ。本当この人意味わかんないって思って(笑)。なんていうか、どこの国のお姫様だよみたいな感覚で。
で、私、そういう時にどうしてたかっていうと、彼女が残した塩味のおかきをずっと食べてるんですよ。ま、食べろとは言われてません、言われてませんけど、私の判断で、こんなことしちゃいけない、誰かが責任取らなければ、誰かが尻拭いというか、何かしらケアというか、補填しなければというか(笑)。塩味のほうを自分が食べさえすれば丸くおさまるみたいな発想がどっかにあって。それは“ビックリマンチョコのシールがほしいからってビックリマンチョコ買ってシールだけとってお菓子を捨てちゃう現象”に近しいんじゃないかという感覚がなんとなく私の中であって、私はずっとその塩味のほうのおかきを後から回収して食べてて。で、お母さんは「〇〇ちゃん(橘さん)は塩味のおかきが好きなのね。じゃあちょうどよかった」みたいなことを言ってるんですよ。「いや、私は別に塩味が好きなわけではないし、嫌いなわけでもない、醤油味が食べたい。けれどもあなたがそういうことをしてるから私が塩味を食べる羽目になっている」みたいなことを、ある日、小学生ぐらいの時に説明したんですね。そしたら「え、そんなことしなくていいのに。真面目ねー。そういう性格なんだ、あなたって」みたいな、他人事みたいな感じで言われたりとか(笑)。
あと、なんだろうなあ、まあ彼女はけっこう顔が美しいんですね。で、若い時から「かわいいね」と異性に言われるような世界観で生きてきたんでしょう。うちの父も割と美しい顔というか、まあ、鼻筋も通ってるし、目も一重寄りの大きな目というか、大沢たかお的な分類の顔なんですよね。だから、母の中では、「私と彼の子供だったら、このぐらいかわいい赤ちゃんが生まれてくるに違いない!」みたいな想像があったらしくて、生まれたら想像と違ってかわいくなかったからびっくりした、ということを言ってくるんですよ(笑)。しかも普通に、淡々とというか、笑いながら「あははは、なんでこうなったんだろう?なんでこんな顔で生まれてくるんだろう?と思った。すごい期待外れだったからさー」みたいなことを天真爛漫なテンションで言ってきて。それも私からしたら「え、この人よくそんなこと言うなあ」って、子供ながらに思ったりとか。
悪い人ではないし、ちゃんと真面目にこつこつやることはやるんだけども、なんか時折見せるサイコパスというか(笑)そういうところがあって(笑)。
その辺がまあ、よく言えばユニークで面白いともとれるけど、私としてはそうもとりきれないところがあるので、今は距離を置いています。
私は、(一人暮らしを始めた後)実家に連絡するのも大事かなと思って、けっこう頻繁に電話で話した時もあったんですけど、ある日、親戚の集まりで母に「〇〇ちゃんがいつまでも親離れしてくれなくて、よく電話してきて、ちょっと迷惑なんですよねー」みたいなことを言われて(笑)。私、けっこう母の愚痴を聞いたりしてた時もあったんですけど、親戚の人にそうやってオフィシャルに「困ってるんですよね、もう、本当あの子って」みたいな感じで言われたので、そういうふうに言われるんだったらもう電話しなくていいかなと思って、そこから年に2回ぐらいしか電話しなくなった時があったんです。そうしたらそうしたで「滅多に連絡してこないから心配してた」とか言われて、もうどうせえっちゅうねんみたいな感じになりました。
母はそういう人間です(笑)。
──橘さんはけっこう冷静にお母様を見ている感じがするんですけど、感情的になって喧嘩したりはしないんですか?
橘さん ないですね。母は喧嘩をする対象ではないと、これはたぶん幼稚園ぐらいから既に私は思ってました。おかきのくだりとかもそうなんですけど、私からしたら、幼稚園の時からもうずーっと、ちょっとこの人幼いなって思ってたんですよ。幼いなっていうか、おかきを好きなほうだけ食べるとか、そういうのってぶっとんだ次元で自分の価値観とは違うし、たぶん、(自分とは)折り合いがつかないんだろうなっていうのを肌感覚でずーっと思っていました。ある面では、心を開いたことがあまりないかもしれません。まったく自分とは違う価値観を持った、別の人?っていう、冷静な見方をしてしまうというか。
おかきの件だけじゃなくて、他にもいっぱいそういう類の話があります。
例えば、私が大学生になって、バイト代で一生懸命母の日のプレゼントとかを買ったとしても、それが彼女のほしいものではなかった場合には、「いらなーい」とか、「えー、これなんだー」みたいな反応をするとか。そういうの、けっこう普通にあるんですよね。
あと、思春期の時期、小学校高学年ぐらいの時に「ねえ、整形したら?整形した方がいいよー、だってその顔だと何とかかんとか…」みたいな、そういうことを言う(笑)。
もうね、私には、この人と喧嘩するっていうのはないなっていう感覚でしたね。やり過ごす。または、過度に調子に乗らせないように、たまにパッと言い返したりはしますけど。
大人になってからも、結婚に関する話をしていたら「女の人は子供を産んで初めて発言する権利を持つ。そうじゃない人にそれはない」みたいなことを、さらっと言ってみたり。今時そんなこと、炎上するような発言だと思うんですけど(笑)。
あまりにも異次元すぎる。そして他人なら「え、この人何言ってんの、やばいじゃん」で終わるんですけど、身内なんで、なんせ。やっぱり言われたことや発言に疲れる、傷つく、っていうのが当然発生するので、そういう意味でも喧嘩なんてする目的が生まれない。なるべく悪い状況を発生させないようにやり過ごす、っていうほうに自分は回ったので、喧嘩っていうのはないですね。(笑)
(「純白と漆黒 橘さんのお話(後編)」に続く!)